『天気の子』

※2022年10月に書いた駄文です

  新海誠監督最新作の公開を前にリバイバル上映している『天気の子』を観に立川へ。『秒速5センチメートル』と『君の名は。』は観たことがあったが、今作は初鑑賞。どうせきっと絵がめちゃくちゃ綺麗なんだろうな……と思いながら、久しぶりのアニメ映画に半スキップ状態で映画館へ。

  と、映画を観終わり電車の中でこの駄文を書きしたためているところなのだが、やはり最初の感想は「わぁ!しゅごい!絵がきれい!」で、もうとにかく絵がきれいだったんですが、僕以外の僕よりまともな人達が数億回は言っている感想だと思うので、これについてはもう黙ります。

  新海誠監督の作品を全て観ているわけではない不肖僕が何か語ろうなど笑止千万ですが、ユートピアな映像にディストピアなシナリオをぶち込んでくるややマゾっ気のある作品が多いなぁと改めて感じました。女体を魅せるシーンの数々がとても有難いことはもちろんだが、「こういう男の子とか女の子がどうにもならない行き詰まった状態、イイよね……!」という新海監督の性癖、もとい心意気を勝手に感じずにはいられなかった。
浮かんだシーンにシナリオを後からくっつけて作品作りをしているかどうかはわからないけど、このシーンを綺麗に映すために結構無茶苦茶なシナリオにしたのかな……?などと邪推してしまうほどに、登場人物がみんな警察に手を出してて笑いました(須賀さんみたいに完全に大人になっちまった人はそれが出来なくなる、その無謀な若さを羨ましいと感じる刑事さん、子供と大人の中間の年齢層で自身の葛藤へのカタルシスとしてバイクを走らせる夏美さん等、魅力的な設定のキャラクターが多かったです。あと、女性キャラがみんなえっちでキュートです)

  その若干整合性に欠けるとも言えるシナリオ(私は映画の完成度のためにストーリーの整合性をあえて無視する作品が好きです)で、主人公の帆高君が拳銃を放つシーンが一際印象に残ると思うんですが、映画お決まりのアレですよね、男性性(ペニス)を象徴する映画脚本特有の比喩ですよね(本当にそうなのか?)

  スタンドバイミーしかり、拳銃の発砲は男性の射精とイコールであり、大人の男性を証明する映画表現です。最初にスカウトのボーイに撃ったのは防衛的にやむを得ずでしたが、陽菜ちゃんを助けに向かう終盤のシーンでは自らの意思で発砲します。帆高君が受けから攻めに転じ、大人の男になった瞬間、ここから本当のボーイ・ミーツ・ガールが走り出すのです。たぶん。
(冒頭で「主体性がねぇなぁ」と言われていた帆高君と、それを言い放った須賀さんという構図。逆転しているのも良く出来ている)

  めちゃくちゃになったレールの上(人生が大体そんなもん)を真っ直ぐに走る帆高君の姿は胸を打たれました。天空で陽菜ちゃんに手を伸ばすシーンですが、他の作品で何度も見た(ナニのパクリとかナニのオマージュとかそんな洒落臭ぇことではなく)少年が少女に手を伸ばすやつ!アレですね。『交響詩篇エウレカセブン』とか、それこそ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』とかのシンジ君みたいな。綾波ィ!
  やはりボーイ・ミーツ・ガールはこうでなくちゃいけない、というか、彼らが出会わなければそれは俺の学生時代となんら変わらんから困る。頼む。

  世界が歪なままで物語の幕が下りるのも個人的に好きです。豪雨でめちゃくちゃになった線路も雨の降り止まない世界も、大小の個人差はあれど誰もが皆どこかそういったままならない世界を生きている。クソみたいな会社だったり、肩身の狭い学校生活だったりがまさしくそれ。『ジョジョ・ラビット』における"悲劇の中の愛"。結局死なない限りは生きなきゃならないので。

  少年はいつだって何かに手を伸ばす。何かわからなくても走り出す。モーレツオトナ帝国のしんちゃんもそうであるように。大人達(=傍観者となってしまった人達)はいつも口先で止めるだけ、ダメダメ大人はなんでもダメダメ……だから須賀さんは涙を流す、それを強く自覚してるのに求めるものに強く手を伸ばせない"大人"だから。あの人は刑事さんを殴った後で、あんなまともに仕事してるんだからすげぇよ……なんとか幸せそうで良かった、頼むから幸せでいてくれ。帆高君よりも須賀さんに年齢が近くなってしまったのでどうしても感情が寄ってしまう……

  つまるところ、何度でも観たような青春映画のようでもあり、RADWIMPSの曲でお涙頂戴といこうったってそうはいくかよ……と思うクソ天邪鬼なアラサー男の私ですが、無事半ベソかきながらパンフレットを全種購入し帰路に着くのでした(何故か電車も間違えました)

「気にすんな高橋、世界は元々狂ってる」
ビックマックも買って帰ろう。

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