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「もったいない」という言葉。-アダルトチルドレンを克服した話-【エッセイ】

「アダルトチルドレンを克服」なんて書くと、日本語として変な感じがしますね。

あなたは、どんな家庭で育ってきましたか?

アダルトチルドレンとは、機能不全家族の中で育ち、生きづらさを抱えたまま大人になった人のことです。機能不全家族…。我が家が機能不全家族だったのかというと、正しくそうなのだろうと、思います。

「私もアダルトチルドレンかも」
「アダルトチルドレンってなに?」

っていう人に、ぜひ読んでもらいたいです。アダルトチルドレン。どういう経緯で、どんな気持ちを抱えながら育ってきたのか。今、何に困っているのか。私の経験と、克服した話を書いていきたいと思います。

祖父・祖母・父・母・兄・私・弟・妹。家族は8人。

注意書き
このエッセイには、プライバシー保護の観点から、実際の出来事や登場人物の詳細を変更した部分があります。また、個人や所属団体が特定されないようにするため、一部のエピソードや名称は創作されています。この点を理解しながらお読みいただければ幸いです。

弟という存在

弟は自閉スペクトラム症。姉の私が世話や教育を担うことが多く、責任を常に背負っていました。どこへ行くでも私が手をつなぎ、「決して手を放してはいけない」と言われていました。ショッピングモールのど真ん中。「食品の買い物をしてくるから待っててね」と親に言われ、2歳年の離れた弟の手を握って待っていました。母が戻ってくるまで30分。弟は大好きなトーマスの絵本が見たくて本屋に向かおうと、私の手を引っ張ります。その力は「本気」です。相手の様子を伺いながら、構ってほしくて力加減をしつつ手を引っ張る子どもとは違います。言葉になっていない大きな声も出します。周りの目は気になる。通りかかった大人に「大丈夫?」と声をかけられることもありました。

「大丈夫です。お母さんを待っているだけなので。心配をかけてすみません。お気遣いありがとうございます」

当時7才です。
周りの大人に対しても、年不相応の大人びた態度を取ることが多かったのです。「しっかりしてるね」「大人よりちゃんとしてる」「良いお姉ちゃんだね」と、何回も聞いた言葉です。

弟が私の話を理解できるようになり、落ち着いて待っていられるようになったり、母に相談して「一冊だけ買う」という約束にしたり、そういう手立てを私が考え付くまで、このやりとりは何年も続きました。

私が高校3年生になった頃。地元の中学校を卒業した弟は、特別支援学校に通い始めました。私は当然のように弟の送り迎えをしていました。「私がしなければならない」そう思っていました。「弟は周りに困ったことがあっても話せない。私が送り迎えをするべきだ」とも思っていました。この頃には「弟のために生きることが当たり前である」と思い、それを信じて疑わなかったのです。

20歳のとき、10歳の自分から送られてきた手紙。
小学校の時の先生が送ってくれました。
ここにも、自分の将来ではなく、弟のことが書いてあります。

進路は

高校では理系に進み、「大学は、工業系のところへ行きたい。機械が好きだし、エンジニアみたいな仕事に興味がある」と母に話したところ、「いいよ。オープンキャンパスへ行ってみよう」と連れて行ってもらいました。大学を見て回り、帰り際に配布されていた大学のパンフレットを「高校で事前にもらったし、いらないかな」と思い、受け取らずにいると、母が大激怒。「なんで受け取らないの!ここまで連れてきてやったのに!!あんたはやっぱり工業系なんて興味ないんじゃない!!」と。怒られたことに対して驚き、「お母さんが怒っている。自分が全部悪いんだ」と、落ち込みながらも、受け取らなかった理由を説明しても聞く耳は持ってもらえませんでした。私は「母に反抗してはいけない」「悪い子だと思われたくない」という気持ちでいっぱいでした。

家に着いた後、落ち込んでいる私に母は、「本当にしたいこと、違うんじゃない?本当は人の役に立つ仕事がしたいんじゃない?福祉とかはどうなの」と優しい声で話しかけてきました。もう「エンジニアになりたい」なんて言える雰囲気ではありませんでした。ここで言ってしまえば、また母は怒る。

(本当の気持ちは言えないんだ。我慢するしかない。むしろ福祉に進みたいというのが本当の気持ちなのかもしれない。お母さんは私のことをよくわかっているし、お母さんの言う通りかもしれない)

「そうだと思う。福祉がいいな」

翌日、学校で「理系から文系に変えます」と先生に伝え、3年生からは文系の授業を受けることになりました。

「特別支援学校の先生になるね。弟のために、福祉も勉強したいから、教員免許と福祉系の資格が取れる大学に行くよ」母と約束して、私は福祉系大学へ進学を決めました。

父という存在

少し時期が戻ります。中学生の頃に祖父が亡くなりました。祖父は母に対して束縛をするタイプの人でした。遊ぶお金を与えず、祖父がしていた自営業の手伝いだけをさせていました。祖母は何も意見を言わない人でした。その祖父が亡くなり、母は、束縛から解放され、自由に仕事をし、稼いだお金で遊ぶようになりました。ゴルフが好きで、ゴルフ用品を買い、仲の良い人たちと泊りでゴルフの大会へ出かけることが多くなりました。仕事も自営業の手伝いをやめ、新たに他の仕事を外でするようになりました。そうして過ごしているうちに、父は「今日も母さんいない」「昨日もいなかった」「今日は母さんいないから、みんなで焼きそば作ろうか」「今日も、焼きそばか」と、日に日に元気がなくなっていきました。

父は祖父の自営業を継ぎ、祖父が亡くなった後も、24時間営業のお店を昼も夜も見てくれていました。店舗の隣にある部屋で睡眠を取り、インターホンが鳴れば起きる。そんな生活です。

「母さんはもう帰ってこない」と、子どもに向けて呟くことも増えました。母は毎日帰ってきています。それでも父は「帰ってこない。浮気してるんじゃないか」と冗談めかして言い始めました。「仕事だから仕方ない」と母が言い返す日もありました。

元々、父は寝言で叫ぶタイプの人でした。「やめてくれー!!」と。その叫び、苦しんでいる声が日に日に増え、父はとうとうアルコールに手を出しました。毎日浴びるように飲み、ふらふらに。

村の夏祭りの日、父は「店があるから」と留守番。「お前が大学に行くことになったら、祭りに参加できることはもうほとんどなくなるんだよ。だから楽しんできな」と祭りに向かう準備をしている私を玄関で呼び止めて、珍しくしんみりと話す父。そして、祭りから帰ると父はいなくなっていました。警察に捜索願を出し、近くの山で発見されました。

「なんであそこにいたのか覚えてない…」と父は言っていました。手にはお店のレジにあったお金をすべて持っていました。

それから、父はさらにアルコールを浴びるように飲み、学校から帰ると、店の中で倒れていることもありました。父の倒れている横には灯油が入ったケース。

家の裏には、首つり用の縄。これに関しては、見つけた瞬間、寒気がして近所の頼れるオジさんに相談して外してもらいました。

それから何度も、父が行方不明になったり、自殺未遂をするようになったり、「俺がいなくなればいいんだ」と行動がエスカレート。

母は、「お父さんを治してあげたい。あなたももう少し我慢してくれる?お父さんを病院に連れて行こうと思う。頑張りたい」と言っていました。

最終的に、「俺がいなくなるなんて、違うだろ。俺はおかしくない。お前がおかしいんだ。お前がいなくなればいい」と母を攻撃するように。私は、家中の窓ガラスを割って回っている父から、母を逃がし、弟妹を近くにある離れの家に逃がしました。窓ガラスを割る音がなくなったころに、家に入り、父のいるリビングへ。父はこたつで静かに横になってテレビを観ていました。

散らばったガラスを踏んでもあまり刺さらないように、そーっと歩き、父の隣に座りました。

「お父さん。お父さんは、私のお父さんだよ。お父さんは一人しかいないんだよ」

と言って手を握ると、

「大きくなったなぁ」と、言って眠ってしまいました。

私は父のごつごつとした大きな手を握って、手のひらの皺を眺めていました。もう会えないかもしれないから、父の手を覚えようとしていたのです。

しばらくして父から離れ、避難した母の元へ。

「母さん、もう離婚してほしい。父さんのためにも。母さんのためにも。弟・妹のためにも。離れるのが一番だよ」

そう伝えて、やっと母は決心し、父と離婚をすることになった。高校1年生の春でした。兄は、他県の大学へ進学し、家にはいませんでした。兄は離婚する時に初めてこの一連の出来事を知ることになります。

父と大学生活

私が通うこと決めた大学は、実家からは通えない遠方。
母から提示された条件は「一人暮らしは心配だから、父と暮らすこと」。

2年ぶりに再会した父と一緒に暮らすことになりました。奨学金を満額借りて生活費は父と折半。アルコール中毒になり、働きながらも苦労し、相変わらず寝言を叫び散らす鬱状態の父との生活が始まりました。

父はトラックの運送業を仕事にしていました。運転が仕事なので、乗る前にアルコールのチェックが必ずあります。夜に飲み過ぎるとチェックに引っかかるようで、父は平日は3缶しか飲まないと決めていました。2回ほど会社に注意されたと項垂れていました。翌日に仕事がない日は、泥酔して道でコケて、ケガをするほど飲む。泥酔した日には「俺は父親じゃない」「俺はいらない人間なんだ」と私に言い続け、母の話題は絶対にNG。父に気を遣い、励ましながら生活をする毎日でした。

大学では、奨学金を満額借りてまで通っているので、必死に勉強していました。4年間で取得した単位は196単位。毎年、取得できる単位数Maxで授業を受けていました。その授業の合間に、アルバイト。パン屋、ガイドヘルパー(資格を取りました)、ショートステイ・グループホームの世話人など。毎日、忙しなく働いていました。

母から「実家のお金足りないから、貸して」と言われることも多々ありました。アルバイトで稼いだお金を母に送ることも。多額を請求されたときには「奨学金の分も貸すことになってしまうから、無理だよ」と伝えても、「あんたは弟がご飯食べれなくてもいいの!?」と大事にしている弟の名前を出され、渋々奨学金からお金を渡していました。実家で営んでいた自営業は儲からなくなり、父もいなくったので、母は生活費に困っていたようです。

私を変えてくれた大学教授

「毎日しんどいな」と体では感じつつも、「しんどさ」を心で気づけずにいました。

大学2年生の夏。福祉の実習に行く人は、筆記試験と面接を受ける決まりがあり、面接を受けることに。その面接が私に「アダルトチルドレンであること」を気づかせてくれました。

教授「なぜ福祉系の仕事がしたいの?」

私「きっかけは弟でした。人の役に立てると思って」

教授「どこで、どういう仕事がしたいの?」

私「実家のある地元に帰って、弟が暮らしやすい地域にしたいです」

教授「それって、君のしたいことじゃないよね?それに、君がしなくても大丈夫だよ」

そう言われ、言い返せず、面接室から出てきて号泣してしまいました。周りに面接待ちの人たちがいる中。

その時は「なんであの教授はあんなこと言うんだ!!私が本当にしたいことは、本当に実家に帰って…。私がしないといけないんだ!!無理だよ!!」と怒っているような、悔しいような、言われたことを受け止められずに、葛藤した涙だったのです。

教授は見抜いていたのです。私がヤングケアラーとして家族を支え、生きてきたアダルトチルドレンであることを。

数か月悩み、大学の帰りに立ち寄った本屋で『家族という病』という書籍が目に入りました。

読んでみると、「家族とは、利害関係である」「家族のために生きる必要はない」「家族に縛られ過ぎている世の中である」「母親の世話は子どもがしなければいけない理由はない」というような内容でした。
「教授が言いたかったことは、これなんだ」と気づき、私はここから少しずつ変わりたいと思うようになりました。

家族のために、自分の人生を犠牲にしようとすることが正しいという捻れた価値観は薄れてきたのです。

「すぐには変われないけど、気づけたから、少しずつ変われるはずだ」そう思って、母や父に対する態度を変えました。

父の鬱を克服

「俺は父親じゃない」と言って、休日はアルコールに溺れ、子ども相手に慰めてもらおうとする父。

「あなたは父親だ。私の父親はあなたしかいない」
「父親じゃないなんて、もう絶対に言わないで。私はそんなこと言われたら傷つく」

父が嫌な気持ちになってもいいから、自分の気持ちを伝えるようになりました。今まで親に対して気を遣い、言えなかった言葉も伝えられるようになりました。絶縁されてもいい。言いたいことは伝えるんだ。

それから父は、徐々にお酒の量が減り、泥酔することがなくなりました。落ち込んで私相手に慰めてもらおうとすることもなくなりました。私が父を父であると肯定したことで、大きな変化があったのです。

父は、鬱によるアルコール依存を克服しました。

そして大学卒業後、私は父と離れて生活することに。

弟との関係

社会人になっても、「弟のために〇〇しないと絶縁するぞ」と言いながら金の無心をする母でしたが、「はいはい。わかったわかった。必ず返してね」と聞き流したり言い返すことができる、成長した私がいました。

弟のことは今でも大切に思っています。弟のおかげで、障がいのある子どもへの関わり方や、考え方を学ぶこともできました。弟は、いたずらもしなければ、相手に嫌なことをしようとする人でもありません。私にはとても好意を持ってくれていますし、私が甘えたいときには甘えさせてくれたりします。弟にお菓子を買うと、「おねえちゃん、おかし」と手にお菓子をもって私に半分くれたりします。USJに連れて行ったときには「USJ、またこんど」と言います。「また行きたい。楽しかった。ありがとう」という気持ちが伝わってきます。

弟のために生きることはやめました。なぜなら、弟は「自分で生きられる」からです。私一人が助けなくても、弟を助けてくれる人はたくさんいます。福祉の人たちが助けてくれたり、妹や母がいます。兄もいます。地域の人もいます。一人で支える必要はないのです。そして、弟も誰かを支えて生きています。私も支えられています。母が家にいて生活できているのも、弟が支えてくれているからでしょう。

学校の先生になり

23歳。新卒。特別支援学校で講師として働き始めました。地元ではありません。弟のためではなく、「ガイドヘルパーやホームの世話人というアルバイトを経て、先生をやってみたい」と思ったからです。

しかし、ここで新たな問題が発生します。

アダルトチルドレンとして生きてきて、家族に対して距離を取れるようになってきた頃。私はまだ、アダルトチルドレンとしての自分の弱さに気づいていませんでした。

・指摘に対して、落ち込み過ぎる
・自分に自信がない
・指摘されたら自分のすべてが否定されたと感じてしまう
・間違ったことを言われても、自分が悪いと思ってしまう
・パワハラを受けても、相手は自分のために言ってくれているんだと思ってしまう
・自分以外の周りの人すべてが、自分に想像できないほど賢い人なんだと思ってしまう
・八方美人になってしまう。周りの意見や評価を気にしすぎてしまう
・落ち込むと、落ち込んだままになり、なかなか立ち直れない

これらを克服できていないまま、仕事をし始めました。他人に対してのコミュニケーションにおいて、私はまだ弱さを克服できていなかったのです。

実際に仕事をしている中でパワハラを受け、「あの生徒が私に指導され、怒られているのは、担任のあなたの指導が悪いからだ」「講師のくせに言い訳するな」「あんたのせいで、あの子はダメになる」と怒鳴れるのは日常茶飯事。授業を前に立ってしている時も、教室の後ろから「手を膝に置いていない子がいるでしょ!!ちゃんと見て指導しなさい!!!」と怒鳴られます。子どもたち全員が、プリントを書き終えた後に、手を膝に置かなければ話を進めてはいけないと、私が怒鳴られながら指導されるのです。管理職に訴えても助けてはくれません。「あなたはどうしたいの?」と聞かれるだけ。衰弱している私は「あの人は私のために言ってくれているので…私が出来ないからだと思います」「私のせいで子どもたちが成長できていないので…」としか返答できませんでした。母に対する態度と同じです。自分に自信がないのです。

この学校で2年勤務し、頼れる上司に「もう無理です。他のところへ行きたいです。講師なのに、こんなこと言ってすみません」と相談し、別の学校へ。上司は「講師なのにとか言わなくても大丈夫だよ。いつも頑張ってくれているのは知っているから。本当にありがとうね。身体を大事にして」と励ましてくれました。

新しい学校での1年目。パワハラはなく、徐々に回復していきました。授業を前に立ってしている時、他の先生から何を思われているんだろう…と怖がってしまうときもありました。そう思って怯えてしまうのがストレスで「教師は向いていないかもしれない」と思う時も。しかし、この学校では誰も酷い言葉はかけてきません。「この授業のここがよかったよ」「これをやってみたらいいかも」と肯定か提案をしてもらえるのです。頑張って取り組んでいるうちに、子どもたちからの反応も良くなり、少しずつ自信を取り戻していきました。

教員採用試験に合格し、教諭に。

同じ学校で勤務することになり、ほっとしました。

それから4年かけて、自分自身の弱さを克服しようと努力しました。

「もったいない」

自分の弱さを克服しようとして、頑張っても頑張っても、人の言葉で一喜一憂してしまう自分に嫌気がさしていた時。とある先生が「落ち込んでたら、もったいないで」「怒ってたら、この時間、もったいないで」と言葉をかけてくれたのです。

「あ、たしかに、もったいないかも」

今この時間、切り替えて、楽しんでいる方がいいかも。

そう思うようになってから、落ち込んだときに「もったいない」と声に出して言うようにしました。

声に出した後は、切り替えて「今から何しようかな~」「あのアニメ見ようかな」「帰りにおやつ買って帰ろ~」と今から何をして楽しむかを考えるようになりました。仕事中も「イライラするのもったいないし、他の仕事終わらせちゃお~」と切り替えられるように。

落ち込む時間が減ると、
・周りの目を気にする時間が減る
・自分を否定しすぎない
・冷静に相手の言葉を受け取れる

と、いった変化が現れました。

落ち込む時間が長いと、良いことなんてないですね。

私は自分の弱さを「克服」しようとしていました。でも、克服ではなく、自分の弱さとの「付き合い方」を見つけるべきだったのです。

私は、自分の弱さが落ち込む時間によって出てくることを知り、その時間を減らす方法を身に付けました。

落ち込む時間が減ると、ポジティブな自分が出てくる時間が増え、「あの人あんなこと言ってたけど、別に仕方ないことだし、私が全部悪いわけではないと思う。それにあの人もあんなことを言ってしまうほど追い詰められているのかも?ちょっと距離を置くのが一番かも」と冷静に、そしてポジティブに考えられるようになりました。

私は、「アダルトチルドレンを克服」……いや、「アダルトチルドレンとして前向きに生きていく術」を身に着けたのです。

これから

私自身が経験してきたことは、決して良い経験ではありません。でも、この経験がなかったら気づけなかったこともあったと思います。

教師として、伝えられること、支えられること、教えられること、たくさんあると思っています。子どもに支えられた日もたくさんありました。子どもを支えたいと、助けになりたいと思う日もたくさんありました。力不足を感じて悔しい日も。日々、子どもの行動をみて、どんな気持ちかを考え、どんな言葉をかけたら、子どもが自分で考え、動けるか、前向きに頑張ろうと思えるのか、将来を見据えられるのか、周りの大人たちとこの子を支えていくにはどうしたらいいか。今の自分にできることを毎日一生懸命考え、毎日一生懸命向き合っています。ダメだった日も、明日頑張ればいいと思えるようになりました。

これからも、そうして向き合って生きていきたいと思っています。仕事もプライベートも。しんどくなったら、「もったいない」そう思って、楽しいことを考えます。

「もったいない」大事ですね。
感情を抑えつけるのではなく、他のことを考えられるようになったり、前向きに解決策を考えられるようになったり。そういう気持ちを切り替える「良い言葉」なのだと思います。

今は、母・父・弟とは、程よい距離感で家族として付き合えています。もちろん、兄や妹とも。

「私もアダルトチルドレンだ」という人に伝えたいです。
「あなたが家族のために頑張らなくてもいいんです」
「自分の弱さを克服するのではなく、自分の弱さと付き合っていく方法を探しましょう」と。

大学の教授に言われた時の私のように、この言葉に悩み、苦しむと思います。自分の価値観がすべて引っ繰り返ってしまうのですから。悩み、苦しんでいいんです。葛藤して考えている証拠ですから。葛藤して、最後に向き合えたら、そこから少しずつ変わっていけるはずです。

おわりに

#創作大賞2024  というnote主催のコンテストがあり、今回はこの記事を応募。創作大賞がとても良いきっかけになりました。

ずっと自分の生きてきた過程を残したいと思っていました。「誰かのために」「アダルトチルドレンの人の支えになれば」「現在ヤングケアラーの人に気づいてもらえたら」「アダルトチルドレンを知らない人に知ってもらいたい」そんな気持ちで書いた記事です。何年も「書きたい」と思っていたのですが、何年も「書けない」「まだ私は弱さを克服できていない」と思って、ある程度書いては消していました。やっと「弱さと付き合いながら、上手く生きていける」そう思い、エッセイとして書き上げることができました。

ここには書ききれなかったエピソードもたくさんあります。そして他のアダルトチルドレンの人にもたくさんのエピソードがあり、今も苦労し、頑張っている人もいます。

私の経験が、誰かを支える一つのきっかけになれば、幸いです。


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