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「ちょっと一緒に考えよう」 答えのない問いを巡りたい人に差し出す本。

「差別」とか、「多様性」とか、正直言われてもよくわかんない。だって日本では周りを見ても肌の色も、アイデンティティも、似たり寄ったり。教科書習う差別の歴史も、多様性の大切さも、なんだか雲の上のお話のようだ。

「差別はいけない」「多様性を大切に」。大多数の人はそれらの意見に対して賛成だ。だけど、多様性の渦の中にいる人たちは本当に「差別はいけない」「多様性を大切に」と言えるのだろうか。

他人は分かろうとすることはできるが、本当の理解はできない。

私がいつも心に留めている言葉だ。今回の本はこの言葉を痛烈に感じる。どれほど相手のバックグラウンドを知っても、どれほど声をかける言葉に気をつけても、分かり合えず、衝突してしまうときがある。そんなときに、私はわかろうと努力し続けるのか、わかりあえないと諦めるのか。

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『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』著:みかこ

優等生の僕が通い始めたのはイギリスの元底辺中学校。日本と違い、人種も、貧富の差もみんなバラバラ。おまけに僕は思春期のど真ん中。ちょっとパンクな母親とクールな僕が体験するカオスな日常が描かれている。

母ちゃん「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうあ楽よ。」
僕「楽じゃないものがどうしていいの?」
母ちゃん「楽ばっかしてると、無知になるから。」
母ちゃん「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことだと母ちゃんは思う。」

僕と母ちゃんの会話を聞いてるとちょっとドキッとする。自分は楽ばっかして、無知になってはいないか。自分が楽だと思う人たちばかりとつるんでいないか。

校長「僕はイングリッシュで、ブリテッュで、ヨーロピアンです。複数のアイデンティティを持っています。どれか一つということではない。(省略)よく考えてみれば、誰だってアイデンティティが一つしかないってことはないんですよ」

みんなわかりにくい人より、わかりやすい人の方が安心する。「私は子どもの頃は日本にいたけど、今はアメリカにいて、でも、母親はイギリス人で父親はフランス人なの」とか言われたら、もう頭の中がパニックだ。結局「えっと、君は日本が一番滞在期間が長かったから日本人よりなのかな?」とか聞いてしまいそうだ。人の頭は複雑なこともシンプルにしたがる。それにくらべ、アイデンティティって一つではない。「僕は日本人で男性だ!」って言われた方がすんなりくるし、わかりやすいけど、わかりやすいアイデンティティを持っている人って案外少ない。

自分で誰かの靴を履いてみること、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味だ。日本語にすればempathyは「共感」、「感情移入」または「自己移入」と訳されている言葉だが、確かに、誰かの靴を履いてみるというのはすこぶる的確な表現だ。
他人の靴を履いてみる努力を人間にさせるもの。そのひとふんばりをさせる原動力。それこそが善意、いや善意に近い何かではないのかな、と考えている息子はいった。

自分と違うアイデンティティやバックグラウンドを持った人に出会ったとき、その人の履いている靴を履いてみること。その努力という名の善意に似た原動力をいつまでも持ち続けなければいけない、それは同質性を帯びている日本でも同じだ。私とあなたは肌の色も一緒かもしれないが、全く違う他人同士だ。イギリスと違い、表面的な「違い」がない分、日本は相手の靴を履こうとする気持ちを持つことが、難しいのかもしれない

イエローでもホワイトな子どもがブルーである必要なんかない。色があるとすれば、それはまだ人間としてグリーンであるという、人種も階級も性的嗜好も関係なく、息子にもティムにもダニエルにもオリバーにもバンドのメンバーたちにも共有の未熟なティーンの色があるだけなのだ。

中学生か否か、どうでもいいが、みな未熟なのだ。どれほど努力して、相手の靴を履こうとしても、間違えることはある。相手のことを思い合っているつもりでも、つもりでしかない。その未熟さのじれったさと生きていくのが、人と共に生きていくことなのかもしれない。そんなことを教えてくれる一冊でした。

※題名の「ちょっと一緒に考えよう」は西加奈子さんのコメントである
『隣に座って、肩を叩いて、「一緒に考えない」そう言ってくれました。絶対に忘れたくない、大切な友達みたいな本です。』から引用しました。この本を表すぴったりな言葉だなと思います。


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