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深夜の蚊戦争

深夜、私の健やかなる睡眠を妨げた、その正体は1匹の蚊でした。そいつは騒々しいほどの高音を発しながら、私の耳元に近づいては遠ざかり、遠ざかっては近づいてを、延々と繰り返しておりました。始めは、夢現に音を聞き流していたのですが、徐々に私の顔の周りを滞空する時間が長いように感じられてきて、そうなったが最後、完全に意識を覚醒させた私は、音に耳をそばだてて、暗闇で蚊の所在を把握することに努めたのです。遂に、暗闇の中、右に左に飛び回るそいつの音が、私の右耳辺りで消息し、研ぎ澄まされた私の肢体は、右の耳たぶに僅かばかりの重量を感じとり、いよいよ、全面戦争の幕開けの合図となったのです。

まず、耳たぶに感じた「何者か」の正体に頭を巡らせる事なく、私は自身の右手を使い、渾身の速度で右耳を平手打ち致しました。先ほどまでとは違う高音が耳鳴りのように鳴り響きましたが、何よりもまず重量の正体を掴むのが先決だと(この時点では舞って居た埃などの可能性もあるわけですから)、私は即座に枕元の電球を点灯させ、右の掌を確認しました。しかしそこには、右耳を打った際に色づいて赤くなってしまった掌があるだけで、「何者か」の姿は見当たりませんでした。顔を顰め、軽く舌打ちをした後、今度は自身の右耳たぶを触って確認しところ、薄らとした痒みを感じ、更には、ふっくらとした腫れを確認したのを以て、先ほどの「何者か」の正体が「蚊」であったと、確信に変わりました。

私は直ぐさま布団から飛び出て、部屋の照明を全灯し、普段滅多に開ける事のない玄関横の収納扉を開けに寝室を飛び出しました。扉の中には、工具や電池といった、日常生活で頻繁には用いる事のない消耗品の類を押し込んである段ボールが山積されており、その中の、一等利用頻度の少ないと思われる分類をしていた「使わない」と貼り札のしてある箱を開封し、自転車用の油差しや、家具を買った際に予備でついてきた釘やネジと言った錚々たる「使わない」面々の中から「金鳥の渦巻 蚊取り線香」と書かれた円柱の缶を取り出しました。普段は、場所を取るから捨ててしまおうか、とまで思うほど、生活において即時的に必要性はなく、利用する場面の少ない物ですが、このように有事の際にはこれほどまでに心強い味方はいない、と、私はこれからの大戦争への勝利を確信し、にやにやと、顔の綻びを抑えることはできませんでした。

寝室へ戻り、明かりの元で缶の側面に描かれた「金鳥」をまじまじと拝見しましたが、赤々しく強調されたその鶏は、実に立派な鶏冠をその頭上に備え、誰が見ても、貫禄を感じさせ、その姿は王者そのものでありました。その王者の鶏冠の重量と質感に引けを取らない顎下の肉髯は、陰陽の良い塩梅を保ち、その雄々しき風格を確実なものとしておりまして、絵ということも忘れ、蚊を滅する以前に、私自身が圧倒されてしまったのです。人間をも圧倒せし「金鳥」が、本日は味方であるという事実に再度胸を撫で下ろし、缶の中から一枚の「渦巻」を取り出し、仏壇に花を備える如く、丁寧に、慎重に渦巻皿に寝かせたのです。枕元の煙草の箱からライターを取り出し、深呼吸して、儀式的に王者の金鳥に手を合わせ、祈り、いよいよ火をつけました。

もくもくと煙が立ち込め、密室状態の部屋に煙が充満しました。私はその煙が蚊を滅するのを待つ間、座禅を組み、瞑想に耽ることにいたしました。布団の上で半跏趺坐を組み、両の手を重ね合わせ、法界定印を結び、半目を閉じた状態で深く呼吸を繰り返しました。この時、心の中を無心状態に保って居ることが出来たのは「金鳥」への絶対的な信頼があったからこそといえるでしょう。人事を尽くして天命を待つ。その姿勢は、まさに仏陀であり、自身が人間を超越した瞬間を客観的に感じ取る事が出来たような気さえしました。

何時間経ったでしょうか。この神秘的で超人的な時間は、唐突に終わりを迎えました。研ぎ澄まされた仏陀である私の肢体は、両の手の上に僅かばかりの重量を感知しました。それは暗闇の布団の中で、右耳たぶに感じた重量と全く同じであり、仏陀である私は目を瞑りながらにして即座に、遂に終戦を迎えたことを理解しました。目を開けた私は、掌に転がった小さな怪物に一瞥をくれ、再度眠りに就こうと、枕元の時計を確認したところ、起床時間の7時を指しているのを目にし、試合に勝って勝負に負けた事を悟り、大きく舌打ちをし、その瞬間に仏陀から人間の私への現世回帰を果たしたのです。


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