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小説家になりたい男の戯言NO.8

綿矢りさ先生の「蹴りたい背中」という小説。この小説がすごい事は、皆さん周知の通りですし、私如きが今さらつらつらと魅力を説明するまでもないので、この場ではやりませんが・・・。

いや、すみません、ウソをつきました。私はこの小説の一体どういう部分が優れているとか、どういう所に感銘を受けているのかを上手く説明できないのです。理由はまた別の機会に記したいとは思いますが・・・。

ですが、この小説を読んで先ず思ったことがあります。それは「やられた」というものでした。

当時私は大学生だったと思いますが、初めてこの小説を読んだ時は、悔しくて堪らなかったことを覚えています。だって私が書きたいなと思っていた世界観が見事に表現されていて、それどころか、その遥かさらに上の表現が成されていたからです。

あの時が、小説を書いている中で初めての挫折というか、自分の視野の狭さを認識した瞬間だったと思います。

当時の私は純文学作家になって、芥川賞を取ることを目標にしていました。

数は多くはありませんが、他の純文学を読んだりして、研究したりもしました。

ですが、その頃の私はとにかくピノキオ。調子に乗りまくっており、自分の作品こそが素晴らしい。こんな程度で純文学を名乗っているなんて恥ずかしくないの?とまで思う程に己惚れていたのです。

純文学って、他のジャンルの小説とは違い、文学の世界で発明と呼ばれるレベルの作品を出さなければ認められないものだと認識しています。これまでの概念を覆すような、全く新しい、エジソンレベルの発明をすることが前提であり、その中でも特に優秀な作品だけが芥川賞に選ばれる。

エジソンの電球がその後の世界を変えてしまった様に、芥川賞の作品に選ばれた小説は、その後の世界を全く別のものに変えてしまう。それだけの格と魅力が詰まっていると私は思っています。

あの頃の私は、その格と魅力があると信じてやまなかったですし、全ての純文学を過去のものにしてやると息巻いていました。

そんな私にクリティカルヒットしてしまった綿矢先生の小説。私にとっては、エジソンの電球どころか、人類が初めて火を目にした時の衝撃のような、私の作品全てを過去どころかゴミ箱に追いやられてしまうような、本当に今思い出しても震えが止まらない作品が「蹴りたい背中」なのでした。
※震えで思い出しましたが、先生の別作品「勝手にふるえてろ」も好きな作品です。

さて、こんな大挫折をおってしまった私。次なる手はなんと・・・。



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