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発達障害の娘の生きづらさ

先日精神科の主治医と娘がうまくいかなくなり、妄想が加速してしまう事態が起きた。それに伴いわたしが娘の代わりに診察室に入り、主治医を変えるしかないのではという話をした。

娘は診察室はおろか声が聞こえる待合にいるのさえ怖がり、幸いベテランの優しい看護師さんがずっとそばに連れ添ってくれてかろうじて待つことができた。

妄想が主治医に向かっているという症状を話した当初は、「一度しみついた考えは訂正するのが難しいから主治医を変えることもあり」との話だったが、ふたをあけてみると、「またもう一度自分のところに戻ってきてもいい」とか、「他の先生は待ち時間も長いし、診察時間も短いけどそれでいいのか」など、マイナス要因を並び立て、ことを荒立てないようにしているように見えた。

娘は発達障害で精神科医からみて認知のゆがみを取る治療がなかなか難しいとのことで「自分は力不足ですみません」と謝られた。主治医はわたしと話しているときはにこやかで誠実に対応しているように見える。

主治医がやさしく接すれば気持ちも変わるかもしれないと思い立ち、最後の何分か娘を診察室に招きいれた。最初はおだやかだった主治医の表情も、娘の歯にきぬきせない主張にみるみる顔が厳しくこわばって口調も早口になり、強くなっていくのがわかった。

こんな風に娘と主治医が二人きりで診察を受けていたときに行き違いのようなものが生じ、パニックを起こした娘が主治医を拒否し、妄想の相手となってしまったのかもしれないと思った。

社会という場では空気を読むことと、相手の気持ちをある程度察して話をすることが必須だ。それができないと表面的な人間関係を保つこともできない。ASDで、高校生のあたりから周りから浮いてしまい、就職にも失敗し、社会に一度も出たことのない娘。

そんな娘に教育的指導をするのはなかなか難しいのだそうだ。それは診察室の中でも、社会でも同じ。ひとがいるところではほとんどと言っていいほど娘はトラブルを起こす。

娘は自分の言動の何が相手を困惑させ、ときに怒らせているのかがまったくわからないそうだ。この特性はまるで障害物だらけの世の中を目をつぶって歩いているようなものだ。どれだけ人生生きづらいのだろう。

そして周りもことばは悪いが巻き込まれて疲弊する。親である私もそう。娘の唯一の味方でありたいと思う反面、ASDの特性を完全には理解することができず、とまどう日々。

わたしがいなくなったら。娘はどうやって生きていったらよいのだろう。なんて途方もないことを考えながらもすやすやと眠る娘の顔を見るとこのままでいいじゃんなんて思う。

娘がかわいくて失いたくない。だからわたしの優先順位はいつだって娘一択だ。趣味は二の次三の次。でもときどき息が苦しくなり、自分だけの居場所が欲しくなる。

母親でもない、なんの役割も持たない素の自分の居場所が。

#日記 #日常 #親子 #ストレス #人生 #発達障害 #双極性障害 #ASD

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