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美術が2だった話をしよう:私が写真を撮る理由

普段は、カメラを手にとり「公務員の傍ら写真を撮る人」と名乗って写真展に出展している。ここ最近は次の展示会の作品を考えている毎日。そんな中、心理学関係の話を聞く機会があり、ふと幼少期の自分を思い返していた。なぜ私は「写真がを撮ることが好きなんだろう」という常に思っていた疑問を過去から探すことにしてみた。私が写真を撮る理由を書いていきたい。

美術は2だった。

美術の授業は大嫌いだった。小学生の時には美術の項目に△が通信簿についていた。中学生の時には成績表の評価は2。風景画を書く課題では、見たままを描けばいいだけと思っていた。そのまま見た景色を書き写すことなんて技術もなかったので、「正解の絵を描けない」と自由に創造するなんてことのない全く考えたこともない子どもだった。人物の絵では、下手な絵にしかならいないと落ち込んだ。塗り絵の課題でも、デザインの実物のイメージに近い色を塗っていた。そう、私は芸術を楽しむことを少しも知らなかった

この話を聞くと、当時の美術の先生が悪いのかと思われるかもしれないが、そうではない。美術の先生は「好きなように」描いていいと言っていた。私がなぜ芸術を楽しめない子どもだったのかを考察していくと、今カメラを持ちだして写真を撮っている理由がわかってきた。

先生「箱庭療法へ通ってみない?」

私が小学5年生になった頃。小学1年生の時の担任から母に連絡があった。「箱庭療法に通わせてみない?」と。理由はよくわからないまま、母に言われるがまま、数年ぶりに先生会うことになった。先生の持つの離れの家に通い、青い箱に白い砂が敷き詰められた箱に木や家、動物などを配置して遊んでみた。真ん中に溝を掘って川を作った記憶もある。

箱庭療法とは、砂の入った箱の中に、人や動物、植物、乗り物、建物などのミニチュアを置き、何かを表現したりすることを通して行う心理療法

チャットGPTより

なんでこんなことをしているのかについては何も疑問には思わないまま、週に1度通っていた。箱庭には直感的に置いていっていいと先生に言われ、置いていった。そして毎回同じような配置になる。だんだんと「箱庭に物を置いて何か作るの苦しいな」と思うようになっていた。これは無意識に内面を表現することが苦痛だったのだろうと今ならわかる。先生が工夫をしてくれたのか、箱庭療法ではなくて、イラストを描いていいと言われるようになった。りんごの木の絵を描いた。自由に絵を描いてもいいと言われた。その時に初めて「本当に自由に絵を描いた」描いた意味や内容を先生があとでずっと否定せずに言葉も挟まずに聞いてくれたからだ。「なんでこの色にしたの?」と聞いてくれた。理由なんて特になかったが、「なんでだろう」と自分に問うという意識ができた。

しばらくして先生は夢の話を聞いてくれるようになった。「寝ている間に見ていた夢の話を教えて」と。実際に見た夢を話した。そのうち、実際に見た夢から派生して先生と話しているうちに思いついた夢の続きを、実際に夢で見たことのように話すようにもなっていた。夢をみない日もあった。そんな時には夢ではなく、自分の想像の話をたくさんしていた。先生はそれが夢の話ではないことには、きっと気づいていたはずだ。それでもずっと否定せずに聞いてくれていた。

虚言癖

当時は虚言癖があった。騙す意味での悪意のある嘘ではなく、自分で考えた世界を本当にあることのように話していた。現実と想像を分離できていなかった子どもでもあった。高校生になった頃にはその虚言癖も治っていた。ただ、周りには全く迷惑のかけない虚言癖だった。迷惑をかけなかった理由は、周りにとって不快な存在になりたくなかったからだ。

箱庭療法などの心理療法を受けた記憶や、虚言癖があったこと、他にも色々と自分の内面が変だと感じる出来事はたくさんあった。周りの友人からも「変わってるよね」と何度も言われ、今でも自分は「変わった性格」をしていると認識している。変わった人格であった理由は、「美術で2の評価を取った自分」と同じ。

幼少期になぜこんな過ごし方をしたのか

では、なぜこんな幼少期を過ごしたのかについてだが、2つ年下の弟が自閉スペクトラム症だったことがきっかけだったと断言できる。弟のことが大好きだった。今も大切な弟。問題は周りからの無意識的な押し付けにあった。「お姉ちゃんだから」と言う周りの言葉が自分の言葉にすぐに変わった。周りに頼られる存在であるべきだと思っているうちに、自然と大人びた態度や言動をとるようになっていた。小学5年生になると、身長は160センチを超え、顔立ちも大人びていたこともあり、町の方へ出かけた時には大人に間違えられることも多々あった。高校受験の日に保護者と間違えられた(制服がなかったため私服での受験)ため、制服の案内の紙を受け取ることができなかった思い出もある。そうした周りからの印象もあり、大人びて落ち着いていて頼りになる存在として扱われることが増えた。「活動時のリーダーとして」「他の子の手助け係」と学校の先生に役割を当てられていた。気づけば、大人にとっての「いい子」を演じるようになっていた。

「いい子」とは当たり障りなくわがままを言わない子ども。私は自己主張としてのわがままを伝えられなくなっていた。大人になって20代前半の自分を苦しめたのはこの「いい子」による八方美人という性格だった。誰にでもいい顔をしないといけない。周りの評価が一番大事という潜在意識から解放することがなかなかできなかった。厳密に言うといまだに「わがまま」を言うことがしんどかったり、「周りの評価」は気にしすぎてしまう。

箱庭療法や木のイラスト、夢の話などは心理療法として「気遣ってくれて、1年生の時の担任の先生が周囲の環境と様子を見て心配して声をかけてくれた」と先日母が話してくれた。内面に感じていることを外に表出することもなかったため、一人で遊んでいることが多かった。この先生のところへは1年ほど通い、気づけば学校で周りの子と会話する機会も増えていた。内面を表出する練習だった。虚言癖も現実と想像の世界を夢として話をさせてくれたからこそ、そうした虚言癖もすっかり減り、高校生の時にはもう想像世界の嘘をつかなくなっていた。想像の世界を想像として相手に伝えるようになった。

今の自分

幼少期のことを振り返り、では現在の自分がなぜカメラを手に取って写真という表現方法でSNSに写真を投稿したり、展示会を開いて他人から見てもらっているのか。なぜ写真の表現の仕方を一生懸命考え、芸術を楽しむことを選んだのか。

大人にとって「いい子」でなくてはいけなかった私は「自己表現をする」ことが「相手は求めていないこと」だと知った。そのため美術で自分の絵を自由に創造することがなかった。生きる上で「いい子」として、自己表現は必要がなかったからだ。今は、写真に収めてそれを表現することで「人に私の自己表現としての芸術を見てほしい。知ってほしい」というわがままを出していることになる。「周囲の全ての人に対して八方美人をして好かれたい」という自分とはさよならしたい。そんな気持ちの表れが写真だった。誰かにはとっては嫌いかもしれないし、興味なんてないかもしれない写真を撮って、誰か一人でも心に刺さってくれたらいい。取り繕って自分のことを大切にしてくれない人にまで気を使うのではなく、「自分のありのままを受け止めてほしい」という気持ちが強い。これが私にとっては1番の課題。表現していくことで潜在的に「いい子でなくちゃ」という気持ちがあるせいで、今も「自分のありのままを受け止めてほしい」という行動に、悩むこともあるし、心が痛くなる時もある。でも、いくら過去の出来事で「いい子でなくちゃ」という感情を持っていたとしても、いつまでもそんな気持ちを持ち続けて生きたくはない。

これから

今、私は29歳だ。人生29年生きてきて、これから先の人生のほうが長い。それなら自分がなりたいと思った自分になるべきだ。過去の自分があるから今の自分がある。ただ過去に引きづられるのではなく、過去をこれからの自分のための踏み台にしていきたい。「自分のありのままを受け止めてほしい」という最大のわがままを、私は写真で表現して、人の目にうつるように投稿していく。わがままを表現できる人間でありたい。そしてそんなありのままの自分を認めてくれる人を大切にしていきたい。


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