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彗星の夜明けに墓標を

音楽も文学も、救いでこそあれど味方ではなかった。

午前4時、空が徐々に白んでゆく。それを、黙って見ていた。夜が明ける。最後の夜が明ける。振り返ると柔く東雲の風が撫ぜて、藤色の長い髪をゆら、と揺らした。心臓が頼りなく脈を打つ。表情の見えない顔は、伺っても覗かなかった。何も言わないで、何も聞きたくないから、それも多分お互い様だ。BPM80。確かないのちだった。歌詞をつけるなら何が似合うだろう、とぼんやり思った。綺麗な言葉ばかりが浮かんだ。綺麗な言葉が、怯むくらいに似合う光景と、その中に、縹が佇んでいた。夏の暁、清々しいくらいの明の中に、僕達だけが夜を引き摺っている。そんなふうに思った。思って、まだ立ち上がれないでいた。朝露がスニーカーを濡らす。矢張り僕らは、何も言えなかった。情景だけが、平等に美しかった。彗星の最後の夜だった。それが終わっていく。その永い航海の中で、こんな個体のまま生きて逢うことはもう二度と無い。だから縹を誘った。低い丘、疎らに起き出す街並みを眼下に、ぼんやりと言葉を探していた。やけにゆっくりと開ける夜を見送っていた。

「彗星?」あの丘に彗星を見に行こう、と言った時、驚いたみたいに声を上げた。雨上がりの空、夏の始まりの日だった。窓際でギターを弾いていた。眼鏡の奥の瞳を気だるげに伏せた。斜陽がカーテン越しに、柔く2人と声と音を刺していた。
「僕らの最初で最後の彗星かもよ」
「それにしたって随分珍しいじゃない」
「星なんて興味無いと思ってた」
インスタントのコーヒーが冷めていた。

「命日にしようと思って」。
見開いた虹彩に逆さまに僕が映っているみたいだった。どういうこと、と問う声が少し弱く震えたのを無視した。僕はこの声が欲しかったのかもしれない。

「辞めようと思う。音楽も、文学も。」

息を飲んで、呆然とした双眸に薄く膜が張った。
26度目の夏、音楽と文学を信じて10度目の夏だった。手元には何も無かった。CDも、本も、名声も、賞も、お金も。「だから縹、」「彗星を見に行こう。ここから見える最後の日に。」その日を僕の音楽と、文学だったものたちの命日にして、例えば形の残らない墓標にする。そう決めていた。そうでもしないと終われないと思った。せめて美しさと感傷のひとつも無いなら報われない。いつまでもなり損ないのまま生きてしまう。本当はもう分からなかった。執着だけで掻き鳴らしていた、乾いた言葉をどうにかぎこち無く貼り付けていた。「・・・・・・いかない」消えそうな声だった。そう、とコーヒーを飲み干した。縹がそう言う事も、識っていた。

だから縹は来ないと思っていた。午前1時、薄明と彗星を待つ丘、ギターと、ぼろぼろのノートと、薄汚れたペンだけを一纏めに背負って息を吸った。ストロークを3度、このコードを鳴らすのもきっと最後だ。嘘みたいな星空の下で、そのコードに、良く識った、澄んだ声が重なったから驚いた。「縹、」ばつが悪そうにそっぽを向いた。見届けに来たんだ、音楽家の、作家の最期を。わたしがいちばん近くで見ていた、そして、愛してもいた。ねえ、それは嘘だ。音楽も、文学も、その全ては君なのに。言葉にすれば縹まで否定してしまう様で、それが嫌でまたコードを弾いた。縹には光がある、未来も。僕が、僕だけが足りなかったのだ。初めて書いたうたから、順々に歌った。演者が2人なら、聴衆も2人だ。僕の全てだったそれが、世界の誰に届くことも無く、静かに夜に消えていく。なんて事ないすべてだ。ちっぽけな恋のこと、納得できなかった日々のこと、安い正義感とか、エゴみたいなもの。ああ、初めて気がついた。僕の音楽は、文学は、エゴばかりだった。昇華されないまま火葬していくようだ。小説のノートは開かなかった。何となく、それが正しい気がした。
午前3時、僕の作品が残り4つになったとき、不意に言った。「ねえ、彗星には、願っても無駄なのかな。」流れ星に3度願うように。無駄とは言えなかったから、曖昧に頷いた。気づいていた。視線の先に、ゆっくりと遠のく彗星を。それは想像していたよりずっと味気無く、確かな足取りで己の道を辿っていた。先の見えない夜を裁つように。思っていたほど心は動かなかった。それがいちばん、かなしいのだ。「この夜が終わらなければいいのに。彗星が行ってしまわなければ良かったのに。それかいっそ、この街に落ちてくれればいいのに。」ぼうと眺めながら呟くのを聞いていた。たどたどしいアルペジオが馬鹿みたいだ。ああ、その気持ちでじゅうぶんだと片隅で思った。彗星が消えていく。うたも直に終わる。僕の人生の全部だったものが、こうして終わっていく。


「あのさ、」縹、僕はさ、きっと幸せだったのかもしれないね。

午前5時45分。視界の隅を始発が切り取って往く。「もう、往こうか」彗星はとうに彼方に去った。もう追いかけることだって、当然出来やしない。立ち上がる。僕が拾い上げなかったギターのケースを背負って、小走りで並んだ姿を見ていた。黙って丘を降りた。振り返らなかった。振り返らなかった。

午前7時、雲ひとつなく晴れていた。人気も疎らな2番線、ギターとノートは縹が背負っていた。僕はほんの少しのお金と、服と、吸ったことも無い煙草だけを無造作に鞄に詰めていた。1時間に1本の電車が来るまであと23分。こんな時なのに、軽薄な言葉しか浮かばない。下を向いて、黙って電車を待った。何か言いかけては拳にした。早く電車が来てしまえばいいと思った。焦っていた。揺らぐ前に遠くへ行ってしまいたい。ビル街、色のないまちの雑踏に溶けてしまいたかった。12分。初めてギターを弾いた日のこと、初めて小説を書いた日のこと、それを以てご飯を食べて、生きていくと決意して、託した日のことを思い出していた。全部鮮明に覚えていた。そのどれもに縹がいた。7分。不意にメロディーを聞いた。他でもない、縹の声だ。少し低くて柔い声だ。ささくれに沁みるようなそれだ。好きだった。その声も。僕の音楽に、言葉にその声が乗るのが、世界でいちばん誇らしかったのだ。識らないうただ、――ああ。きっと餞だ。あの閃光よりもきっと、うつくしい弔花みたいだ。2分。電車が来る。矢張り僕は黙っていた。うたが終わらないように祈った。その表情を見たら泣いてしまいそうで、そんな不格好な最後にだけはしたくなくて対のベンチを睨んだ。1分。大仰な音を立ててドアが開く。疎らな人影が、その車内に吸い込まれていく。発車まで、数える指も、もう無い。静かに声が解る、弔いが、終わる。殆ど空の鞄が、酷く重たく感じた。

――ジリリ。

発車が近い、と、それを知らせるみたいにベルが鳴る。「ごめん」、それだけ置いて飛び乗った。縹の手が空を掠める。触れなかった、触れられなかった。弾けるみたいに顔を上げた。言葉を探しているみたいな表情だ。探した言葉を殺すみたいなベルが裂いていく。ドア、閉まります。警告音。閉ざされていく。

いかないでよ。

口の動きだけでも確かにそう叫んだ。音楽も文学もやめないでよ。聞くよりずっと鋭く、真っ直ぐ鼓膜を穿いた。無慈悲に重たいドアが閉まる。煤けた窓に縋った両手が力なくしなだれる。2番線。発車致します。ゆっくりと後ろに流れ出す。僕は直ぐに俯いた。ごめん。ごめん何もかも。こんなのは狡いって解っている、それでももう良かった。もういいんだ、もう傷も付きたくない。僕の救いに裏切られたく無かった、だからおしまいだ、お終いにするんだ。振り返るな、思い出させるな、引き止めるな。お願いだ。拳が勝手に震えるのが解った。ホームが遠のいて見えなくなる。君と音楽を作ったあの窓際も、言葉を繋いだ夕暮れも、彗星の丘もやがて見えなくなる。いつか忘れてしまうんだ。何も、何も無くなった。何も残らなかった。

ギターも五線譜もノートも、縹も、全部置いて僕という人間は死にゆく。死骸を浮かべるように透けてゆく。音楽家でありたかった、作家でありたかった、なりたかった、僕を無機質な雑踏がきっと殺していく。「うあ、あ、」踏切が上がる。片道の切符がみるみる滲む。車輪がごうと音を立てた。描き消すみたいだ。メロディーも、号哭も、からからと笑う声も、セピアのインクの痕も金属と無機質が無造作に消していく。君のことを。君のことだけを歌いたかった。君のことだけを書いていたかった。全てを残したかった。誰でもない、僕が、僕と、縹で。悔しい、悔しい。悔しくてたまらない、言葉なんて足りない。ぼたぼたと水が塩辛かった。もう二度と戻らない。墓標もない。音楽も文学も、そんなものに夢を託した僕も、縹も、あの淡い色彩の日々も、彗星も、ぜんぶがまやかしだったのだ。


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書いた人:栃野めい(@zigzz__)
写真をお借りした人:kissyou22様

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