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百卑呂シ随筆

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#記憶

ある建物の記憶

 昔、学生寮に住み始めて間もなかった頃、天袋に何かを入れる際に押入へ足をかけ、長押に手をかけたらその長押がボトリと落ちて驚いた。  古い建物だったから、これが元で崩れたりしては一大事と焦って寮母さんに云ったら、あぁこれねといった様子で釘を打ち付けて固定した。  その際に随分ガンガンやったものだから、周りの部屋の先輩らが出て来たのだけれど、みんなやっぱり「あぁこれね」といった風だった。それを見て、そういうものかと思って自分も安心した。  最前、押入に足をかけたと書いたけれど、

どん兵衛、ひよこ

 幼稚園の年長組の時、一度、土橋君の家へ遊びに行った。  土橋君のお母さんから後で聞いた話だと、彼は「百君と遊びたい」と常々云っていたそうで、そんなに遊びたがってくれるなんて、と自分の母は大いに感銘を受けていた。  あの時、何をして遊んだのかはもう覚えていないけれど、おやつなのか何なのか、どん兵衛を一緒に食ったのは覚えている。  お湯を入れて待つ間に土橋君が「お前、揚げから食う? 麺から食う?」と云ってきた。  どちらから食うかなんて考えてもいなかったし、この時はまだ油揚げ

気づいたら、いなかった

 小1の時に転校生が来た。  先生が「新しいお友達です」と言って黒板に「さえだのりふみ」——仮名——と名前を書いた。くっつけて書かれたものだから、最初は「さえだの・りふみ」だと思った。「りふみ」とは珍しい名前だなと感心したが、実際は「さえだ・のりふみ」だと段々わかった。  さえだとはあんまり趣味が合う感じではなかったけれど、存外一緒に遊んだ覚えがある。彼の家では庭に小屋を作ってうさぎを飼っていた。  一度、さえだのお父さんに連れられて、近くの山へ何かの葉っぱを採りに行った

大自然とカレー

 高一の時、林間学校で班ごとに晩飯を作ることになっており、何だか面倒くさいと思ったから、飯盒で米を炊くのは仕方がないけれど、料理は湯を沸かしてレトルトカレーでいいんじゃないかと班のメンバーに提案したら満場一致で採択された――実際は一人だけ不服そうだったが、多勢に無勢で押し流された――。  それでみんなで近くのスーパーへ行って、思い思いのレトルトカレーを買って来た。自分はククレカレーを買ったように思うけれど何しろ昔のことだから定かでない。ボンカレーだったかも知れない。  当日

台風、ウルトラマン、安い傘

 台風の雨と風の音で、夜中に一度目が覚めた。 ※  小学校1年生の時、台風が来ている日にテレビでウルトラマンを見た。ミイラ人間の話だった。  外の風が随分激しくなったのが気になり、ベランダのドアを開けたら強風で持って行かれてドアのガラスが割れた。  自分も驚いたが妹も驚き、「熱が出るから寝る」と言って寝室へ逃げた。ちょうど風邪が治りかけているところだったのだ。  母が飛んできて、割れた部分にビニールのテーブルクロスをガムテープで貼り付けた。翌日ガラス屋を呼んで直してもらっ

深みとリアリティと黒歴史(2023/07/12)

 昼休憩中に、昔の日記の転記作業をした。 ※  3年前からGoogleドキュメントで日記を書いている。月日をタイトルにしたドキュメントを366個作って同じ日付に毎年記入するスタイルだから、去年の今日はどうしていたかが自然にわかる。成長するため云々みたいな説教くさいことでなく、単に面白いからやっている。  面白いの延長で、随分昔に手書きしていた日記も随時こちらへ転記し始めた。  社会に出たばかりの頃のは読み返して面白かった。なるほど、これがああなってこうなるのかと、人の変

記憶と万年筆

 好きな物について書いてみる。 ※  元々筆記具好きの気があって、仕事中に自席でメモを取ったり、書きながら考え事をするのに万年筆を使っている。  万年筆の効能は「使うと気分が上がる」ということだ。これは単に好きなものを使うからそうなっているので、何も万年筆限定の特別な力ではないけれど、何をするにも気分の上昇は大切だ。気に入った道具を使うことで仕事のモチベーションが上がるのなら、限定の効能でなくても使う意味は十分ある。  見るからに “万年筆!!!” というようなのを使

オサダ君とカウンタック

 オサダ君は幼稚園に入る前からの友達なので、恐らく幼馴染と云って差し支えないのだろう。  祖父母と同居することになって、引っ越す前から「近所にオサダ君ていう同い年の子がいるから友達になれる」と聞かされていた。  引っ越したその日からオサダ君は早速遊びに来た。先方でも裏の百さんのところに同い年の子が来ると聞いていたのだろう。  オサダ君は黄色いカウンタックがプリントされたTシャツを着ていた。  その日からほとんど毎日一緒に遊んだと思う。  彼の家で緑ジャケットの『ルパン三世』

横浜、記憶の美化

 横浜開港記念日(6月2日)に託けて、むかし書いたものをリライトする。 ※  1994年から99年まで横浜に住んでいた。当時は『わくわくパスタ』(仮名)というブラック職場で過酷な労働をしていたものだからこの街にはそれ相応の怨念めいた記憶もあるが、基本的には好きだ。第二の故郷だと思っている。  先日仕事の都合で、昔住んでいた辺りに行った。14年ぶりである。あんまり懐かしかったから少し散歩をしてみた。  かつて『わくわくパスタ』があった場所には巨大マンションが建ち、当時の面

富士見湯、宮内のこと

 1990年4月から91年の10月まで、鈴木学生寮に住んでいた。  鈴木学生寮は、朝・晩の食事付き、風呂・トイレ共同の学生アパートだった。  周りの部屋には女子もおり、週末には誰かの部屋に集まってみんなでわいわいやっていた。自分は4月生まれなので、ちょうど馴染んだ頃に先輩たちが誕生日パーティをやってくれたのを覚えている。  寮の食事と風呂は平日だけなので、土日は銭湯へ行った。  銭湯は『富士見湯』だったか『富士の湯』だったか、そんな名前だったと思う。ここではとりあえず富士

車窓から(その6) 〜フクロウ翁・故郷

 相生駅からの乗客は予想外に多かった。まさかそんなこととは思いもせずに油断していたものだからあれよあれよという間に席を取られ、岡山駅まで1時間ばかり立ち乗りすることになった。  昼飯にするつもりだったテリヤキバーガーもランチパック(ピーナッツ)もこれでは手をつけられたものではない。結局、岡山で乗換電車を待ちながら食った。昼飯というよりおやつに近い刻限だった。滋賀県で買ったパンを岡山で食う男、と思った。 ※  在来線で大阪~広島間は大学時代に何度か行き来している。当時の乗