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【本要約】ストア派の哲人たち

概要

本書は「ストイックに生きる」ことの意味を明らかにすることをテーマとした書籍です。
ディオゲネスから始まり、初期ストア派のゼノン、後期ストア派のセネカ、エピクテトス、マルクス・アウエリウスらの思想を時系列順になぞりつつ、それぞれどんな人物で、どんな特徴の哲学を持っていたかということを、まとめてくれています。
本noteでは、各章で学びとなった部分を抜粋し、自分なりの解釈を入れた本要約記事になります。

前書き(本書抜粋)

本書に登場するのは、今から2000年ほど以前に生きた哲人たちである。
従って当然ながら、社会も制度も習慣も全く異なっている。しかし、現在でも自己啓発の書物などに、彼らが登場しているのを見ると、哲人たちの言葉が現代人の心の琴線に触れるところが多いからだと思われる。
今の時代は、彼らが生きた頃とは比べ物にならないほど、複雑化し多様化している。どんなものであれ、大抵が入手可能となり、私たちの持つ欲望・欲求は瞬時に満たされる。しかも、そうした満足感は、それを獲得するためのスピードや効率の良さと比例関係にある。
しかし一方では、様々な欲望・欲求が充足されながらも、私たちの心の中の隙間は、ますます広くなっていると言われる。欲望・欲求の充足度から言えば、最も幸福であるべき現代人は、いつも心の隅で何か満たされないものを感じ取っているのである。
本書を通じて、古代の哲人たちが考えたこと、言ったことが、ますます混迷を深める現代を生きるために、いささかでも参考になることを願ってやまない。

本書の構成

第一章 自然にしたがって生きよーキュニコス派
第二章 時代が求める新しい哲学ーストア哲学の誕生
第三章 沸き立つローマの市民ーストア哲学の伝承
第四章 不遇の哲学者ーセネカ
第五章 奴隷の出自を持つ哲人ーエピクテトス
第六章 哲人皇帝ーマルクス・アウレリウス
終章  ストイックに生きるために

第一章 自然にしたがって生きよーキュニコス派

・哲人の概要

ディオゲネスは、紀元前412年ごろに黒海沿岸のシノペ(現トルコのシノップ)で生まれた古代ギリシャ時代の哲学者です。アテネに移住して哲学に目覚め、宗教・作法・服装・住居・食事、全ての文明を放棄し、世捨て人となって教育や知識は無用のものとし、樽を住居として犬のように生活したことから「キュニコス派=犬儒学派」と呼ばれます。
ディオゲネスは、ストイックな自給自足と贅沢の拒否を強調したギリシャ哲学の一派、キュニコス派(犬儒学派)の創始者です。キュニコス(kynikos)はギリシャ語で「犬のような」という意味で、現代では「皮肉屋」「ひねくれもの」を意味するcynicの語源になっています。
ソクラテスの弟子であった哲学者アンティステネスに師事し、彼の多くの著作から影響を受けたと考えられます。その哲学は思想体系というより、生き方の模範を示したものでした。
アテネでは、浮浪者として神殿で寝泊まりしたり、樽の中で生活したりした変わり者でした。ディオゲネスは、ある日ネズミが生きるのを見たことによって、従来の住居や贅沢が不要であることを知り、どんな状況にも自分を適応させられることを実践しようとしたそうです。
うわべだけの作法を否定し、いつどんな状況でも完全な真実を追求して不要と思われる一切を捨てたディオゲネスの生き方は、またに究極のミニマリズムといえます。その生き方は徹底しており、ある日アテナイの泉にて手ですくって水を飲む子供を見て、「子供たちが、私がまだ至らないことを教えてくれた」と唯一の所持品であったお皿(コップ)を投げ捨てたと言います。
ディオゲネスにとって質素な生活とは贅沢をしないことだけでなく、慣習的な共同体のルールに縛られない「自然な状態で生きる」ことも意味していました。例えば、ディオゲネスは従来の家庭制度は不自然であると否定し、男女の乱婚や子供の共有を主張していたといわれています。ディオゲネスは浮浪者のように生活しましたが、すべての人間が同じように生きるべきと主張したのではなく、たとえ劣悪な環境でも幸福と自立が可能であることを示したかったのです。

・第一章での学び①

キュニコスは学派、つまりある学問を継承するような人々を指すものではない。むしろ、虚飾を捨てて、自然のありのままに生きることを実践するものである。その際、重点は学説にではなく、実践そのものに置かれている。
「理論によって幸福に至る道は遠いが、日々の実践によって訓練を積む道は幸福に近いものである。」

本note筆者の解釈
多くの自己啓発本などでも書かれている通り、インプットするだけでなく、「行動」が一番大事ということと、通ずるものがあると思いました。ビジネスの場だけではなく、自分の人生の幸福を考えるときにも、「行動」が第一。ディオゲネスのような究極のミニマリストを目指さなくてもいいとは思いますが、自身の幸福とはどういう状態なのかを考え、考えるだけでなく日々の行動に移していくこと。
ここで大事なのは、自身の理想に辿り着けないと幸福ではないということではなく、理想に向かって着実に歩んでいるフローそのものが幸福ということだと思いました。

・第一章での学び②

近代哲学の代表ともいえるカントも、ディオゲネスの生き方に共感している。
「ディオゲネスによれば、人間はごくわずかなもので満足しうる。なぜならば、自然に従う限り、欠けることがないからである。このようにすれば、人は生活の手段を欠いていると感じるよりは、むしろその欠如において幸福を享受するようになる。彼の言うことには多くの真実がある。なぜなら、生活の手段が供給される分だけ、私たちの必要とするものも増すからである。私たちは手に得ることのできる手段が多ければ多いだけ、必要とするものもまた多くなってしまうのである。」

本note筆者の解釈
自分は比較的、物が少ないミニマリストだと思っています。勝手に自分で名付けているだけですが、突発性断捨離症候群を患っているほどです。(冷蔵庫と洗濯機はサブスクでレンタルしてたり、ベッドは持たず寝袋で寝てたりしてます。)
この断捨離やミニマリストについて、ディオゲネスやカントの言葉を受けて、改めて整理してみました。
まず、断捨離が出来るということ自体が、とても幸福な環境に居るということ。なぜなら、断捨離をするためには、一度充足した生活を送る必要があるからです。発展途上国に住んでいる人たちの生活を考えると、断捨離をしようという発想にすらならないはずです。
次の論点は、断捨離をして得ることのできる最大の特典で、それは「自身が必要としていることの価値観を再定義出来ること」です。
なぜなら、物を捨てるときには必ず、今後も必要か不要かを考えることになるからです。そして、その判断を下すために、そもそも何でこれを買ったんだっけと、その物のルーツを辿ることになります。この思考を何十回と繰り返すことが断捨離という行為なのです。身の回りの物すべてに対して、この断捨離の思考回路を巡らせれば、おのずと自身の物に対する価値観が再定義されていることだと思います。
再定義されると何が良いのかというと、買い物を行う際に、本当に必要なものだけを買うという癖がつくことです。消費者全員がこのマインドに達することが出来れば、サステナビリティと呼ばれる持続可能な社会に近づけると思います。そして、身の回りの物が少なければ少ないほど、余計な悩みを考える時間が少なくなり、自身にとって本当に大切なものにだけ時間を使うことが出来ます。例えば、TVを捨てることが出来れば、見たい番組が見れなかったときのストレスが無くなり、そもそもTV番組のことを考える時間が無くなるので、それ以外のことに集中することが出来ます。
ただし、身の回りのものを少なくすればするほど良いというわけではないという点には、注意が必要だと思います。それは、その物が無いと逆に心労が増えてしまうようなケースです。先の例で言うと、TVを見るということが、自身にとって、本当に幸福だと感じる場合には、断捨離をする必要はないでしょう。断捨離をする時に、断固たる意志で捨てないことを決めることも重要です。
その際、少しでも迷いが生じた物に関しては、一度手放してしまうことをオススメします。自分には絶対必要だと思っていた物も、手放してしまえば、案外順応出来たなんてこともあるかと思います。そこで、やっぱり必要なんだなと思えば、買いなおせば良いのです。最近では、家具や家電をサブスクで借りる方法があったり、メルカリなどのフリマアプリで物を現金に換える方法もたくさんありので、昔よりは、断捨離がしやすい環境になっていると思います。
「ストア派の哲人たち」を読む前から、自分としては、こういう考えを持っていたので、すごく共感しやすかったです。

第二章 時代が求める新しい哲学ーストア哲学の誕生

・哲人の概要

ゼノン(ストア学派)は古代ギリシアの哲学者。禁欲主義者。キプロス島の貿易商人で30歳ごろ、航海中に難破して以降、アテネに移住した。商人であったが、クセノフォンの『ソクラテスの思い出』に影響されて哲学を志したと伝えられている。ゼノンは世界を支配しているのは理性と考え、人間も自らの理性に従って情欲を抑えるべき、という禁欲主義と考えた。そして、なにものにも動揺しないアパテイア(不動心)を説くとともに、理性は世界を支える原理であり、理性に従う(アパテイア)べきと説いた。

・第二章での学び

ストア派の学徒は、どのような事態にも動じず、心の平静を保つことを心がけることを勧める。人の人生には様々な波乱があり、運命に苛まれることがあるが、心をかき乱されることなく、これに耐えることを唱導するのがストア派である。
「ニールアドミラーリー」という言葉がある。何にも驚かない、何事にも動じない、という意味のラテン語である。人間は幸運・不運に一喜一憂し、心が休まることはない。それならば、何が起ころうとも驚かぬがよい。これは人生を生きるための、一つの知恵となる。ゼノンらが主張する平静な心は、このような知恵によって支えられているのである。
けれども安心立命を至上とし、心を動かされないことを哲学の目的とするということは、結局どういうことなんだろうか。これは一般には悲しいことに耐えるために、初めから絶望しておけば良いという考えだと言われる。しかし、それはどのような意味であるのか。何もかも諦めてしまうということであるのか。
人間はその生涯において、様々な不幸に遭遇するが、ストア派が説くのは人間は不幸にひたすら耐えるしかないのだという忍従の哲学ではない。むしろ、いかなる逆境にも動じない不退転の強さなのである。

本note筆者の解釈
この章を読んだ感想として通ずるものがあるなと思った言葉が2つあります。一つはことわざにある「事実は小説より奇なり」、もう一つは漫画ワンピースで空から船が降ってきたときの言葉で、「人が空想できる全ての出来事は、起こりうる現実である」です。
何事にも動じないメンタルを得るためには、自分の尺度や価値観だけでしか物事を見るのではなく、多様な想像力を働かせることが重要だと思いました。プロジェクトマネジメントでのリスク管理もそうですが、想定していなかったことよりも、想定の範囲内の方が、同じリスクが発生したとしても、気の持ちようは変わるはずだからです。
ただ、実際に目の前に、想定していないリスクや不幸が訪れたとき、どのように対処するかということに関しては、また別の技術が必要になるとは思いますが、まずは「ニールアドミラーリー」の境地に達するために、常に想像力を働かせることの重要性を再認知しました。

第三章 沸き立つローマの市民ーストア哲学の伝承

・哲人の概要

マルクス・トゥッリウス・キケロ (紀元前106年〜紀元前43年) 
共和政ローマ末期の政治家、文人。文章はラテン散文の模範とされる。アントニウスに反して暗殺された。修辞家で政治家でもあったキケロは、法廷弁論や政治家への書簡など生彩あるローマ史の資料を多数残した。キケロはまたストア哲学者として、ギリシア哲学の用語をラテン語訳した功績があり、実践論理としてのストア哲学をローマの上流社会に流行させる役割も果たした。

・第三章での学び

「恩を受けた人は、その恩を心に留めておかなければならない。しかし、恩を与えた人は、それを覚えているべきでない。」

本note筆者の解釈
僕が嫌いな文化が2つあって、これを機に再整理してみました。1つ目は職場内におけるお土産スパイラルと、もう1つは結婚式のご祝儀についてです。
1つ目のお土産スパイラルですが、有給を使って旅行に行ったときに、お土産を買ってきて、全員に配っているシーンがあると思います。僕はそのお土産を受け取るのが嫌で、それは恩の押し売りだと感じるからです。上記のキケロの言葉の通り、そのお土産を受け取ったことを、心に留めておかなければいけません。仮にお土産をくれた人は、恩を与えたことを覚えていないとしても、職場の文化で、お土産スパイラルが根付いていると、お返しをしないといけないような空気になります。本来、お土産は仲の良い人同士で、楽しめばよいと思っており、強制されたくはありません。なので、最近は甘いものは苦手でしてというような形で、やんわり断るようにしています。
もう一つのご祝儀についてですが、正直出したくないというのが本音です。結婚式を穿った解釈をすると、本人たちが勝手に盛大な場を用意しているだけです。結構式に来てくれる参列者は、お祝いそのものがしたくて来ており、お祝いとしてお金を出したいということであれば、別途渡せばよいと思います。結婚式で出す必要があるお金は、精々料理代と場所代くらいのものです。僕はこう考えているので、将来結婚するようなことがあれば、式は行わないか、奥さんになる人がやりたいと言えば、ご祝儀は頂かないような形で執り行いたいと考えています。ただ、僕はお金を出したくないということだけでご祝儀を否定しているのではなく、本当はお祝いしたい気持ちはあるのに、ご祝儀を出したくない一心で、結婚式に参列しないという人が出てしまうということが、問題だと思っています。
僕は、友人が結婚する際には、ご祝儀を出すのではなく、ご祝儀として出すはずだった金額を予算に、旅行に連れて行ったり、ご飯を奢ったりするような形でお祝いをしています。

第四章 不遇の哲学者ーセネカ

・哲人の概要

セネカとは、後期ストア派の代表的な哲学者です。また、ローマ帝国の政治家でもありました。セネカは多くの著書を執筆し、政治と哲学および文芸で活躍しました。その著書は道徳論や、よりよい生き方を具体的に説く実践哲学の書などがあり、人々の思想や考え方に大きな影響を与えました。
セネカは第5代皇帝ネロ(37年~68年)の家庭教師を務め、のちには補佐役となって政治を支えました。しかしネロの暴政を制御できなくなると、セネカは政治生活から身を引きます。その後、陰謀に加担したという嫌疑をかけられ、ネロに死ぬことを命じられたセネカはその命令を受け容れ、自害しました。ストア派の哲学では、生命は絶対的な善ではなく、自殺を悪とはしていませんでした。死は合理的な理由があれば善でもあったのです。セネカが躊躇せず死の命令に従ったのはストア派の哲学に従ったものだと考えられます。

・第四章での学び

先に「ニールアドミーラーリー」という言葉を取り上げたが、この言葉ほど ストア派の立場を表しているものはない。ストアの知恵のひとつに、何事であれ、前もってネガティブに考えておけというのがある。
例えば、試験の合否である。合格したはずだと思っていて、実際には不合格であれば落胆は大きい。しかしそうすると、前もって不合格を予想しておけば良いのだろうか。その方が打撃は少なかろう。けれども、ストア派が言っているのは、何であれ、自分の思うようにいかないものだと考えておけ、というようなことではなかった。セネカに次のような一節がある。
「どんなことでも予期しているものには、その分だけ打撃は少ない。」
この言葉が示すのは、試験について最悪の結果を予想するようなことではない。
例えば、息子を亡くしてしまった人が居たとしよう。その人は息子が亡くなった後、相変わらず悲しみに打ちひしがれていた。これに対するセネカの助言は、「これからもこうした悲しみに囚われていてはいけない」というものであった。その理由は、人間に与えられたものは、いつか返却を義務付けられた、一時的な借り物でしかないからであった。子供であれ、何であれ、そのものが永久に自分のものであるという約束は全くないのだ。
このように、ストアの知恵が教えるのは、自分の所有するものが、いつまでも自分のものではないことを自覚せよ、 ということなのである。そのものを慈しむことを否定しているわけではない。愛しいものと親しく交わるのはそれで良い。しかし、その交わりには、いつか終わりが来ることを、常に考えよ、ということなのである。

本note筆者の解釈
人間に与えられたものは、いつか返却を義務付けられた、一時的な借り物でしかない、という言葉にとても感銘を受けました。この考え方は、「ストア派の哲人たち」を読んで、初めて知った観点です。その例えに、息子の死をテーマにしていることも強烈です。息子ですら、いつか返却を義務付けられた、一時的な借り物でしかないのであれば、人生における全ての物は、所有している訳ではないと考えられます。この考え方を持っていれば、財布を無くしたときも、仕事でミスをして信頼を失くしてしまったときも、編集中のnoteの記事が、保存ミスで消えてしまった時も、ダメージは少なくなると思います。第二章で学んだ内容を、さらに強化してくれた感じです。
ただ、第二章でもそうでしたが、実際に大きな悲しみが目の前に訪れたときに、どういう風にしたら克服でき、立ち直れるかという、実際の手段や方法については、この本には書かれていません。それは、その人の置かれている環境や状況、どういう類の悲しみなのかによって、千差万別で、これといった手法は確立出来ないからだと思います。(確立されていれば、鬱や精神疾患は社会問題にならないはずですから)

第五章 奴隷の出自を持つ哲人ーエピクテトス

・哲人の概要

エピクテトスはローマ帝政時代のストア哲学者。
ローマの奴隷の身分でありながらストア哲学を学び、のちに解放された。90年ごろギリシア西海岸のニコポリスに移り、学校を創設した。著作はなく、弟子アリアノスの筆録した『語録』と、それを要約した『ハンドブック』が残存する。
エピクテトスの立場をもっともよく表すのが「忍耐せよ、断念せよ」という標語である。「われわれのものと、われわれのものに非(あら)ざるものとがある」と彼はいう。われわれの判断や欲望や行為はわれわれの自由になるが、身体、財産、名声、権力などは必然によって支配され、われわれの力ではどうにもならないものである。このありのままの「自然」を認識し、われわれの意志をそれに一致させるための修練が哲学である。かくして、「私は神とともに選び、ともに欲し、ともに意志する」と唱えた。彼の影響は、同じストア学派のマルクス・アウレリウスをはじめ、キリスト教の教父たちや、近世のパスカルなどにまで及んでいる

・第五章での学び

エピクテトスが哲学に求めたのは、一言で言えば「人はいかにして精神の自由を得ることができるか」という問いに尽きている。これはエピクテトスの奴隷としての境遇を思えば、当然とも言えるだろう。奴隷は家財の一部であり、自由に売買され、気に入らなければ打擲を受け、それが死に至ることもあったからである。
彼の思想を理解するための鍵となる言葉がある。
「哲学は、外部にある何かを得ることを、約束するものではない」
人は、哲学をすることで、外の世界から何かを獲得するのではなく、むしろ自分の心を改革することになる。
例えば、死に対する恐怖である。私たちは普通、死を経験するのは他人の死である。友人や家族の死、あるいはテレビや新聞を通じて、人の死を経験するが、自分の死を経験する時には自分が死んでいるわけだから、それについて、恐怖を抱くことはできない。つまり、他人の死によって、自分にいつか訪れる死を推測するわけである。私たちは、死に対してどのような態度をとるのか。快楽主義の哲学者エピクロスは、死に対して恐怖を抱くのは愚かであると考えた。私たちが生きている時は、その私たちにとって死は存在しないし、死が存在する時には、私たちはもはや存在しないのだから。これを徹底させて安心立命に至るというのは、ある種の達観であって、これに到達するのは、なかなか困難であろう。
これに対するストア派の考えはどうか。ストア派の立場は、簡単に言えば、悲しいことに耐えるためには、最初から絶望しておけばよいという考えである。先にも紹介したが ニールアドミーラーリー という言葉は、その思想を簡潔に表現している。ただし、注意すべきは何もかも諦めようということではないことである。周囲にあるものが、自分のものだと思って満足しているが、それらは借り物でしかない。美貌や健康が失われると悲しまざるを得ない。しかし、そうしたものが、本来自分の所有でないことに気づけば、悲しむことがないわけである。人生において苦しまぬようにするために、自分の支配の外にあるものに期待するなというのが、この思想の真髄である。
こうした エピクテトスの主張に対して、疑念を抱く人がいるかもしれない。 初めから絶望しておけば、もはや苦しむことがないかもしれないが、そうすると、それは何かに挑戦する気持ちを捨てて、その前に諦めてしまうことなのではないだろうか。現代に生きる私たちは、果たしてこのような生き方を受け入れることができるのか。しかしながら、これは明らかにストア派の思想を誤解しているのである。私たちは一般に幸・不幸を外から与えられるものと考えることが多い。どんなに働いていても収入が少なければ、政治が悪いからと考える。つまり私たちは、外的な要因によって、幸福であったり不幸であったりすると考えているのである。しかし、よく考えてみればそうした要因は、偶然によって左右されることが多いのもまた事実である。エピクテトスが私たちに問いかけているのは、何か、偶発的な要因で自分が不幸と感じている場合に、それは本当に不幸なのだろうか。 あるいは、幸福感を味わっている時に、それは本当に幸福だと言えるのだろうかということである。そして、彼が私たちに教えているのは、いわゆる不幸な境遇にあっても、 私たちは幸福であることは可能だということなのである。挑戦しても敗北が目に見えているような事柄でも、自分が相応の努力をするならば、結果いかんに関わりなく、私たちはそのことによって、心の満足を得ることができるだろう。すなわちこの哲人はあらゆる、外的なものから、自分を遮断してしまうことを勧めているのではなく、そのような事柄に対して、私たちがいかなる態度をとるかが大切だというのである。そうした心の持ちようによって、私たちがどれほど不幸と思われる境遇にあっても、幸福感を味わうことができるというのである。
「自分のものでないものを、何一つ求めない」
自分のものでないものとは、自分の力でどうすることもできないもののことである。エピクテトスは、他人が介入する余地のない世界において、真の精神の自由を見出そうとするのである。要は心の持ちよう、意思の問題である。例えば、病気は肉体の妨げになるが、意思自身がそのつもりでない限り、意思の妨げにはならない。足が不自由なのは、足の妨げとなっても、意思の妨げとはならない。エピクテトスは、奴隷の生まれで足が不自由であった。しかし、その身体の不自由さは、身体の動きを妨げても、自分が何かをしようとする意志を妨げるものではない。エピクテトスによれば、人の幸福を決するものは、身体が健全か不自由かではないのである。

本note筆者の解釈
要約する余地の無いほど、刺さる内容だったので、長々と転記しました。文面で十分すぎるので、この部分の僕の解釈は割愛します。

第六章 哲人皇帝ーマルクス・アウレリウス

・哲人の概要

マルクス・アウレリウスはローマ皇帝。五賢帝の最後の皇帝。スペイン出身の家柄で、同郷のハドリアヌス帝に目をかけられ、その命令で次帝アントニヌス・ピウスの養子とされた。マルクス・アウレリウスは、早くよりギリシア・ストア哲学に傾倒して雄弁家フロントらに学び、陣中で書き綴った『自省録』は後期ストア哲学の代表作である。そのなかで彼は、宇宙の理性に従うことを旨とし、謙虚・寛容と神への敬虔(けいけん)、平静さを称揚しているが、その筆致はきわめてペシミスティック(悲観的)である。

・第六章での学び

「おまえ自身には実行しがたいことがあるとしても、それが人間には不可能なことだと考えてはならない。むしろ人間にとって可能でふさわしいことであるならば、お前も成し遂げることができるのだと考えよ。」

本note筆者の解釈
例えば、芸能人や成功者などを見たときに、「あの人は天才だから」とか「私はあの人ほど頭が良くない」とか言っているシーンを見かけることがあるかと思います。これは、他人を上に見積もって、自分のことを下げずにいることで、保身をするために出てくる言葉かなと思ってます。
逆に自身を卑下しすぎるのも良くないですが、何かしらの言い訳をするときに、他人を引き合いに出す時点で、良いことではないと気づきになりました。

終章 ストイックに生きるために

・怒りについて

欲望、欲求の場合には、歳とともにこれが衰えるのが普通である。若者に負けないくらいに食欲や性欲を見せる人もいるが、こうした例は多くはない。しかし、怒りの場合はこれとは違っている。私たちは若いときに他人によって受けた仕打ちをいつまでも忘れることができないことがよくある。
対処法として、セネカはこう勧めている。
「怒りに対する最大の対処法は猶予を置くことである。」
しかし、私たちはストア派の哲人が言うように、どんな場合も怒りを抑えるというようなことが出来るだろうか。自分の子供や友人が目の前でからかわれたり、いじめられたりしているときに、心を鎮めてい怒りを抑えているようなことはむしろ非常な人間のすることだと考えるだろう。けれども、ここで注意しなければならないのは、黙ってみていろと言われているわけではないということである。
「優れた裁判官は、不正を罰するが、それを憎むことはない。」
人の過ちに対して怒りを感じたとき、その感情を抑え込むのではなく、なぜ自分が怒りを感じているのかをよく考え、相手に言うべきことを言って、必要ならその相手を断固として罰するのでなければならない。罪を憎んで人を憎まずという言葉もあるが、セネカは罪を憎むのではなく、罰するのだというのである。

・悲しみについて

ディオゲネスが伝える、ストア派の教義を見ると、「賢者は悲しみを感じることもない。悲しみは心が萎縮した不合理な状態であるから。」 とある。初期ストア派の賢者は、苦しんだり、悲しんだりすることはないと、言っているが、そうした賢者に対して、私たちは、何ら人間的なものを感じ取ることができないであろう。苦しむから、悲しむから人間なのではないか。
しかし、セネカを読むと、初期ストア派とはずいぶん違っていることに気づかされる。セネカは「自然は、私たちに、ある程度の悲しみを強要するが、それ以上の悲しみは、虚しい想像によって引き起こされるものである。それでも、私は絶対に悲しんではならないと、あなたに強要するつもりは、決してありません」と語っている。
ここで言われる、私もあなたも、初期ストア派が至高とした賢者などではなく、普通の人間である。身内の人間や友人が死んだら、これを悲しむのは当然であるが、セネカが言おうとするのは、それから後のことである。続けてセネカは語る。
「理性をして、悲しみを無関心にも狂気にも類することのない程度にとどめさせ、愛情深く動揺のない精神の状態を保つようにさせるのが良い。涙を流すのは良い。しかし、それをまた止めなければならないのだ。」
このように、セネカは全く感情を表に出さないような人間になれと言っているのではない。悲しい出来事に接した時、自然のあるがままに、悲しむのは良いが、その悲しみをいつかは克服しなければならないことを知っておく必要がある、ということである。
エピクテトスの言っていることも、セネカとは表現が異なるが、同じことである。誰かが、子供をなくしたり、財産を失ったりした時、その人は外的な出来事のために不幸なわけではないと言っていた。しかし、他人の子供が死んだ時に、エピクテトスに従って、「あなたは不幸ではないですよ。あなたを不幸にしているのは、子供が死んだという事実ではなく、それについてのあなたの思いなのだ。」などといえば、相手は憤慨するであろうし、言った人は殴られたりするかもしれない。人は、その事実に苦しむのであって、その思いのために苦しむのではないからだ。
しかし、エピクテトスが述べていることはそうしたことではない。子供が死んだり、財産を失ったりすれば、それを悲しむのは当然である。嘆くのが良いのだ。しかし、心底から嘆いてはならない。ここで エピクテトスが問題にしているのは善と悪である。
ストア派にとっては、健康や病気がそれぞれ善と悪ではない。 エピクテトスは足が不自由であったが、そのことは彼にとって悪いことではなかった。さらに、子供の死も財産の喪失も、同様に悪ではなかった。では、善悪はどこにあるのか。それはそうした外的な事実に対する、その人の思いにある。つまり、外的な事実に対して、自分がどのような態度をとるかによって、善か悪かが分かれてくるのである。

・不動の心について

例えば、私たちの身体で考えてみよう。身体を日々に鍛えることによって、それを強壮なものにすることが出来る。あるいは、身体の健康を維持するために、毎日薬やサプリメントを欠かさない人もいる。そうするのは私たちが自分の身体をコントロールすることができると信じているからである。そうした努力は無用だとエピクテトスが考えているわけではない。けれども、そうした努力をどんなに重ねても、私たちは病気になるし、いつかは死が訪れる。ニール・アドミーラーリー(何事にも驚くな)はストア派に限られる言葉ではないが、その思想を最もよく表している。なにごとにつけ努力することは大切である。しかし、なにごともうまくいくような順風満帆の人生も稀である。さすれば、不測の事態を予期して人生を送るのでなければならないし、また最悪の状況に陥ってもそれに耐え、打ち勝つだけの心の強さを持たねばならない。ストア派の知恵はここにある。

あとがき

最後まで、お読みいただきありがとうございました。
この本を読む前から、自分の好きな言葉が2つあったのですが、その言葉はストア派の教えに近しいものだなと感じることが出来て、良い書籍に出会えたなと思いました。

「どうにかなることは、どうにかなる。どうにもならんことは、どうにもならん。」

「人事を尽くして、天命を待つ。」

多分自分は、ストア派の感性に近い考え方になっているのだと思います。ただ、だからこそ、今度は違う派閥の哲学の本も読んでみようと思いました。

過去に、哲学史と著名な哲人の名言をまとめた記事も書いています。良かったら、こちらも見てもらえると嬉しいです。


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