小説家が語る「ことばと文章に足りないもの」【村上春樹・江國香織】
「言葉はいつも嘘を孕んでいる」と歌ったのは椎名林檎だった。どういうことだろう、とぼんやり考えながら、ずいぶん時間が経っている。嘘。見たままを伝えられない、言葉という器の小ささを言っているのかしら。今私が背中に感じている寒気(風穴が空いたみたいに、肩甲骨の間がスースーする)を書いても、身体に風穴が空いたこともなければ「スースー」も人によって違うから、本当の感覚は伝わらない=嘘ってことなんだろうか。
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村上春樹の場合
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言葉の不自由さについて、ロマンチックに書いた本を思い出す。村上春樹の「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」。ウイスキーなど舐めたこともなければ海外旅行もしたことがなかった頃、このエッセイを読んで記憶に残ったのは以下の文章だった。
分かるようで、分からないようで、でも分かる(笑)。村上春樹ほど「ことばがウイスキーになる」瞬間を経験していないとは思うけれど。「小説家は、そんな風に文章と向き合っているのか…」と深刻そうな顔をして、当時の私は本を閉じたに違いない。
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江國香織の場合
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もう一つ、文章の不自由さを書いた本に出合った。江國香織の「物語のなかとそと」というエッセイだ。まさに先日買ったばかり。缶に入ったドロップスを一つずつ慎重に手のひらに出すかのように大切に読んでいるつもりだったのだけれど、江國香織風に言えば「成長期のおとこの子がごくごく牛乳をのみほすように」すっかり読み切ってしまった。その本の中でも、言葉の不自由さについて書いてあった。意外なのは村上春樹よりもロジカル、あるいはテクニカルな視点で書かれていたことだ。
江國さんの児童文学のような漢字率にいつも不思議な心地にさせられる…のは置いといて。結構ドライというか、言葉はやわらかいのに目線は精密に色んな膜をはがして世の中をとらえているような気がする。
写真は、言葉に相当左右される。アラーキーもそんなことを言ってた気がする。真っ赤なりんごを写真に撮って、タイトルを「ジョナゴールド金賞」とするか「原罪」とするか「ガラケーの頃」とするかで(テキトウに並べてるけども)写真そのものの意味が変わってしまう。絵画やウイスキーは、どうなんだろう。私にはよくわからない。ゲハルト・リヒターあたりが教えてくれたりするだろうか。閉じ込めた何かを取り出す媒体として、もっとも自由なのはなんなんだろう。個人の認知の差もあるから、カンペキなんて存在しないとは思っている。
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余談:私の幸福
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うすらぼんやり生きて文字書きに憧れている私は、さきほど引用した江國香織のエッセイ「読書ノート」に衝撃を受けた。ある条件が揃えば、小説なんか書かなくていいと言う。
最後の一文「私は善いものが好きだ。」で、目頭が熱くなって涙が出た。私も善いものが好きで、たぶん、ただそれだけだから。もしかしたら物書きになりたいというよりは「善いものが好きだ。」と言いたいだけなんじゃないだろうか、きっとそうだ。と思った。
このロバの出てくる世界観は「プラテーロとわたし」という本からきている。一度読んでみたいと思い、5年ぶりに図書館に行ってきた。「自由に本を手に取り、持ち帰っていい。」図書館がどんなに素晴らしいかを思い出し、久々にあたたかな血が一気に巡ったような心地がした。結局「プラテーロとわたし」は借りられなかったのだけど、代わりに両手いっぱいの本を抱えて帰ってきた。帰りのバスの中で、久々に「幸福だ」と思った。嘘で不自由ばかりのことばや文章が、私は大好きだ。きっとそれは、善いものなんだと思う。
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