表現の自由と自由意志

表現の自由とは人が人として保障される権利の1つである。ただしそれはあくまで法律によって決められた自由なので、法律に従うことを条件に行使できるものであり、知らなければ行使すべきではない。他の権利もそうだがそれを行使する時に内容を知らなければ法を犯す可能性がある。

そう考えると法律の重要性が分かるだろう。本来なら全ての国民が知らなければならないものなのだ。しかし、それは不可能だろう。私もそうだが全てを理解するにはあまりにも数が多すぎる。専門家でさえ全てを覚えられないのに国民全体にそれを強いるのはさすがに酷である。その為の法曹(法律家)ではあるが、一般的なものと自分自身が行使していると自覚しているものであれば知るべきである。

今回のお題の表現の自由は誰もが知らずに行使しているもので、現代のSNS社会においてとても重要な役目を担っている。例えそれが法律に守られたものであっても何を発信するかは自由意志で、それ次第では人の命に関わることだってある。


こちらのイラストはご存知でしょうか?

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これはフランスの新聞会社のシャルリ・エブドが書いたイスラム教に対して風刺イラストである。フランスでは個人に対しての批判は認められていないが、宗教批判は容認されている。これはコーラン(聖書)で銃弾は防げないという風刺で明らかに過激派イスラム教徒を煽る内容だ。

そしてイスラム過激派の襲撃を受け、死傷者が多数発生するテロへと発展した。彼らは法律に基づき表現の自由に則ったが、その結果殺されてしまったのである。つまり、何かを発信する自由はあってもそれに対しての責任は個人にあり法律で守られていない。命がけで発信している可能性を頭に入れておく必要がある。

続いてこちらのイラスト

画像2

このイラストは先程のイラストと似ているので、理解出来たと思われるがこれは先程の新聞社に対しての風刺である。シャリル・エブドじゃ銃弾は防げないといった最大の皮肉とも言える。

しかし、これを書いた少年はテロ扇動罪で逮捕された。なぜこれがテロ扇動罪になって、新聞社の風刺はならないのかまずそこに疑問を抱くはずだ。表現の自由が正しいのならどちらも容認されるべきであり、もしこのイラストがテロ扇動罪になるのであれば最初のイラストも同じくテロ扇動罪になるべきではないのか。

結局のところ、表現の自由にも差別というものがあり自国に対して悪影響と判断した場合はテロ扇動罪、秘密保護法に反するといったなんらかの理由で逮捕することが可能である。

個人であれば誰かしらの顰蹙を買い、バッシングを浴びたり殺害予告などを送られ争いの火種に繋がる。今年日本で起きた京アニの事件もそうだ。京アニが発信した何かに激怒した男が凶行に及んだ。

まとめるならば表現の自由には自由意志が必ず介在する。選択次第では他者を害し害される覚悟を持った上で行動すべきである。





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