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他人への興味が薄い人は、ちゃんと幸せに生きられるのか?

人への興味が薄い自覚のある28歳女です。人への興味の薄さは単なる性格かもしれないし、育ちかもしれないし、ASDの特性のせいかもしれません。断定は難しいです。

人への興味が薄いと、余計な人間関係に巻き込まれにくいので、ストレスフリーに過ごせるように思います。

反面、幸せらしい形をした幸せには囲まれにくい気もします。

人への興味が薄い人は、若いうちは陰気なtakerとしてぬるっとギリギリ集団に所属するものの、年老いてからは孤独になるような、そんなイメージです。

または若いうちは無理に人付き合いを頑張るけども、疲弊して嫌気がさして、変にこじらせてしまう。

人への興味が薄い仲間のみなさま、どうでしょうか。

冒頭でも書いたとおりわたしは人への興味が薄く、人間関係に巻き込まれることは少ないのでストレスフリーです。その上セルフコンパッション的な心の扱い方も覚えてきて、今のところかなり幸せです。

ただこのまま年老いた場合、友達が少なく、誰かのおめでたいことを祝う機会も少なく、人に会う機会も減っていき、陰気なムードが漂う気がしてなりません。もし家族が全滅したら絡む人がほぼ0になる気がしてなりません。

それはそれでいいのかもしれない。でも本当に良いんだろうか。少し不安が残ります。

人は人に興味があるからこそ人目を気にして身なりを整えたり、親切にしたり、振る舞いを気にしたり、何かをしてあげたいと思うはずです。自分から積極的に関与するイメージです。

でも人への興味が薄いと、人目を気にしなさすぎて、親切にしようという心がけが思い浮かばなかったり、誰かに声をかけること自体が頭になかったり、全体的に受け身になるイメージです。

この特徴が徐々に「何もしない人」「親切じゃない人」「優しさのない人」として煙たがられる可能性もありそうです。

まわりの大人を見てみると、幸せそうに見える大人は、人に興味を持っていそうな人ばかりです。興味があるフリをしている可能性も否定できませんが、その可能性は薄くて、基本的には人のことに興味がありそうです。

逆にくすぶっているように見える大人は、人に興味がなく、悪い意味でいつまでも自分のことばかり考えていて、やや幼稚な印象を受けます。

まわりの大人を眺めてしまうと、どうしてもわたしのように「人への興味が薄い人」は陰気なイメージで、幼稚な印象で、本人にとっても社会にとってもあまりプラスに感じられないのです。

だからといって人に興味がないのに興味を持とうとしたり、無理に親切心を出そうとすると、本来の性質からズレてしまい疲れると思います。

じゃあ我々のような「人への興味が薄い人」はどうしたらよいのでしょうか。どうしたら人への興味が薄くてもそれなりな人生を送れるのでしょうか。

個人的な答えは「どこまでなら興味を持てるのか?」の範囲を把握して、その範囲内の人くらいは大切にして生きることかなと思います。

例えば「家族にはさすがに興味が持てる」のであれば、家族を作ったり、実家で暮らしてみたり、家族みたいな関わりの人を増やしたりする。

例えば「恋人にはさすがに興味が持てる」のであれば、恋人との関係性を何よりも大事にする。

身内ばかりと交流するのは、依存的であり、時には不健全になってしまうかもしれない。でも興味の持てる範囲にしか興味を持てないのだから、そこを大事にするしかない。

心の底から自分にしか興味を持てない場合もあるのだろうか?それは他者との交流が希薄すぎたり、何らかのトラウマがあって心の中がぐちゃぐちゃしていたりする場合かと思うのだけど、どうなんでしょうか。

興味がないというか、興味の範囲が狭いというか。その場合は、できるだけ小さな会社で働く。いつか子供を産む(または里親として子育てする)。田舎暮らしを楽しみたいような、似たようなフェーズの友達を作る。そういうことをしていくしかないのかなぁ、と思います。

なかなか人に興味を持ったり、親切心を出したりするのが苦手だけども、できるだけ幸せっぽい大人に近づいていきたい。そういう28歳。

生きやすさやストレスの無さは自分の強みだと思う。でも、それは「人への興味が薄い」という大きな特徴の裏返しだ。何事も一長一短だな、という普通の感想に辿り着いてしまった。人ヘの興味が薄い属の大人はどんな風に人と関わり、どんな風に幸せを形作るのか気になります。

毎日投稿40日目。一人でこうやってnoteを書き続けられるのは、何かに役立つんでしょうか。ネット上の似たような人に遭遇できるのは嬉しい。地下の深いところで、ゆるく繋がっていたいです。地上は疲れます。


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