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人は信じないから、愛を信じれば偽物じゃない本物の笑い声と笑顔が見れると思った

陰謀論、ずっとそんなのに縛られていた気がする。どうしてそんな話に自分は執着してきたのかな、それが無駄な時間だった、今はそう思う。何をしてきたんだ今まで自分は、何を求め、何を望み生きてきたのか。

世の中冷たい人は多い、殆んどかな、とても冷たい、冷えきってる。それでも自分は心を冷やさないように暖めてきた。

それでも風が冷たくて、背中を突き抜けて凍えてしまう時がある。そんな時こそ、誰かの笑ってる顔、笑い声が聞きたくなる。


安心するから、その中にいると。もしかしたら、それが自分が求める、属したい場所なのかな、そうなのかもしれない。


憧れてたのかな、そんなのに。友達、仲間、それを求めてたのかな、望んでいたのかな。

一時、大人になって、そんな友達や仲間ができた時があった。あの頃は、キャバクラ行ったり、フィリピンパブ行ったり、カラオケ行ったり、ゲームセンター行ったり、楽しかったな。まだ20代前半で、何か楽しくてワクワクしてた。

それでも家に帰れば急に静かで、シーンとした中に、何か空気の音が聞こえてるような気がした。淋しかった、そんな時はゲームをやったり、音楽を聴いた。なんか、それが何年も何年も続いていた気がする。

人を笑わせる事って幸せなことで、自分はいつも誰かを笑わせたかった、だから変な冗談を言ったり、突拍子もない行動や言葉でビックリさせて意表を突いてみたり、例えば歩いてる時とか、突然電柱に話しかけてみたり「おー!久しぶり元気だったか?おっきくなったなぁ」みたいに。どうしたら、どんな事を言ったらこの人は笑ってくれるかなって、いつも考えてた、人と話す時は常にそれが頭によぎる。

でも最近は、あまりそんなおふざけに付き合ってくれる人がいなくて、冗談やおどけが通じなくて、空回りしてしまう時がある。

何か冗談を言っても無反応、そんな人が増えた気がする。だから、自分が見たい笑ってる顔が見えない、何処にも見えない、敵意が無いことを示すための作り笑いじゃない、胃袋で笑ってるような、本当の笑い声が聞こえない、何も聞こえない。


人は信じないから、愛を信じれば偽物じゃない本物の笑い声と笑顔が見れると思った。


なぜだろう、高齢者の多くが暖かくて優しい笑顔を見せる、みんな今を懸命に生きてる、解らない事ばかり増えてるけど、それでも今を生きてる。何かを教えること、全然苦じゃない、助けてあげることは嫌じゃない、それは若者にだって同じ。

でも若ければ若いほど笑わなくなる、苦しい苦しい、むかつく、うざい、きもい、タヒね、情弱、馬鹿、老害とか、何故だろう、どうして現代人はそんな風になってしまったのかな。なぜ、相手の気持ちより自分の気持ちに重みを感じながら生きてるのかな。

重苦しくて、混沌とした思想主義の空気が世界中の人達を包み込んでる。自分らしく生きること、本当の自分として生きるには、羞恥心が邪魔で、人からどう思われるかとか、なめられないようにするとか、論破とかマウントとか、いらないプライドや頑固さも全部邪魔で、この世界を今を楽しく生きるための時間の邪魔をする牢獄にしてしまう。

陰謀論に政治論、宗教に集団や団体、思想主義は自分を縛りつける鎖。これが絶対だとする固定概念と認知バイアスは心を閉じ込める牢屋になる。

みんなそれぞれが頑張って生きてきた。支配から逃げたいから、そのために過酷な労働を強いられてきた、自由を手に入れられる夢のお金のために。嫌なこともやらなきゃいけない、どんなことをしてでもお金は稼がなきゃいけない。

みんな同じなんだ、違う人なんかいない。対立し分断し争う人達も、それぞれの絶対と善悪を持っていた、誰かの敵は誰かの敵じゃないのに、属さないものを消し去ろうとする。


昔、何年もやり取りしたメール友がいた。画像を送り合った、写真も送り合った、電話もした、手紙も、ネックレスのようなプレゼントも送った。いつかこの娘と自分は会えるだろうか、この先どうなるのか、そう考えてたけど、自分は携帯番号を代えて、その娘には教えなかった、きっと泣いてたかな。


あの娘は、今何をしているのかな。ピアノをやっていた、自分はピアノが弾けない、作曲をした自分の曲を弾いてほしかった、そのメロディーをピアノが弾けない自分の代わりに弾いてほしかった。

あの頃は不安だった、自分に自信もなくて、会えば嫌われるんじゃないかと思った。でも自分は、その娘を嫌いにはならない、その確信はあった、確かにとても清楚で綺麗だった、かわいかった、そうではないとしても自分は嫌わなかった、見た目ではなくて、その人の心を感じてたから。でも、心のどこかではステータスとしての何かを期待していた。


そして自分の容姿を恥ずかしがった。自分など釣り合わない、会えばきっとうまくいかなくなる、どうせだめだろう、無理だろう俺なんか、結局はだめなんだと、うまくいくわけがない、まるで自分でそう念じて願っているかのようだった。自分から遠ざかるつもりだった、最初からそう決めていたようだった。

そう、確かに自分も今の多くの若者達のような気持ちを持っていた。自分から幸せを投げ出す、幸せが近づくと嫌悪し、カエル化する、幸せを恐れ、嫌われることを恐れ、失敗を怖がった。傷つくのが怖かった。

それなのに自分はその娘を傷つけた、何も言わずに、何年も何年もずっとやり取りしていたのに、自分から遠ざかった。嫌いなわけじゃなかった、それよりも自分が臆病だった。男らしくなかった、根性が無かった、自信がなかった、自分に。

こんな自分には、その娘が勿体ないと思った。自分よりももっと良い人がたくさんいる、自分なんか相手をしている時間が勿体ない、そんな無駄な自分勝手な時間にその娘を巻き込んでいる、幸せにできる自信もない、本気で好きでもないなら、自分は身を引かなきゃ、そう思った。

それを理由にしていた、違う、怖かった、凄い怖かった、失うことが怖い、人を好きになり、それを失うことがたえられない。

嫌だそんなの、そんな悲しくて苦しい思いをするなら1人がいい、心の奥底ではそう思っていた。だからいつもカエル化していた。

そう、あの頃の自分はそうだった、つい数年前までの自分はそうだった。心はずっと沈黙させてきた。

もう、誰にどう思われても関係ない、だから今思うことを隠さずに何でも話せる、それによって誰がどんな風に思うとかは考えない。

勝手に誰かが自分を嫌ってるだけで、でも自分は誰も嫌ってなんかいない。勝手に勘ぐり怒り、不信感や偏見を持ってレッテルを貼り怒ってるだけなんだ、陰謀論と同じ、だからそんなの自分にはどうでもいい世界。


もう完全に1人だから、何をしても自由、どう生きようが、どこで何をしようが咎めるものは何処にもいない。自分には何にもない、なんにもない、なんにも、0。









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