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魔女は炎を抱く


 例えば、人生が一冊の本だったとして。
 そこにはなにが書かれているのだろう。
 星のように輝く希望か、焼け焦げるような絶望か。
 心躍る冒険か、隠された悲鳴か、あるいは自分自身の願いなのか。
 読み進めればわかるだろうか。いつか──。

第一章 魔女は希望を抱く

灰色の睫毛、煤のように黒い瞳からすうっと、火傷の痕が痛々しく残る顎に向かって、涙が零れ落ちていった。時雨のようにぽつっぽつっと、本を持つ白い手が濡れた。手のひらにも、火傷の痕が残っている。魔女は嘆息を漏らした。まるで巨匠の描いた絵画が動き出したかのようだった。
 少年はそれを見てふっと微笑んだ。古い本のように白と薄い茶色の混ざった髪色のこの少年は、魔女の弟子だ。
 弟子は魔女に白い麻のハンカチを差し出しながら言った。
「師匠、本が湿っちゃうっす」
「分かっている。しかし、君、この物語はあまりに……」
 魔女は口をつぐんだ。図書館を見まわしながら、手の中の本の感想を、なんと表現すればいいかを考えた。感動、傑作、そんな陳腐な言葉で形容したくなかったのだ。
 魔女が本を閉じると、図書館に重い音が響き、そして再び静寂が訪れた。
「素晴らしかった」
 結局、陳腐な言葉でしかこの本を飾れないことを残念がりながら、本を胸に強く抱きしめた。心地よい苦しさが、魔女の心に残った。
 師匠のそんな幸せそうな顔を見ていると、まだ読んでいなくても、どれだけ素晴らしい本なのか、弟子にはわかった。四方八方を本で埋め尽くす図書館で、彼女が我が子のように抱きしめた本は何冊あるのだろう、と思った。
「その人の『願い』は何だったんっすか?」
 弟子が、茶を淹れながら訊ねた。辺りに爽やかなハーブの香りが広がった。
「……私がネタバレをするように見えるかね」
「……見えないっすね」
「フフフ、ネタバレにならない範囲で言うなら、ある種、願いというより、呪いのようだった。どうやら私も呪われてしまったらしい」
 宝を手放そうとしない、子どものような魔女の様子に、弟子は困り顔で笑った。
 ……ばさ、ばさばさ、ばさ‼
 一羽の鳥のように、本が飛ぶ。ページがどんどん捲れる。そこにはなにも書かれていない。始まりも終わりもない本が、物語を求めている。
 弟子が慌ててティーカップを置いた。魔女もまた、恍惚とした表情から一転して、新しい大陸を見つけた冒険家のように不敵に笑った。
「師匠、本が光ってるっす!」
「まったく、ファンレターの一つくらい書かせてほしいものだね」
 本は猟師に撃ち抜かれたかのように力なく落ちてきた。弟子が大切に受けとめ、開くと何も書かれていないはずの本を読み上げた。
「北北東、距離一八八っすね。ここは……」
「行こう、我が弟子。あの国は災害があった後だ。貴重品は魔法で隠したまえ」
 魔女は立ち上がるなり、火傷の痕を隠す大きなローブを纏い、いかにも魔女らしいとんがり帽子をかぶった。弟子は慌ててカバンを準備した。紺色の外套の内ポケットに魔法陣の書かれた巻物や財布を突っ込むと、一瞬にして見えなくなった。
 弟子は忙しなくポケットを叩いて荷物を確認しているのに対し、魔女は優雅に、準備は全て整っていると言わんばかりに玄関の扉を開けた。艶やかな黒髪がたなびく。
 古くからの友人に会いに行くような、そんな表情をしていた。

 その街に着くとうっすらと潮の香りが鼻につき、少し冷たい風が肌を撫でた。
 輝く本は弟子の腕の中で、今にも孵りそうな卵のようにごそごそと動いていた。
 二人は本が行こうとする方向へ導かれるままに歩き始めた。
「図書館に比べると、だいぶ涼しいっすね」
 弟子は外套のボタンをかけながら言った。
「春先だからまだいいが、真冬はしんどいぞ。なんせ雪が積もるからな」
「へぇ。ボク、まだ雪、見たことないっす。白くて冷たいってことだけは本で読んだんすけど」
「そうだな……。灰色の雲からはらはらと舞い落ちる姿は、さながら白蓮のようだね」
「……それって、さっき読んだ本に書いてあったっすか?」
「なぜわかったんだね⁉」
「だって師匠、素敵な描写を読むとすぐに引用するんだから、バレバレっすよ……」
 そんな会話をしているうちに、魔女たちは海岸に着いた。
 本に導かれるまま歩いて行くと、激しい波に打ち付けられてできたのであろう、断崖絶壁があり、その上に小さな人影があった。子どもだ。
「あいつだな。落ちてくるぞ」
「え?」
 弟子があっけに取られているうちに、子どもはふらり、落ちた……。
 ……が、子どもは何かに足を取られ、海に落ちることなく、宙ぶらりんになっていた。
 弟子は慌てて駆け寄り、手を差し伸べた。その子どもの足元に目をやると、魔法で出来た蔦が絡みついているのがわかった。魔女はゆっくりと近づき、その蔦を片手でぐい、と引っ張り子どもの足を掴むと、にやりと笑った。
「スリル満点だな。楽しかったか、クソガキ。水泳するにはまだ寒いぜ」
「くそっ……ほっとけよ、バケモノ女!」
 悪態をつく子どもを衛兵に突き出すか、そのまま吊るしておくか、海に突き落とすかで魔女が迷っていると、弟子が、あっ、と声を上げた。
「師匠、これ……」
 光輝いていた本からは光が消え、代わりに、その子どもの顔とそっくりな肖像画が表紙に現れ、すぐに消えた。
「ふん……見るからにつまらなさそうなクソガキだが、本はお前を選んだらしいな」
 魔女は子どもを降ろした。そして地面に片膝をつけると、打ち上げられた魚か海老のように暴れる子どもに向かって言い放った。
「よく聞けガキ。お前は今、チャンスを手に入れたぞ。願いが一つだけ叶うなら何を願う?」
「……金!」
「ありきたりすぎてつまらん願いだな」
 魔女は眉をしかめて溜め息を吐く。紅い魔法石の埋め込まれたシルバーのピアスをコリコリと擦ると、心底つまらなそうに腕を組んだ。
「まあ、いい。本が選んだのなら仕方ない。契約を交わすとしよう」
 魔女は咳ばらいをし、威厳を含んだ声で子どもに言った。
「いいか、ガキ。この本に物語を書け。それがお前の支払う代償だ」
「ああ? なんでそんなことしなくちゃなんねぇんだよ! 離せよ!」
 子どもが魔法で拘束された足を必死に解こうとするが、びくともしない。魔女はその様子を冷ややかな目つきで見下ろした。
 そして、弟子が大事に抱えていた本を開くと、何も書かれていない、真っ白な紙を指でなぞり、ある呪文を唱え始めた。
「【汝、神命を賭し、物語を紡げ。世界を変えしその物語は、汝の真の願いを現実にする……】」
 魔女が呪文を唱えるたび、本の輝きが増していく。まるで、その本自体が生きているようだった。
 やがて、眩いほどの光に包まれた魔女が、ゆっくりと口を開いた。
 魔女は弟子を見つめた。弟子は、ただじっと見つめ返した。
 魔女は微笑みながら言った。
「……君が願うなら、私は君を永遠に忘れないよ」
 その一言が、弟子の記憶を呼び覚ました。
 燃え盛る炎の中で、魔女と弟子が初めて出会った、あの時だ。

『――あなたは……誰っすか。ボクは……誰っすか』
『――何も、覚えていない、のか』
 魔女は空ろな目をした『彼』を見ていた。煤にまみれ、真皮が焼け爛れた腕で、魔女は『彼』を抱きしめた。
『私の名前は、シクラ・B・フロウ。君の名前は――』
 それは遠い記憶の出来事なのに、魔女の温もりは、今もなお鮮やかに残っている。
『わからなくてもいい。覚えていなくてもいい。君が願うなら、私は君を永遠に忘れないよ。私が君の代わりに…… 覚えているよ』
 それが弟子の、最初の記憶だった。
 そうして今、魔女はまた弟子に同じ言葉を言った。
 あの炎の中で生まれた日と同じ、優しい笑顔で。
 なぜ今、魔女がそのセリフを言ったのか、弟子にはわからなかった。

「よし、これでいい」
 気がつくと、光は消え、契約は終わっていた。
 魔女は子どもに本を差し出しながら言った。
「あとはこれに物語を書け。物語が完成すれば、お前の願いは叶う」
 子どもは、差し出された本を手に取った。本は、もう光っていない。
 魔女はもう、用はないと言うように背を向けた。そしてそのまま歩き出す。
 だが数歩進んだところで立ち止まり、「……私は魔女は魔女でも『本の魔女』だ。覚えておくといい」魔女は振り返らずに、右手を上げてひらりと振った。
「じゃあなクソガキ。私のことは誰にも言うんじゃないぞ?」
 返事を待たず、魔女は行ってしまった。弟子はまたね、と言い、魔女を追いかけていく。魔女の姿が見えなくなるまで子どもはずっとその場で寝転がっていた。足に絡まっていた蔦は、既に消えていた。

  *

「富を望んだものはほとんどが破滅した。妻や臣下に毒殺されたり、贅を貪りすぎて早逝したり……ククク、せっかくの金をギャンブルに突っ込んで大負けしたバカもいたね」
「うわ……悪い顔してる……」
 二人は子どもと別れた後、近くの宿に来ていた。宿の中にあるレストランでは美味しそうな海の幸が並び、テーブルマナーを教えられた弟子はナイフとフォークを持つ手が震えていた。魔女はワインを飲みながら上機嫌で語り続けた。
「人は、命を削ってでも金を稼ぎ、その金で長生きしようとする。人間は未来を考えすぎて、今を楽しまない。わかるかい、弟子。人間は現在にも、未来にも生きていないのだよ。そうして金に囚われて、生きないまま死んでいくのさ。残酷だね」
「それも引用っすね」
「あ、あー、うむ、この牡蠣は美味い。濃厚な磯の香りと檸檬の酸味がふわあっと口に広がるよ。海の乳とはこれほど……。気に入った。二、三日ここに滞在しよう。あのクソガキも気がかりだしな。うん」
 魔女が大慌てで捲し立てた。クソガキというのはさっきの子どものことだろう。弟子は蒸し牡蠣を食べながら、あんな子どもが自殺をしようとする理由を考えていた。
「確かにあの子のことは気がかりっすけど……こんな高級宿に泊まれるんすか?」
「言ったろう? ギャンブルで負けたバカがいたって。勝ったのは私さ」
 弟子は納得すると同時に呆れてしまった。しかしまぁ確かに金持ちの道楽というか、お金が有り余っている人間にはこういう使い方もあるのかと感心してしまう。
 食事を終え部屋に戻ると、弟子はすぐにベッドに飛び込んだ。ふかふかの布団が気持ちよくてついゴロゴロしてしまった。魔女はその様子を見てクスリと笑みを浮かべた。
 そして魔女は、机に向かうと何か文章を書き始めた。
「図書館で言ってた、ファンレターっすか?」
「ん。どうしても書きたくてね」
 弟子は起き上がり、魔女の背中を見つめた。
 魔女は、いつも自分のことを語らない人だった。何が好きで、何が嫌いなのか分からない人だ。だが、本を心底愛していることだけは、誰の目にも明らかだった。
 魔女の弟子になってからというもの、師匠は毎日のように旅をし、誰かに本を書かせ、その本を読んでいた。
「よい文章は、知識を与える。よい描写は、視点を与える。よい台詞は、勇気を与える。よい物語は、人生を導く。即ち、よい本は、世界を変えてゆくもの也」
「それも、何かの本に?」
 弟子の言葉に、魔女は静かに首を横に振る。
「私の師匠が言っていたことだ」
「師匠の師匠ですか。……その方は、今は何を?」
「亡くなった……。焼死だ」
 魔女は首元の火傷痕をさする。弟子は魔女の悲しそうな表情を見ると、それ以上は何も聞けなくなってしまった。
 魔女はペンを置くと、椅子から立ち上がり窓際に向かった。
「あの本は運命を待っているんだ。世界を変えられるほど、強烈な運命を……」
 魔女は目を細め、窓から外を見下ろした。
 弟子もその視線を追う。そこは、街の広場があった場所だ。そこには今は、何もない更地が広がっていた。『災害』の爪痕なのだろう、と弟子は推測した。魔女はそれを見て、目を細めた。まるでそこに、かつてあった景色を思い出しているかのようだった。
「運命の種は、環境や時代のせいで芽吹かないことも多い。それが普通だ。私の本は、その種を割る力を与えるのさ」
「本が願いを叶えるのはどうしてっすか?」
「人間の良心は欲望によって揺らぐ。なら、それを満たしてやれば、運命はより良い方向へと進む。本は世界を良い方向へと導いているんじゃないか…… と、私の師匠は考察していたよ」
「そんなすごい物語……あの子に書けるんすかね? 何かの間違いじゃ……」
 弟子は心配そうに言った。魔女がそれを聞いて、苦笑いしながら答えた。
「書かせるさ。でないと私が面白くない」
 師匠がそう言うのなら、きっと大丈夫なんだろうと弟子は思った。
「早く寝たまえ。明日は観光に行きたいから」
 魔女は、弟子の頭をぽんと撫で、弟子の隣で横になった。
 弟子がそっと魔女の手を握る。すると魔女も優しく握り返した。そのまま二人は眠りについた。

 翌日、二人は朝早くから街を歩いて回っていると、唐突に昨日の子どもが現れた。
「おい魔女野郎! この本、売ろうとしたら手から離れなくなるし、破れねぇからケツも拭けねぇじゃねえか‼」
「……弟子クンや、君の言う通りだったかもしれない」
「いや……でも本が選んだのは間違いないっすし……」
「目が腐ってるんじゃないか? いや、本に目はないか。これぞブラックジョークならぬブックジョーク。ククク」
 魔女のくだらない冗談を軽く聞き流して、弟子は少年に詰め寄った。
「学校はどうしたんだよ、君。確かこの国は、国税で学校に通えるはずっしょ?」
「はん、俺には必要ねぇんだよ! あんなトコ!」
 少年は吐き捨てるように言い放ち、手に持っていた本を魔女に向かって投げつけた。
 魔女はそれをキャッチする。
「学問の大切さがわからない……とは違うようだな。学校に何かあるのかね?」
「逆だよ! 何にも面白いもんがねえ! がやがやきゃあきゃあうっせーし、古い校舎だからくっせーし、一生懸命やってもバカを見るし、ちょっとサボればついて行けねぇし、それに……」
 そこまで言って、言葉が止まった。少しだけ顔に影が落ちたように見えた。しかしすぐに元の表情に戻り、子ども特有の大きな声で言った。
「とにかく、ムカつくんだよ! 大人になんかなりたくねぇ‼」
 ふん、と子どもが鼻を鳴らす。弟子は肩をすくめた。
「……クオン姉がいればな……」
「クオン?」
 少年が呟いたその名前に反応して、魔女は思わず口に出してしまった。
「クオン姉は俺の友達……みたいなもん? 二年前の、『災害』があった頃にクオン姉と会ってよ。今は会えてないけどさ。すごい人なんだぜ。まるで勇者みたいで」
 その瞬間、魔女の顔つきが変わった。
「お前、名前は?」
「あん?」
 突然名前を聞かれて少年は一瞬戸惑ったが、すぐに返事をした。
「……ミライだよ」
 それが本名なのか偽名なのかは、弟子には分からなかったが、その答えを聞いた魔女は満足げだった。
「なるほどな……そうか、お前がか」
 魔女は本を閉じると、それを懐にしまった。
 魔女は先程までとは打って変わって真剣に、目の前の子どもを見ていた。
 まるで、何かを確認して覚悟を決めたような、そんな目付きをしていた。
 魔女はしばらく黙っていたがやがて口を開けた。
「お前はまだ、【産声】をあげてないんだ」
「あん? 産声なんざ、えーっと、……じゅう、さん? 年は前になあ!」
 いきなり変なことを言い出した魔女を、馬鹿にするかのような態度で子どもは答える。だが、それでも魔女は動じない。それどころか、さらに続ける。
「違う。人間は二度産声をあげる。一度目はこの世に生まれたときで、二度目は……」
 魔女は、静かに、はっきりと、そして優しく言った。
「自分が自分として、生きる意味を知った時だ。自分自身を産み直すと言ってもいい」
「はあ?」
 誰かを祝福するように、願うように、祈るように、そして、愛する人に囁くように。
 そんな風に、魔女が言った。
「この本がお前を産み直す」
 魔女が一冊の本を差し出した。その本は、魔女がこの街に来る直前に読んで、涙を流していた、あの本だった。
 ミライは、不思議そうな顔をしてそれを受け取った。
 表紙には、「明日、死ぬとしたら」と書かれていた。
「なんでこんなもんが俺を産み直してくれるんだよ。なんかの間違いじゃねーのか?」
「読めばわかるさ」
 魔女はそれだけ言うと、とにかく本を開くように促した。
 弟子も興味深々でその様子を見つめる。ミライは本を開き、読み始めた。弟子は、自分の予想が外れて欲しいと心の底から思った。だってこんな、子ども向けとは思えない難しい字ばかりの文章を読めるわけがない。だが、弟子の考えとは裏腹に、ミライはどんどんページを読み進めていった。まるで最初から知っていたかのように、文字を読むスピードが落ちることはなかった。
「二年前の『大災害』についてだ……」

 災害で、私は何もかもを失った。家だけなら、まだよかった。お姉ちゃん、お兄ちゃん、お父さん、お母さん。友達の、みんな。失ってしまった。私だけが生き残ってしまった。私は何もできなかった。
 あれから五ヶ月後。私の体は、ボロボロになっていた。家族の遺体が見つからず、寝食を忘れて探すうち、心も体も疲れ果てていた。
 神様に祈った。どうかお願いします、と。毎日のように祈り続けたけど、無駄だったみたい。結局、誰も救ってくれなかった。でもそれは、仕方ないことなんだと思う。
 あの日、私が家に居たら助かったのか? いや、きっとダメだ。家は壊れて、皆と一緒に死んでしまっていただろう。それに、私がいても同じことだ。どうせ同じだ。
 きっと、もっと酷いことになっていたに違いない。
 この国は、再び立ち上がろうとしている。いずれ必ず立ち上がるだろう。でも、立ち上がったとしても私の家族はいないのだと、あの日常は戻ってこないのだと思うと、私だけは永遠に立ち上がれないような気がした。
 体の中に大穴が空いたように、悲しいのに涙は出ず、寂しいのに声は出ず、生きなければならないのに力が出ない。
 なぜ私だけが生き残った? 神がいるなら呪い殺す。死神がいるなら恨み殺す。家族を救ってくれなかった奴らなんか、滅びればいい。
 私は生きる理由もわからないまま、家族の遺体を探して、海岸沿いの遺体を運びつづけた。中には、見知った顔の人も居て、私の傷は深く広くなっていく。
 泥のような雲から、蓮の花びらのような雪がはらはらと降ってくる。背中にだらりと力のない肉の感触がある。まだ生きていたかった誰かを、運んで、運んで、運んで……。そのたびに声が聞こえる。
「お前が死ねばよかったのに」
 それでも運んで、運んで、運んだ。私に出来ることは、それしかなかった。
 兄の遺体を見つけたのは、私ではなかった。私以外にも、同じ境遇の人は大勢いて、いつの間にか私たちは遺されたものとして、傷を舐めあいながら家族を探していた。
 ……ある日、かつての同級生が声を掛けてきた。クラスメイトの一人が遺体で見つかったから、葬式に出てほしいとのことだった。断る理由もなかったので、参列することにした。
「こいつさ、お前のこと好きだったんだぜ」
 原形を留めていない同級生の前で、その親友だった男子が、私にそう告げた。
「……なんで今、言うのよ」私はかすれた声で訊ねた。
「絶対内緒な、って言われたけどさ、お前にさ、覚えててほしいはずだから」
 男子が涙を流す。また傷が増える。余計な荷物が増える。生きている責任の重さに苦しくなる。またあの声が聞こえる。
 それでも、生き残ってしまったのだから、生きなければならない。
 また、遺体を運んで、運んで、運ぶ。自分が背負うべきものの重さを感じていないと、すぐにでも家族のもとへ行ってしまいそうだから。
「しかし、瓦礫撤去の依頼とはな」
 派遣でやってきたのだろう、冒険者たちがやってくるのは、もう珍しいことじゃない。彼らにとっての仕事は単純。依頼された仕事を完遂するだけだ。
「これでランクが上がって、美味いメシが食えるようになるな」
「もっといい仕事も任せられるようになるさ」
 嫌だった。私たちは、失ったのに。それを嬉々として仕事にする人がいる。自分の手柄にする人がいる。出番がやってきたと笑う人がいる。
 やめろ。お願い、やめて。それ以上言うなら、私は。
「――災害のおかげで助かったぜ――」
 はらわたが煮えくり返るような、あるいは氷の砲弾を撃ち込まれたような、頭が熱くて、心は冷たくて、温度差で耳がきいんと鳴って。
 私は生まれて初めて、人を、そいつを、殺してやりたいと思った。
「お前、ふざっけんなよ‼」
 突然現れた子どもが、その冒険者のリーダーらしき人物の脛を蹴り、体勢を崩させ、胸ぐらを掴んだ。
「もういっぺん言ってみろよ‼ 家を、友達を‼ 家族を失った人の前でもういっぺん言ってみろ‼ ふざけんじゃねぇよ、ブチ殺すぞ‼」
 子どもは、怒りに任せてリーダーの顔面に拳を叩き込んだ。その一撃は、彼の怒りをそのまま表していた。
 それがミライとの出会いだった。

「俺の名前……?」
「作者を見ろ。お前も知ってるはずだ」
 魔女に促され、ミライが表紙に小さく書かれた作者の名前を読む。
 クオン・O・ソラ、と書かれていた。
「クオン、姉……」
 ミライは呆然としながら呟いた。魔女は、その言葉に反応せず、さらに続ける。
「さあ、続きを読みたまえ」
 ミライは再び、本を開き、読み始めた。

「休みなよ、クオン姉」
 ミライは、本当の弟のように私を気遣ってくれる。﹃災害﹄以来、私の心には穴が空いている。私は、何も感じないようになっていたし、何も考えなくなっていた。そんな時、私は、海を眺めていることが多くなった。でもどんな場所にいても、いつもミライが私を見つけてくれた。
「休んでないのは、ミライもでしょ」
「クオン姉が頑張ってたぶんの半分もやってないよ。クオン姉、知らないかもしれないけど地元じゃ勇者様扱いされてるんだぜ」
「興味ないわ。勝手にやってたことだもの」
 私が勇者なわけない。だって、誰一人救えなかったんだから。
 私の心の穴は、まだ塞がっていないけれど、ミライが側に居てくれることで、少しずつかさぶたになっていくような気がした。
 誰にも内緒だけれど、最近、血を吐く。どうやら、無理が祟ったらしい。
 私はきっと、いつか壊れてしまう。それまで、そばにいたい。
 ――でも、本当にそれでいいの?
 幸せになろうとすると、もう一人の自分がそう訴えかけてくる。
「……ミライ。私ね、そろそろ遠い親戚に引き取られるわ」
「え……」
「しっかり生きなさい。私の見えないところで、私より先に死んだら、許さないわ」
 私が居なくなっても、この子が生きていけるように。もう二度と会えなかったとしても、悲しむことがないように。私は、誰かのために死ねるなら、それでいい。
 たとえ、私が死んだ後、私を恨んでいたとしても、それは仕方ないこと。だって、こんなにも優しい子なのだから。私を好きでなくとも、優しくしてくれる子だもの。
 私は、きっと、ずっと、あなたを想ってる。
「よくわかんねーけど、わかったよ、クオン姉。精一杯、生きてみるよ」ミライは涙をこらえながらそう答えた。
 私は安心すると同時に、どこか寂しさを感じていた。
 それから数日後、私は新しい家族と暮らすことになった。
 新しい家族は、優しい、というよりも腫れ物に触るように扱ってきた。家族を亡くした私を、どう扱っていいのかわからないのだろう。
「クオンちゃん、どこかいくの?」
「まだ……お父さんが見つかってないので。探してきます。ご飯はいりません」
「あ……う、き、気を付けてね」
「ありがとうございます」
 別に、優しくされなくてもいい。放っておいてほしい。また失ったら嫌だから。私が死んだとき、悲しんでほしくないから。
 そうして、突き放して、遠ざけて、一人になった。私は、一人でも大丈夫。そう思い込もうとした。
 血を吐く量が、日に日に多くなる。でも、誰にも内緒。
 そんな時に出会ったのが、本の魔女だった。
「君が『世界を変えるような小説』を書けたなら、どんな願いでも一つ、叶うだろう」
 彼女はそう言った。
 私は、魔女に渡されたこの本に、今まであったすべてを書いている。
 書けば書くほどに、苦しくなってくる。家族の顔が、笑顔が、浮かんでくるのだ。
 忘れたいのに忘れられなくて、思い出すたびに泣きそうになる。
 でも、私が願うのはたった一つ。
 私の大切な人たちが、いつまでも笑っていられる未来。
 そのためなら、私は何もかもを捧げてもいい。
 …………そのはず、なのに。
 なんで、ミライの顔が思い浮かぶんだろう。
 確かに、私は立派な人間じゃない。勇者のように、自分を犠牲に出来る人間じゃない。でも。
 堕ちた。堕ちてしまった。私は、亡くなった人を救うよりも、もうすぐ消えそうな自分の命を前に、別の願いが膨れ上がっていくのを感じている。
 ミライに、私を忘れてほしくない。
 私のことなんか、忘れてほしい。でも、覚えていてほしい。
 矛盾した想いが、私の中をぐるぐると回っている。
 私、本当はどうしたいんだっけ? 家族にもう一度会いたかった? 生き返って欲しかった? それとも、ミライに会いたかった? もう、わからなかった。
 私は、家族を忘れたくないのか? それとも、家族を忘れてしまいたいのか?
 この気持ちは、一体何なのか。
 その問いに、魔女は言う。
「……人は堕ちる。勇者でも、聖女でも。でも、堕ちないという信念だけでは、自分自身を救うことはできない」
 その通りだ。私は今まさに、堕ちてしまっている。そして、これからも堕ちるだろう。……ああ、そういえば、昔読んだ本に書いてあったっけ。
 人は、誰かの背中を見て育つと。誰かの後ろ姿を追いかけると。
 私は、誰の背中を見ていたのだろうか。…………なんて、馬鹿なことを考えてるんだろう。
 自分で自分を嘲笑っていると、魔女が話しかけてきた。
「次に会う時までに考えておいてくれよ。救いたいのか……救われたいのか」
 言葉が詰まる。私は――。

 そこまで読んだところで、魔女がミライの肩を叩く。
「そろそろ行こう。彼女に会いたいだろう?」
 ミライはこくりとうなずくと本を閉じて懐に入れた。そして魔女に向き直ると、魔女に向かって頭を下げた。
「頼む! 俺、クオン姉に会って話さなきゃ!」
「残念だが、それは叶わない」
 魔女はきっぱりとそう言った。
 ミライは驚いて目を丸くさせた。どうして? という疑問を込めて首を傾げると、魔女はすぐに答えを出した。
「クオンは既に、この世にいないからだ」

  *

 それは紛れもない事実だった。ミライは絶句した。目の前が真っ暗になったような気がした。信じられなかった。信じたくない。嘘だと言ってほしかった。
魔女が連れてきたのは、クオンの墓だった。石と硝子で出来た墓はとても綺麗で、硝子には花が散る絵が刻まれていた。
 ミライはゆっくりと近づき、その前で膝をついて両手を合わせると、謝るように瞼を閉じた。
 長い時間が経ったように思えた。実際は、数秒のことだったかもしれないし、数分のことだったのかもしれないが、三人にはとても長く感じられた。
「クオンが私と契約したのは、一年前のことになる」
 背後で魔女の声が聞こえた。ミライが振り返ろうとすると、その前に魔女が口を開いた。
「彼女は、孤独であることを望みながら、孤独であることを恐れていた」
魔女が語り出す。
「契約で書いたのが、さっきお前に渡した本だ。クオンの親戚が私に渡してくれた」
「クオン姉の願いは……どうなったんだ?」
 その質問に、魔女は少しだけ悲しげに微笑むだけで何も言わなかった。ただ、静かにこう続けた。
「……彼女は、勇者ではなく、人間だった。私はそれを、尊いと思う」
 ミライは、目を見開いた。その目から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。
 クオンが、人であることを選んだのだとしたら。クオンの願いは。
「クオン姉、ごめん。俺、忘れてた。クオン姉との約束。精一杯生きるって」
 ミライは、墓に刻まれた花を見つめた。この形は、きっと、白蓮だ。
「俺、クオン姉がいなくなって、街もどんどん変わっていって。学校行っても、皆将来の話ばっかで。俺は、あの街が好きだったのにって、自暴自棄になって、死んじまいたいって……」
 ごめんなさい、とミライが何度も謝る。硝子の墓の向こうには分厚い雲の景色が見える。びゅう、と風が吹き、その雲が流れて、光が差してきた。太陽の輝きが、頬を撫でる風が、ミライの涙を乾かしていく。
「もう忘れないから。覚えてるよ、クオン姉。ずっと……俺は、ずっと。絶対に」
 ミライはそう呟き、立ち上がると魔女に顔を向けた。
 魔女は、黙ってミライを見つめ返した。ミライは魔女に背を向けると、歩き出した。
 魔女はその後ろ姿をじっと見送っていたが、ふと何かを思い出したかのように立ち止まると、ミライに声を投げかけた。
 ミライは足を止めた。
 魔女は、ミライに歩み寄ると、ミライの耳元で囁くように呟いた。
 ――君のことは私が覚えておくよ。
 ミライは、一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに嬉しそうにはにかむと、再び前を向いて歩き始めた。
「……ミライは一生、クオンを忘れない。願いであり、呪いだな」
 魔女は悲しそうに呟く。
「これが……人生を変える本との出会い……っすか?」
 弟子は、胸の内に宿った熱を抱きしめるように胸に手を当てて、そう問いかけた。
「彼は本に、どんな願いを込めるんすかね?」
 魔女は弟子の言葉を聞いて、少し寂しそうに笑った。
「さあね。でも、ゆっくり考えればいいさ。彼にはまだまだ時間があるんだから」
 魔女は、ミライの背中が見えなくなると、空を仰ぎ見るようにして、小さく呟く。
 ――――がんばれ。

 それからしばらくして、ミライはクオンが残した本を手に取り、ページをめくりながら歩いていく。
 クオンの本を読んでから、ミライは毎日のように海へ行っていた。
 ミライは波打ち際で、本の続きを読むことにした。
 そこには、クオンが遺した文字で、文章が綴られていた。
「生きて。たとえ、明日死ぬとしても」
 その一言が、ミライの目に焼き付いた。
 ミライは唇を噛み締めた。
 生きる。それは、クオンがミライに託そうとしたもの。
 ミライは涙で視界が滲みながらも、本を最後まで読み終えた。
 涙を拭って、大きく息を吸うと、ミライは立ち上がり、海に背を向けて走り出した。

  *

 ミライと別れて数時間後、図書館に戻る前に、二人は海岸に来ていた。ざざん、ざざんという波の音を二人で聞いていると、突然、呼び止められた。
「あの、本の魔女様ですよね」
「いかにも、そうだが?」
 魔女は突然現れた青年に驚きつつも、冷静に対応した。
 青年は魔女に近づくと、深々と頭を下げた。
「俺、魔女様と昔契約して、願いを叶えてもらったので……これ、完成した本です」
「ほう、読むのが楽しみだな」
 魔女はそれを不思議そうに見下ろしていたが、やがて合点がいったという風に口角を上げた。
 魔女は、青年が手にしている本のタイトルを見るなり、優しく目を細めた。
 ミライは、魔女の反応に気付くことなく、真剣な眼差しで魔女の顔を見た。
「では、自分はこれで」
 青年は踵を返し、さっさと去っていこうとする。
「待て」魔女は青年を呼び止めると、にやりと笑った。
「これを、彼女に渡してくれ。できるな、クソガキ?」
 青年は振り返って何かを受け取る。それは魔女が大事そうにしたためていた、ファンレターだった。
「わかりました。必ず渡します」
 魔女が満足そうに笑うと、青年はそのまま行ってしまった。青年が向かう方に、青年より少し背の高い女性が、手を振って待っていた。
「い、今のって……」
「ふふ、一人では生きていけなくても、二人なら生きていけるかもしれない。しかし、読む前からネタバレを聞くとは、私も無粋なことをしたものだね」
 魔女は火傷の痕が残る腕を思いっきり伸ばして本を太陽に掲げ、高らかに笑った。
「さあ、新刊だ。きっと面白いぞ。『未来の勇者の物語』だ!」

幕間一 弟子は疑問を抱く

「うむむむむ……」
 図書館の中で、弟子は、いつものように、自分の失った記憶を思い出そうと瞑想をしていた。しかし、なかなかうまくいかない様子で、眉間にしわを寄せている。魔女はその様子を苦笑いしながら見ていた。
「弟子や、弟子や。そんなおじいさんみたいな顔をしていなくても、いずれ思い出せるとも」
 魔女が言うと、弟子は頬を膨らませて魔女の方を見た。
「師匠は思い出してほしくないんすか? つーか、僕のこと、何にも教えてくれないじゃないっすか。僕、自分の名前すら思い出せないのに……」
 弟子は口を尖らせて不満を口にした。魔女は、申し訳なさそうに頬をかく。
「……記憶喪失というのは、自分の心を守るための防衛本能として起こるものだ。君が記憶を失った原因である【なにか】をいずれ乗り越えられるようになるまで、私からは口を出せないよ」
「でも、僕がこんなに苦しんでいるっていうのに、何もしてくれないと、さすがに凹みますよ」
 弟子は、机の上に顎を乗せてため息をついた。
 魔女は、弟子の姿をしばらく見つめていたが、ふと、何か思いついたような顔で立ち上がった。
「では、弟子にヒントをあげよう」
「えっ⁉マジっすか‼」
 弟子は、ガバッと起き上がると、身を乗り出して目を輝かせた。
 魔女は、棚の引き出しを開けて、中から一冊の本を取り出した。
 本のタイトルは【魔女狩りの歴史】。
 魔女は本を開いて、とあるページを指さした。

【原初の魔女】
 原初の魔女は、魔法と呼ばれる、既存の自然法則に反する超常現象を自由自在に操ったとされる人物。
 その能力は、無から有を生み、生死をも操り、人の心を惑わし、人を意のままに操ることが出来たとされている。
 しかし、原初の魔女はその能力を自身でさえ抑えることができなかった。強大すぎる自身の能力で世界や自分を壊す前に、原初の魔女は、自身を百等分し、それぞれに肉体、名前、知識、役割、そして能力と制限を分け与えた。そして、【原初の魔女】は百人の魔女となり、この世界に散り散りになった。
 この世界に存在する魔女は、すべて【原初の魔女】の【子】であり、契約によってあらゆる願いを叶えるが、それぞれに対応する条件を満たさなければならない。例えば、【薬理の魔女】の使う魔法は、病気が治る代わりに、その人の記憶が消える――

 魔女は、そこまで読むと本を閉じて、弟子に差し出した。
「僕は、その薬理の魔女の魔法で、記憶を失った……ってことっすか?」
「……さあね? ただ、君が記憶を失ったのは五年前だったね? 薬理の魔女の没年を見るといい」
 魔女はそう言い残すと、部屋を出て行った。
 弟子は、本を見つめて首を傾げた。
 薬理の魔女が死んだのは今から……十年も前のことだった。
 弟子は、ページをめくり、【魔女狩り】について書かれているところを開いた。
 それは今から約十年前に起こった、魔女を狩ることを目的とした組織【魔女狩り隊】による大規模な虐殺事件だった。
 魔女狩りの目的は、魔法の独占、もしくは魔法の淘汰であったと言われている。
 魔法は死者に生をもたらし、無から金銀を生み出すほど、無茶苦茶な力だ。それが自分たちのものにならないのであれば――消してしまえ。【世界の平和】のために――。
 そうして百人の魔女たちは、当時の魔女狩り隊の隊長に捕まり、拷問を受けた末に処刑された。
 弟子は、本を閉じると、大きく息を吐いた。どきん、どきんと心臓が暴れている。
 魔女が自分に隠し事をしているのはわかっていた。でも、それを暴いていいのかわからない。
 弟子は、本を元の場所にしまうと、再び目を閉じた。
 百人の魔女は死んだ。魔女狩りに殺された。
 なら、師匠は――?
 この本のどこにも、本の魔女についての記述はなかった。
「――当時の魔女狩り隊長、シン・D・ザイア……」
 魔女たちを虐殺したその人物の名を呟く。刻みつけられたかのように、頭から離れない。
自分は何者なんだ。本の魔女を名乗っている師匠は何者なんだ。
 考えても答えが出ない疑問が頭の中に次々と浮かんできて、弟子は深い溜息をつくしかなかった。

第二章 魔女は背中を押す

「むむむ、弟子よ。プレシオさんの本はまだ届いてないかね」
「プレシオさんって……ああ、あの偏屈おじさんっすか」
 弟子は本棚の掃除をしながら魔女の言葉に答える。
「懐かしいっすね。届いてないみたいですよ」
「むむむむむっ。さすがの私もこんなに待たされるとやきもきしてしまうぞ……」
 魔女は、弟子の肩越しに本棚を覗く。
 本棚には、魔女が集めてきた本が所狭しと並んでいた。
 魔女は、本の中から一冊の本を取り出すと、弟子に手渡す。
 弟子がそれを受け取り、表紙を見ると、魔女が言う。
「プレシオ・D・シオン。彼の本が並んでない本屋は閑古鳥が鳴くと言われるほどに、西では知らぬものはいないほどの大文豪だ。描写力、登場人物の魅力、そして何より執筆速度。何をとってもトップクラスのはずだ……なのになぜ! 私の『本』は! 書いてくれない!」
「はぇ~、ただのアル中偏屈おじさんだと思ってたっす」
 魔女は不満げにぷくっと頬を膨らませて、弟子の手にある本を取り上げた。
 そして、ぱたんと閉じると、ため息交じりに本を見つめている。
「プレシオさん、出会ったときも言ってたじゃないっすか」弟子は、魔女の隣に立つと、本を見ながら呟いた。
 魔女は本から目を離すと、弟子に顔を向ける。
 魔女は、どこか遠くを見つめるような目で、弟子に言った。
「――願いなんて、ねえよ……か」
 魔女は、思い出したように小さく微笑んだ。
 そして、弟子から本を奪い返すと、それを自分の懐にしまい込んだ。
「しかしだな、弟子よ。平均で二カ月に一冊、すごいときは三週間で一冊の刊行速度だったのにだ。彼の新刊はここ一年全く出ていないんだぞ?」
 魔女は、本を抱きかかえるようにして体を丸めた。
 弟子は、魔女の姿を見て、ふっと笑った。
 魔女は、その視線に気付き、不機嫌そうな顔になる。
 弟子は、そんな魔女を見て、また小さく笑いながら口を開いた。
「休みたい時に休まないと、怪我とか病気とか、しちゃうっすよ」
 魔女はその言葉に驚愕し、目を見開いた。
「け、怪我……病気⁉ 盲点だった! プレシオ氏がもしも怪我をしていたら……」
「え、いやいや師匠、だから休暇中なんじゃないすかって話で……」
「我が弟子、様子を見に行ってみよう! さあ!」
 魔女は、有無を言わさず弟子の手を取ると駆けだした。

  *

 ――三年前のことだ。
 魔女は、弟子を連れて西の町を歩いていた。
 しばらく歩いていると、町の外れにある一軒家の外で、一人の男が壁に寄りかかるようにして座っていた。風呂に入っていないのか、焦げ茶色の髪の毛が脂でぐしゃぐしゃになっており、無精髭が伸びていた。ひどいアルコールの匂いに、弟子は眉をひそめる。
 男は、二人の気配に気付いたのかゆっくりと顔を上げると、魔女の姿を確認した途端に顔をしかめた。
 魔女は男の前に立つと、眉間にしわを寄せた。
 弟子が、その表情に不安そうに魔女の顔を覗きこむ。
 魔女は一度大きく深呼吸すると、意を決した様子で口を開いた。
「君が、プレシオ氏かね? 初めまして。本の魔女だ」
 魔女がそう問いかけると、男は、目を見開いた。魔女は続ける。
「君は、この国で本を書いているだろう?」
 プレシオは苛立った様子を隠さず舌打ちをしながら言った。
「サインならお断りだぜ」
 魔女は首を横に振る。
「君は今まで、『世界を変える物語』を書いたことはあったかい?」
 プレシオは魔女の言葉に、表情を歪めた。
「ねえよ。そんなの」
 魔女は、プレシオの答えを聞いて、悲しそうに目を伏せた。
「書きたくもねえ物語を書きながら、早く書けさっさと書けって声を聞くんだ。『二つの雲が浮かぶとき』がウケてからはどんどん酷くなった」
 『二つの雲が浮かぶとき』は、彼の五作目の作品で、彼が注目されるきっかけだった。二人の少年が心中自殺をするまでの旅行記で、この国でその本を読んだことのない人はいないほどだ。魔女は、何も言えずに黙っている。
「俺が、本当に書きたいのは、あんな厭世的な話じゃない。もっと……」
 そこまで言って、プレシオは黙った。
「いや、俺はもう、何も書きたくねえ。ちくしょう。書きたくねえんだよ……」
「では、その願いを叶えよう」
 魔女は言うと、詠唱を始める。
「【汝、神命を賭し、物語を紡げ。世界を変えしその物語は、汝の真の願いを現実にする……】」
 魔女の懐から、光り輝く本が姿を現した。
 魔女は本を手に取ると、本をプレシオに向かって突き出す。
「願いを叶える代償はたった一つ。この本に、『世界を変える物語』を書け。そうすれば君の願いは叶う」
 魔女の言葉に、プレシオは驚いたように魔女の顔を見た。
 魔女は、優しく微笑むと、静かに目を閉じた。
「願いなんて……ねえよ」
 プレシオはそう言うと、立ち上がり、家の中に入るとガチャリと鍵を閉めた。
 ……しかし、プレシオの手には、魔女の本がしっかりと握りしめられていた。
 魔女は、小さく呟く。
「――願わくば、いつか、君の本当の願いが、叶えられますように」

  *

 弟子は、その頃の自分の記憶が曖昧なことを疑問に思いながらも、魔女を見失わないように急ぎ足で歩いていた。
「プレシオさんはお元気っすかねぇ」
「むむむ、心配だ。よし、行ってみようではないか」
 魔女は、再び弟子の手をつかんで走り出す。
「うっす。って、わわわ、ちょっと待ってくださいって」
「さあさあ急ぐのだ弟子よ!」
 魔女は走りながらも、小さく微笑んだ。
 魔女と弟子は、プレシオの家に到着した。三年前と同じ家の前で、魔女は、玄関の前で大きく深呼吸をする。
 魔女は、ノックをした。反応はない。
 魔女が、扉に手をかけようとした時、ドアが開いた。
 弟子が驚き、ドアを見ると、そこには、看護師、いや、介護士? のような恰好をした若い女性が立っていた。魔女は、その女性に話しかける。
「プレシオ氏はいるかい? 新刊の催促に来たのだが……」
 するとその女性は、突然、憎しみを込めたような目で睨みつけてきた。弟子が魔女の服の袖を引っ張ると、魔女は気付いて振り返った。
 魔女は、不思議そうに弟子の顔を見る。弟子は何かを察して、一歩後ずさった。
「いい加減にしてください……‼」
 魔女は驚いて目を丸くする。弟子も、思わず肩をびくりと震わせた。
「あの人はもう何も書けないんです! わかるでしょう⁉ 腕がもうないんですよ⁉」
「腕が……ない?」魔女は呆然と立ち尽くしている。
 弟子は、恐怖で固まっていた。
 やがてその女性は、魔女の手に持っていた、プレシオの本に気付くと、怒りの形相を浮かべた。魔女が持っていた本を奪い取り、地面にばんっと叩きつけ、踏みつけた。
 魔女は、なす術もなくその様子を見ていることしかできなかった。
 弟子が慌てて聞く。
「う、腕がないってどういうことっすか?」
「そのままの意味です‼ 一年前に大橋の倒壊事故で両腕が潰れたんです! 切除するしかなかった……‼ 今、彼はペンを握るどころか、日常生活を送ることすら……‼」
 弟子は、言葉を失った。まさか、予想が当たっていたなんて。
 魔女も言葉を失って、ただ、その場に立ち尽くすだけだった。
「わかったらさっさと帰って――」
「待て、ツクバネ」
 部屋の奥から、無精髭を生やし、死んだ目をした男が歩いてくる。その男には、両腕がなかった。
 魔女と弟子は、その姿に絶句した。少し老けたが、その人は三年前に見た、プレシオ・D・シオンその人だったのだ。
「久しぶりだな……確か、本の魔女、だろ」
「覚えていたのか」
「『本』もちゃんとあるぜ……。ツクバネ、あげてやってくれ」
 そう言い、プレシオは家の奥へと引っ込んでいく。
 ツクバネと呼ばれたその看護師は、眉を寄せながらも、二人を家に上げた。魔女と弟子は、プレシオの家に上がると、リビングのソファに腰かけた。ツクバネは、お茶を運んできてくれた。弟子はお礼を言い、お茶を飲む。
 魔女も、出されたお茶を一口飲むと、口を開いた。
「災難だったな。まさか、腕がなくなっているとは知らなかったよ」
「でけえ大橋が崩れてな。たまたま歩いてた俺はこのザマよ。まあ、命に別条がねえのはありがてえわな」プレシオは自嘲気味に笑っている。
 弟子は、その姿を見て胸を痛めたのか、うつむいている。魔女は、目を伏せている。プレシオは、魔女に視線を移すと、口を開いた。
「よお、願い、できたぜ。……腕が欲しいって、願いがよ」
 魔女は、目を見開く。
「叶えてくれよ。本の魔女様」
「……言ったはずだ。君が払う代償はたったひとつ。その本に小説を書くことだと」
 魔女は、目を伏せながら言った。プレシオは、ダン! と机を蹴っ飛ばした。ティーカップが床に吹き飛び、粉々に割れた。
「腕がねえのに……書けるわけねえだろうがッ‼」プレシオは、血走った目で魔女を睨みつけた。
 魔女は、そんなプレシオの目を見つめ返した。魔女は、ゆっくりと口を開いた。
「腕がないと、生活が不便か?」
「ちげえな……どうだっていい……そんなことは……」プレシオは歯を食いしばりながら言った。
「なら、なぜ腕を望む? 君は三年前、何も書きたくない、と願ったはずだ」
 魔女の問いに、プレシオは沈黙した。そして、一度目を閉じてから、小さく口を開いた。
「――俺がまだ、『世界を変える物語』を書いてねえからだよ……‼」
 魔女は、その答えを聞いて、困惑したような表情を浮かべた。
「俺はな、魔女様よ、お前に『本』を渡されたとき、思ったよ。『書いてみてえ』ってよ。これまでに書いてきたモンとは比べ物にならないくらいの物語を‼」
 プレシオの声は震えていた。悔しさ、あるいは狂気が滲み出ている声だった。
「腕があった時は…… 『ウケる』『売れる』本を書いていたんだ……。でも……その中に俺が本当に書きたい物語は一ページだってなかった……。そして俺がもう書けないとわかったら、みんな離れていきやがった! 俺の代わりは幾らでもいるんだろうさ!」
 静寂が流れる。ツクバネと弟子が、散らばったティーカップの破片を片付ける音が部屋に響いている。
「書きてえよ……俺が……本当に書きたかった物語を……」
 魔女は、しばらく黙っていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。
 弟子は、魔女の背中を見上げ、不安そうな表情で魔女の表情を覗き込む。
 魔女は、プレシオの目の前に立つと、しゃがみこんで、プレシオに顔を近づけた。
「願いは叶うとも」
 魔女の言葉に、プレシオは目を見開いた。魔女は続ける。
「君は本に選ばれた。ならば必ず、世界を変えられる。そういう運命なんだ」
「腕が勝手に生えてくるとでも言いてえのか?」
 プレシオの言葉に、魔女は首を横に振って答える。
「そうじゃない。だが、君が今持っている、書きたいという想いもまた、運命に導かれるのさ」
 プレシオは、魔女の言葉に納得した様子ではなかったが、小さく息を吐いて、魔女から目をそらした。
 魔女は立ち上がると、弟子に向かって言った。
「帰ろう、我が弟子。今はまだ完成しないのだろうから」
「あっ……はいっす」
 弟子は、魔女の言葉にうなずくと、プレシオに軽く頭を下げた。プレシオは生気を抜かれたように、椅子に座ったまま微動だにしない。
 代わりにツクバネが、二人の後ろ姿を黙って見送った。

 魔女と弟子は、家に帰るために大橋を渡っていた。新しくできたようで、しっかりとした作りの橋だ。
 橋の上から、夕日に染まった海が見える。
「夢が遠く離れていくときって、きっと、辛いはずっすよね」
「……そうだね」
 魔女は、弟子に言われて、悲しげな表情で呟く。
 その時、遠くの方で、声が聞こえたような気がして、振り返ってみると、ツクバネが走ってくるのが見えた。魔女は、何かを察すると、立ち止まり、ツクバネが来るのを待った。
 ツクバネは息を切らして、魔女の前まで来ると、膝に手をついて呼吸を整えた。
「あの、魔女様。お願いします。私と契約をしてください」
 魔女は、ツクバネの顔を見る。ツクバネは真剣な眼差しで魔女を見据えていた。
「無理だな……君には」
「なぜですかッ⁉ 私が契約すれば、プレシオは――」魔女は小さくため息をついた。
「それで、君はどうなる?」魔女の言葉にツクバネは怯む。「君はもう幸せなのだろう?」
弟子は驚き、魔女の顔を見つめる。
「君の願いは叶っているはずだ。君はプレシオのそばにずっといられて、プレシオは君なしでは生きられない」
 ツクバネは、唇を噛んでうつむく。
「なぜ……わかったのですか」
「私たちが訪問してきたときのあの敵対的な目は、明らかに現状の平穏を奪われたくない人間のそれだった」
 弟子がツクバネの耳を見ると、湯気が出そうなほど真っ赤になっていた。
「好きなんだろう? 彼が。今、君はなんにもできない彼の世話が出来て、幸せなんだ。満足している。だからこそ、君に物語は書けない。欠落から始まる『物語』は」
 魔女の言葉を聞いていたツクバネは、魔女の服を強くつかんで、やがてだらんと手を離した。
「ええ、ええ。そうです。好きです。彼が。なんにもできなくたって、なんにも書けなくたって。私、彼が病院で腕を失ったとき、どす黒い感情が芽生えました。今なら私、彼のために生きられるんじゃないかって」
 ツクバネは、涙を流していた。魔女は、それを見て、少しだけ微笑んだ。
「なら、それでいいじゃないか。君はプレシオを思いのままにできる。プレシオは、物語を書いて苦しまなくて済む。それで、二人の願いは叶ったんだ」
 魔女はツクバネの肩に手を置いた。しかしツクバネは、何度も首を横に振る。
「違います」
「何が違う?」
「それは、本当の幸せとは違います!」
 魔女は驚いて、眉をひそめた。ツクバネは、涙声で続けた。
「本当の幸せは、自分だけの幸せではないんです。私は、今、歪んでいるけど、幸せです。でもプレシオは違う。まだ満足してない! なら、私も本当に幸せじゃない!」
 ツクバネは魔女の手を振り払って、魔女の服の袖を握りしめた。
「私は、独りよがりの幸せに浸っていたいんじゃない! 一緒に、幸せになりたいんです!」ツクバネは、泣きながら魔女の胸元に顔を埋めた。魔女は、ツクバネの頭を撫でる。ツクバネの肩が小さく震えている。
 魔女は目を細めて、ツクバネの頭に手を置いて、優しく言った。
「なら、ますます私は必要ないじゃないか」
 ツクバネは、魔女の胸に埋めていた顔を上げると、困惑したように魔女の瞳を見つめた。
「もう、わかっているだろう? 腕がなくなっても、書く方法なんていくらでもあるってこと」
 魔女は、ツクバネの頬に伝う涙を指で拭うと、その額に人差し指を当てた。
 ツクバネは、その瞬間、自分の中にあったモヤが晴れるような感覚を覚えた。
「それが君の愛のカタチだと言うなら、そうすればいいさ」
 魔女はツクバネに背を向けると、弟子と手を繋いで、歩き出した。ツクバネは、二人の姿が見えなくなるまでその場に黙って立っていた。そして、魔女の背中が消えた時、ツクバネは走り出して、プレシオの家へと向かった。

  *

 プレシオの家に着き、ツクバネは玄関のドアを力強く開けた。しばらくして、プレシオがよろよろと出てくる。ツクバネはプレシオに駆け寄ると、その勢いのまま抱き着いた。
「なんの……つもりだ」
 プレシオは突然のことに戸惑っていたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「覚えていますか、プレシオ。私があなたと出会ったときのことを」
「……一年前、病院でだろ」
「いいえ、違います。プレシオと私は、もっと前に、会っていたんですよ」
 プレシオは、身をよじって、ツクバネの体から離れようとするが、ツクバネの体がびくともしないことに驚く。
 ツクバネは、そのまま話を続けた。
「子どもの頃、私は病気でした。手術で治る確率は三割未満。私は、【普通】を羨んでいました」
 プレシオは、ツクバネの話を黙って聞いている。ツクバネは続ける。
「普通に生きている子どもたちから、『病気に負けず頑張れ』とか、『病気が治ったら遊ぼう』とか書かれた手紙を渡されました。学校の授業の一環として私は利用されたのでしょう。お前たちは病気じゃないくせに、ふざけないでよって思いましたよ」
「何が言いたいんだ」
「――ある時、その手紙の中に、物語が書かれた手紙を見つけました。子どもの字で、誤字も多くて。最初はなんなんだって思ってましたけど、日が経つにつれて、子どもたちの手紙の数がどんどん減っても、その物語だけは届き続けました。……私はいつしか、その物語を読むために、病気と闘っていました」
 プレシオは、ツクバネの言葉を聞いて、目を見開いた。
「もう、わかりますよね。子どもの頃、私に希望をくれたのは、幼い頃のあなたです。プレシオ。あなたが、私の世界を変えてくれたんです」
「……ガキの落書きだ。くだらねえ」プレシオは吐き捨てるように言った。「それは確かに、俺が書いた物語だよ。だが、その頃は自己顕示欲だけで書いてたんだ。誰でもいいから誰かに認めてほしかった。それだけの話だ」
 ツクバネは、プレシオの言葉を聞いて、ゆっくりと体を離した。
「本当に、それだけですか?」
 そしてプレシオの目を見据えて言った。
「私は、あなたの書いた、あの物語が、今まで読んだどの物語よりも好きです。【あの美しい花が咲く季節を、僕は何度でも迎えたい】――あなたが書いてくれた言葉ですよ」
 プレシオは、苦しそうに顔をしかめた。ツクバネは、微笑みながら、小さく息を吐いた。夕日が沈みかけて、空が赤く染まっている。
「プレシオが書きたいのは、『世界を変える物語』は……「もう死にたい」じゃなく、「まだ生きたい」なのでしょう?」
 ツクバネは、プレシオに一歩近づくと、腕の付け根を包み込むように撫でた。プレシオは、ツクバネの真剣な眼差しから目をそらした。ツクバネは、優しい口調で言う。
「私があなたの代わりに書きます。私が、あなたの腕になります」プレシオは、ツクバネの手に視線を落とすと、やがて小さく口を開いた。
「ツクバネが……?」プレシオは、不安げな表情でツクバネの顔を見上げた。
 ツクバネはうなずき、顔をほころばせた。
「……『本』を書くのは、普通の物語を書くのとは違う。精神力や生命力を持っていかれる。そんなことをやらせるわけには……」
「大丈夫。あなたの物語で救われた命を、あなたの物語のために使えるなんて、これ以上ない幸せです」
 プレシオは、ツクバネの笑顔を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。だが、その瞳から逃げなかった。ツクバネの目に映る自分を、見つめていた。

  *

「師匠! プレシオさんから本が届いたっす!」
 突然、図書館の入り口から、魔女の弟子の叫び声が聞こえてきた。
 魔女はその言葉に動転して椅子からひっくり返る。
 魔女は、弟子から受け取った本をじっと見つめている。そして、弟子の方を振り返りもせずに、ぽつりと言った。
「完成したのだね……『本』が」
 魔女は本を開き、読み始めた。
 ――――…………それは、今までのプレシオ・D・シオンの文字ではなかった。
 丸っこい、筆圧の弱い字体。ああ、これは、彼女が書いたのだろうな。
 そして、物語もまた、今までのプレシオのものではなかった。彼の特徴ともいうべき厭世的なエンディングは、影も形もない。幾度もの絶望の中で、血を流しながら前を向き、希望を持って生きていく勇気をくれるエンディングだった。魔女は、涙を流しながらも、微笑んで本を閉じた。
「手紙も一緒に入ってたっすよ」
 弟子が、魔女に一枚の手紙を差し出す。魔女は、手紙を開くと、文字を読んでいく。

 ――本の魔女様へ
 ツクバネです。先日は大変お世話になりました。魔女様が助言してくださった通り、私は彼と共に『本』を完成させました。そこで彼の『願い』が叶うはずだったのですが――
「言ったろ。願いなんてねえよ」
 そう言って、プレシオは横になりました。でも、その後に続けてこう言ったのです。
「俺の願いはもう、叶ったみたいだしな――……ずっと、前に」
 彼は、耳を真っ赤にさせていました。あの嬉しそうな声を、私はきっと忘れないでしょう。
 その次の日からも、私たちは少しずつ物語を書いています。彼が考えて、私が書く。
 この時間が、いつまでも続いてほしいと思っています。
 魔女様。私は今、幸せです。プレシオと二人だから、幸せです。
 これからどんな困難があっても、二人で乗り越えていきます。どうか、見守っていてください――
 ツクバネ・O・アサガ、プレシオ・D・シオンより

 魔女は、手紙を畳んで、胸に抱いた。
「…… ハッピーエンド、なんすかね?」
「そうに決まってるだろう?」魔女は弟子の頭をくしゃくしゃ撫でる。
 魔女は目を細めて、窓の外の景色を見つめた。
 生きていることは美しい。魔女は小さく呟いた。

幕間二 はじまりは悪意なく

 ――たとえばね、じぶんがとってもおおきくなったとするでしょう?
 たてものとか、かぞくとか、ふんづけたらぜんぶこわれちゃいそうなくらい、おおきく。
 そしたらね、きっと、いままでみたいにおもいっきりあそべないでしょう?
 だから、みんなにめいわくをかけないように、しずかにくらしていかないといけないの。
 ないちゃだめ。みんなおぼれちゃうから。
 あばれちゃだめ。みんなこわれちゃうから。
 おこっちゃだめ。みんなしんじゃうから。
 だからね、わたし、ほんとうは、ずっとひとりでいるべきだったんだよ。
 ――……またこわしちゃった。
 そんなつもりじゃ、なかったんだけどな。
 もういっかい。いち、にの、さん。
 ――……はあ、つかれちゃった。
 もう、いやだよ。こんなの。
 なんかいもこわして、なおして、こわして、なおして。
 こんなちから、いらない。
 わたしなんて――
 ばらばらになっちゃえばいいのに。

第三章 魔女は不安を抱く

「――という嫌な夢を見たんだよ、我が弟子」
 魔女はわざとらしく大きなため息をついて、ソファで足を組んだ。
 弟子は、いつものように、図書館の掃除をしていた。
「はあ……そっすか」
「冷たい返事をするなよ」
「だって、いつものことっすもん」
「……むう」
 魔女は不機嫌そうに頬を膨らませたが、すぐに気を取り直して話を続けた。
「まあ、悪夢はさておき、今日は古傷が痛むな。なにか嫌な予感がするよ」
 魔女は、首や腕の火傷の痕を撫でながら言った。弟子は、箒を動かす手を止めて、魔女の方を見る。
 あの火傷は、魔女と弟子が初めて出会ったときに負ったものだった。
 しかし、弟子が目覚めたときには既に何か、燃えるものを抱きしめたようなその火傷の痕は既にあった。
 魔女は立ち上がって窓の外を見つめた。弟子の目から見てもわかる。魔女は何かを警戒している。
 弟子の胸がざわついた。
(師匠を守らないと)
 弟子はそう決意して、魔女の隣に立った。魔女はそれに気づいて、優しく微笑みかける。
 そのときだった。部屋の扉が激しくノックされる音が響いた。二人は驚いて顔を合わせる。
 ドアの向こう側から、女の声が聞こえてきた。
「魔女様! 魔女様はいらっしゃいますか!」
「……どうやらお客さんのようだよ、弟子」
「……」
 弟子は無言のまま、魔女を守るようにして、ゆっくりと立ち上がった。
 魔女は、弟子に視線を送ると、小さく笑った。
「大丈夫さ。君は私が守るとも。さて、どちらさまかな?」
 魔女はそう言って、玄関の方に歩いて行くと、扉を開けた。
 そこに立っていたのは、黒いローブに身を包んだ、一人の若い女だった。
「……魔女様に、お願いがあって参りました」
「ほう? それはどんな願いだい?」
「……私の願いは――魔女狩りですので」
 女は、そう言うと、不敵な笑みを浮かべた。
「……魔女狩り?」
 弟子は思わず聞き返した。魔女狩りとは、魔女を虐殺する行為。魔女狩り隊と呼ばれる組織が魔女の魔法を独占し、従わない魔女は殺すのだという。十年前にあった事件を思い出し、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
 魔女は、弟子を後ろに下がらせると、静かに口を開いた。
「……魔女狩り、ね。私には、君に恨まれる理由が思い当たらないのだがね」
「……正確に言えば、世界平和です。魔女は、世界の秩序を乱す悪ですので」
 世界平和。その言葉を聞いて、魔女は眉間にしわを寄せて、顔をしかめた。その表情を見て、魔女狩りの女は笑う。
「はじめまして、いいや、お久しぶり、でしょう。魔女狩り隊隊長、シン・D・ザイアですので」
 魔女は、その名前を聞くと、驚いた様子もなく、ただじっと、目の前に立つ魔女狩り隊隊長と名乗る女の瞳を見つめた。そして――
「……また私から奪うつもりか」と呟いた。
 魔女狩り隊の隊長を名乗る女――シンと名乗った彼女は、それを聞き逃さなかった。
「……やはり、あなたでしたか。全知の魔女の弟子――シクラ・B・フロウ。いえ――今は本の魔女ですか?」
 弟子が息を吞む。全知の魔女なんて、知らない。
「おいおい、私はネタバレが嫌いなんだ。かわいい弟子が見ている前でやめろよ」
「……ふっ、その口ぶり。懐かしいので」
 そう言いながらも、シンはどこか嬉しそうに見えた。
「……さて、本題に入りましょう。魔女は世界にとって害をなす存在。よって、魔女狩りを執行しますので。抵抗しない方が身のためですので」
 シンは、腰に下げていた剣を抜き、切先を魔女に向けた。
 弟子は、その様子を見て、慌てて二人の間に割って入った。
「ちょ、ちょっと待ってください‼ いきなりやって来て何なんすか⁉ それに、魔女狩りって、そんなことしたら犯罪じゃないっすか‼」
「……弟子だか何だか知りませんが、正義を邪魔立てするというのなら、容赦はしませんので」
「っ……」
 弟子は、その殺気に気圧されて後ずさる。
 すると、後ろから、魔女の手が伸びてきて、弟子の肩を掴んだ。
「……弟子、下がっていろ。これは、魔女同士の問題だ」
「魔女……同士?」
 弟子は、魔女の言葉に首を傾げた。
「……ネタバレはお嫌いだったのでは?」
「隠されていた秘密を思いもよらない人物によって知る……それもまた物語さ。私と同じ魔女……【炎の魔女】よ」
 瞬間、弟子の脳内に、三年前の、魔女と出会った時の光景が浮かんだ。燃え盛る炎、焼け焦げていく本。魔女の火傷。その中に、彼女の…… シンの後ろ姿。
 間違いない。この人が、三年前にすべてを焼いた人物なんだ、と弟子は思った。
「シン・D・ザイア。取引をしようじゃないか」
 魔女は、落ち着いた声で言った。
「……私は魔女などではありませんので。しかしこの状況で、取引とは。立場をわかっていないようですので」
「君の願いが叶うと言ってもか?」
 その瞬間、空気が一気に張り詰めた。
 シンは一瞬だけ動揺したように目を泳がせたが、すぐに冷静さを取り戻して魔女を見据えた。
「……どういう意味ですので?」
「簡単な話だよ。私の魔法については知っているな? 【本】を一冊くれてやる。後は君がそこに物語を書けば、魔女のいない、平和な世界のできあがりさ。ちまちま残りの魔女を淘汰していくより効率がいいと思うがね」
「なるほど。では、あなたを殺して、その本を貰いましょう」
「死んだ魔女が魔法を使えると思うかね? 今、ここにあるすべての本は何の変哲もない、ただの本だよ」
 魔女は余裕たっぷりの表情で問いかける。
「言いたいことはわかりましたので。要は、ここを生き延びて、私が【本】を完成させるまで時間稼ぎをする……そんなところですので?」
 魔女はにやりと笑って、指を鳴らした。その瞬間、本が飛来し魔女の手元に収まった。
「……話が早くて助かるよ。私は魔女を殺したくはないのでね……君と違って」
 魔女は、そう言って不敵に笑った。シンは、しばらく沈黙していたが、やがて剣を収めると、魔女が差し出した本を受け取る。
「いいでしょう。しかし、代わりにあなたのお弟子さんも差し出してもらいますので」
「……本が完成するまでの人質ということか。……いいだろう」
「なっ……師匠⁉」
 弟子は驚きの声を上げるが、魔女は平然としていた。
「おお、かわいい我が弟子よ。お前は強い子だ。自分を信じなさい。そして――」
 魔女は、わざとらしくそう言うと、そっと弟子の耳元に唇を近づけると、小さな声で囁いた。
「――真実を教えてもらえ。あの女は、五年前の事件に関わっている」
「師匠……! それって――」
「さて、話は終わりましたので。早速行きましょうか。逃げられると思わない方がいいので」
 シンはそう言うと、弟子の腕を掴んで強引に引っ張っていった。
 弟子は、魔女の方を振り返るが、魔女はただ黙って見つめ返すだけだった。

  *

 図書館を出発してから約一日が経過し、シンと弟子は、南の森で露営をしていた。
 シンは、さっそく執筆を始めようと、魔女から受け取った【本】を開く。
「こんなもの、私なら一日で終わらせられますので」
 ペンにインクを付け、書き込む。しかし、どれだけインクをつけても、全く文字を書き込むことが出来ない。ページは真っ白なままだ。まるで、本自体がシンの書こうとしているものを拒絶しているかのようだった。シンは舌打ちをして、何度も同じページに書き込もうとする。だが、結果は変わらない。
 それから数時間、シンは様々な方法を使って、物語を綴ろうとしたが、どうしても上手く書くことが出来なかった。
 日が落ち始め、空がオレンジ色に染まった頃、シンはようやく諦めて、その本を閉じた。
「クソ……書き込めない本を渡しやがるとは……あの女、とんだ食わせ物ですので」
 シンは苛立ちを隠すことなく呟いた。
「その本は、【運命を変える物語】でないと、書くことは出来ないっすよ」
 その声に振り返る。ロープで手足を縛られた弟子が、大人しく焚火の前で座っていた。
「……お弟子さん、それは一体どういう意味ですので?」
「言った通りっすよ。誰かの運命を変える物語を書ける人間でない限り、その本には一文字だって書き込むことは出来ないっす。つまり――」
 弟子は、一度言葉を区切ると、真剣な目つきでシンを見つめた。
「アンタは、世界を平和にできるような人間じゃないんだ」
 シンは、それを聞くと、懐からナイフを取り出し弟子に向けた。
「口のきき方に気をつけろよ。あなたのことを生かすも殺すも私次第ですので」
 弟子は、それを見ても特に反応を見せなかった。それどころか、どこか達観した様子だった。
 その様子を見て、シンはさらに怒りを募らせるが、弟子は何も言わずに、ただじっと、シンの目を見たままだった。
「アンタは……五年前、師匠になにをしたんすか」
 シンは、ぴくりと眉を動かした。
「……どういう意味ですので?」
「五年前、師匠に火傷を負わせた犯人はアンタかって聞いてるんすよ」
 シンは、少し考える素振りを見せるが、やがて小さくため息をつくと、無言のまま弟子を見下ろした。
 弟子は、その視線を真っ直ぐに受け止めて、答えを待った。しばらく沈黙が続いた後、シンはゆっくりと口を開いた。
「そうですが、それがなんなので?」
 その言葉を聞いて、弟子の表情が変わることはなかった。むしろ予想通りの回答だったので、あまり驚く様子もなかった。
「なら、アンタは敵っすね」
 シンはそんな弟子の様子を見て鼻を鳴らすと、再び口を開いた。
「魔女の魔法は世界の秩序を乱す。魔女を誅殺するのは当然ですので」
「アンタもその魔女なのにもかかわらず、っすか?」
 シンは何も答えることは無かったが、代わりに、腰に下げていた剣を抜いた。そして、そのまま弟子に切先を向ける。弟子は、それを見てなお、態度を変えることは無かった。
 シンの剣を握る手が震えていたからだ。
 ――次の瞬間、二人の間を分かつように炎の壁が立ち上った。
「だまれ……わたしは……魔女なんかじゃない……」
 シンは明らかに錯乱していた。弟子はこの現象に見覚えがあった。感情の昂ぶりによる魔法の暴走だ。
 師匠が言っていたように、シンが炎の魔女であることは間違いない、と弟子は確信した。
「魔女なのに魔女を殺して、アンタはなにがしたいんすか!」
「うるさいッ‼ 黙れ‼ 私は……!」
 シンは、剣を振り上げながら叫ぶ。炎の壁が割れ、辺り一面に火の粉が舞う。その隙を狙って、弟子は手と足の縄を解いた。
 しかし――――弟子は、その刃を自らの胸で受けてみせた。
 シンは、目の前で起きた出来事に理解が追いつかず、呆然と立ち尽くしていた。
 弟子は、自分の胸に突き刺さっている剣を抜くと、それを投げ捨てた。そしてにやりと笑うと、力なくその場に倒れた。
 シンは、慌てて駆け寄り、血だまりの中に倒れ込んだ弟子を抱きかかえた。傷口からはどくどくと鮮血が流れ出ており、顔色もどんどん悪くなっていく。やがて、弟子の顔色が青白くなっていき、呼吸が弱くなっていった。
「なぜ、なぜあなたは、自分から殺されることを選べるのでッ⁉ 私を挑発してッ、そんな……」
 シンは、熱に浮かされたように、ちがう、ちがうと呟き続ける。
「……思った、通り……たしかに、アンタ、は……ちがう、な」
 弟子は、途切れそうな意識の中、必死に言葉を紡いだ。
「アンタの、ねがい、は」弟子は、最後の力をふり絞るように言った。
 その瞳は、まっすぐにシンを見据えていた。
「――『死にたくない』でしょ?」
 その言葉を最後に、弟子の意識はなくなった。

  *

 弟子は、森の入口にある小屋で目を覚ました。
「……悪運の強さは師匠譲りっすね……」
 弟子は自分の胸に触れると、服を捲り上げて確認する。そこには包帯が巻かれていて、すでに出血は止まっていた。
 窓の外を見るともうすっかり暗くなっていた。どうやら丸一日眠っていたのか、もしくはそれ以上か。
 傍らには、シンが眠っていた。恐らく魔力を使い果たしてしまったのだろう。どうやら泣き腫らしたようで、目の周りが赤くなっていた。弟子はそっと布団から抜け出すと、ベッド脇に置いてあった【本】を手に取った。
 驚くべきことに、既に本は完成していた。表紙には【贖罪】というタイトルが書かれていた。弟子は、しばらくタイトルに目を通していたが、やがて本を開くと、ページをめくった。

 ――私が魔女狩りに捕らえられたのは十二年前。その頃、魔女狩りはとある国の一部の過激派が始めたものだった。私は魔女狩りに初めて捕まった魔女だった。
 私は、拷問を受けた。全身を焼かれ、切り刻まれ、何度も何度も死んだ方がマシだと思えるほどの苦痛を味わった。それでも私は死ななかった。
 私の魔法は身体の再生力を高める効果もある。だから、死ぬことも出来なかった。
 何度でも蘇る魔女は、魔女狩り隊にとって恐怖の対象となった。そして、ついに魔女狩り隊は私をギロチンで処刑することにした。
 ――魔女を殺すことこそが魔女を救う唯一の手段である。
 当時の魔女狩り隊の隊長はそう言って私に死刑宣告を下した。
 ――魔女は、この世にいてはいけない存在なのだ。
 ――魔女は、死んで当然の存在だ。
 ――魔女は、世界を滅ぼす悪魔だ。
 魔女狩り隊が私を囲んで言う。殺さないで。殺さないで。お願い。助けて。
 そんな言葉が通じないからこそ、私は嘘を吐いた。
「――違う。私は魔女じゃない。私はあなたたちと同じ。同胞ですので」
 その言葉に、魔女狩りたちの手が止まる。
 嘘を吐くな、魔女め。そうだ。こいつは魔女だ。魔女はみんな同じことを言う。お前は魔女だ。殺せ。殺せ。
「いいえ。私も、魔女を殺したいので」
 私はそう言って笑ってみせた。魔女狩りどもは動揺している。今しかない。
「私を解放すれば、魔女どもの魔法からあなたたちを…… 救ってあげますので」
 ……そうして、私は魔女狩りに入りこんだ。
 自分が死にたくないという理由だけで、他の魔女を――殺した。
「どうして⁉ なんで私を殺すの⁉」
「痛いッ、やめてぇっ‼」
「ああぁっ、熱いッ! 燃えるッ!」
「嫌ッ、誰か、誰かたすけてェッ!」
 魔女たちは私に命乞いをする。私を糾弾しながら。私を罵倒しながら。私を責め立てながら。
 私は、私が死にたくないがために、殺した。魔女は、殺すべきだと自分に言い聞かせた。
 だって、魔女は――私も同じなんだから。
 それから数年かけて、魔女狩りの勢力が拡大していくにつれて、私は魔女狩り隊の中で出世していった。
 そして、魔女たちはいなくなり……魔女は私一人になった。
 魔女狩りたちは当然、最後の魔女である私の処遇について議論を重ねた。
「魔女は等しく殺すべきだ」
 死にたくない。
「しかしシン・D・ザイアは我々の仲間で……」
 死にたくない。
「魔女狩り隊長を殺すわけにもいくまい……」
 私は、死にたくない。
「その魔女狩りの存在意義はもうないだろう。魔女はもうシンの他にいないのだから!」
 例え、誰を犠牲にしてでも。
 私は円卓に向かって、また嘘をついた。
「――魔女はまだまだ、死んでいませんので。まだ、私の力は必要になりますので」
 ……そして、また私は、何人も、殺した。魔女でも何でもない、ただの、人を。
 あるいは、自分を殺そうと企てている人間を。権力者を。
 燃やして、斬って、殺した。
 ――そうして、私は、魔女狩りの、実質トップの座に君臨した。
 私は安堵した。これで世界は平和になった。もう――殺されない。殺さなくて、いい。でも、こんな私が、本当に、生きていて、いいのか? 沢山の命を奪って……わたしは、いきてて、いいのだろうか?
 ――救われたい。赦されたい。こんな私でも、生きていていいのだと――。
 私の部屋のドアが勢いよく開く。
「シン様! 魔女の目撃情報です!」
 部下の報告を聞いて、ああ、と嘆息を漏らした。
「私一人で行きますので。報告書をこちらに」
「はっ!」
 まだ、殺さなくちゃいけないヤツがいる――――――。

 目撃情報のあった森の中の屋敷に私は足を踏み入れた。そこは図書館のように、多くの本が本棚に整然と並んでいた。その屋敷の中心で、まるで待ち合わせをしていたかのように、魔女は本を読みながら待ち構えていた。
「来たのう、炎の魔女」
 その声はどこか弾んでいた。若々しい容姿から出る、しわがれた老婆のような声が対照的で、気味が悪かった。
 魔女は本を閉じて立ち上がると、私に向かって微笑んだ。その笑顔は、とても美しいものだった。
 全知の魔女の後方から、別の魔女が顔を覗かせ、すぐに身構えた。
「師匠! 今日来るお客さんって……魔女狩りじゃないか⁉」
「そうじゃが?」
「そうじゃがって……なんで言わなかったんだ⁉」
「言っとるじゃろう? 私はお前と同じで、ネタバレだけは嫌いじゃと」
 その会話を聞きながら、シンは剣を強く握りしめた。
 そして、大きく踏み込んで、一気に間合いを詰めると、そのまま剣を振り下ろした。
 しかし、剣は魔女に触れることは無かった。まるで、斬られないと決まっていたかのように。
 その瞬間、私は理解した。目の前にいるのは、今まで対峙してきた魔女とは格が違うと。
剣が通じないと悟った私はすぐさま後ろに飛び退いた。
「やめておけ。私に戦う力はないが、この先、何が起こるかは知っておる。疲れるだけじゃよ?」
「なるほど。全知の魔法はハッタリではなさそうですので」
 油断した。単独で来るべきではなかった。逃げるべきか――。私の脳内に警報音が響いている。
「まあ待て。私は別に君を殺そうとか、魔女の復讐とか、そんなことは考えておらぬ」
「……どういうことですので?」
「少し話をしたいだけじゃよ。どうせ死ぬ運命なら、話くらい聞いてくれても罰は当たらないじゃろ?」
「……はぁ、分かりました。聞きましょう」
「君がそう言ってくれると知っておったよ。では、面倒くさいから本題といこう」
 そして魔女は、私にとって衝撃的な言葉を投げかけてきた。
「君は五年後、魔女の弟子に殺されるじゃろう」
 私は、驚きすぎて目を見開いたまま固まった。それからしばらく沈黙が続いた後、ようやく口を開いたのは、魔女の弟子の方だった。
「師匠⁉ 私がこいつを殺すって、どういうこと⁉」
「そこまで言ったらネタバレになるじゃろ? それじゃ面白くない。ネタバレは節度を守らんとのう」
「充分ネタバレだろう⁉」
 それ以降の二人の口喧嘩は、私の耳に入ってこなかった。
 今の言葉は、一体……。全知、だというなら。未来も知っているのなら。私の命は、あと五年しかない……?
 魔女の弟子は私の方に振り返った。彼女の瞳には困惑の感情しかなく、しかし確かに、私への殺意が見え隠れしていた。
「ひっ……!」
 私の心臓が跳ねた。体が震えている。逃げなきゃ――そう思った時には、もう遅かった。
 魔女の弟子は一瞬にして私の目の前に立っていた。
「うあああああああああああああああああッ‼」
 私は、錯乱し、炎を周囲に撒き散らしながら、叫んだ。
 その炎が魔女の弟子目掛けて飛んでいき、次の瞬間、私の目の前は炎に包まれた。辺りの炎はどんどん燃え広がり、屋敷を燃やしていく。ふーっ、ふーっと息を切らし、正面の炎を見つめる。
 燃えていたのは……魔女の弟子ではなく、全知の魔女だった。
「師匠ッ‼」
 悲痛な叫び声が響く。バチバチと火の粉が爆ぜる。
「……無事か?」
「なんで庇った! 師匠なら避けられたはずだろう! なんでいつも……師匠は何も教えてくれないんだ‼」
「いつも言っておるじゃろ……ネタバレは嫌い、じゃと……」
 みるみると、魔女が燃えて、赤黒く焼け焦げていく。
「うあああああああああああああああああッ‼」
 弟子の慟哭を背に、私はその場から逃げ出した。
 魔力が切れ、気が遠くなり、全身が凍てつくような寒気に襲われる。
 私の炎が、森を呑み込むように焼き尽くしていく。
 炎が消えたのは、それから三日後のことだった。屋敷はもちろん、魔女も灰になっただろう。
 しかしその後、私は魔女の弟子が生きていたことを知った。彼女は本の魔女と名乗り、人々の願いを魔法で叶えているらしい。
 殺さなければ、いけない。私の正義のために。

  *

「これが……五年前の事件の全容っすか……」
 弟子は本を閉じて、呟いた。
 すうすうと寝息を立てているシンに、弟子はそっと毛布をかけた。そして、荷物をまとめて、魔女の元へと帰ることにした。今なら、容易に抜け出せるはずだ。
「自分が何者か、なぜ記憶がないのかがまだわからない……師匠に聞いてみないと」
 弟子はそう決意して、シンが起きないように静かに小屋を出た。
 しかし、その扉のすぐ横の壁にもたれかかるようにして立っている人影があった。
「――……全知の魔女っすね」
「ほう、勘が鋭い」
 全知の魔女はフードを取りながら言った。顔立ちは師匠に……本の魔女にそっくりだ。ただ、火傷の痕が全くない。肌は不自然なくらいに、真っ白だ。
「死んだはずじゃ?」
「そうとも。恐らく君にしか見えておらぬよ」
「……どうしてここにいるんすか?」
「炎の魔女を殺すものが現れたときに、そっと勇気をあげるためじゃよ」
 魔女は不気味な笑みを浮かべ、小屋の奥で眠ったままのシンを指しながら言った。
「そいつは、多くの魔女を殺した。死にたくない、なんて浅はかな理由でじゃ。なら、君がそいつを殺さなければ、今度はお前か、お前の師匠が殺されるぞ? ほら」
 全知の魔女が、シンに刺された傷をつんつんと触った。弟子の顔が苦痛に歪んだ。
「断るっす」
「なぜ?」
 全知の魔女は苛立ったように、弟子を睨みつけた。
「あの人と同じになりたくないっすから」
「……ほう?」
「浅はかな理由なんかじゃない。死にたくないから戦う。人が人を殺すには充分な理由っす。でも、だからこそここであの人を殺したら、全く同じ呪いを背負うことになる」
 弟子は真っ直ぐな目で、魔女を見つめた。
 魔女はその目を逸らすことなく見つめ返した。
「それに、ボクには、人を裁く権利なんてないっすよ」
「……ふむ。やはり、か」
 弟子は首を傾げる。
「私は死ぬ前、弟子が……本の魔女が、炎の魔女を殺す予知をしておった。しかし、本の魔女も君も、そいつを殺す気配がない。なぜじゃ?」
「なぜって……」
「君が、特異点なのじゃ。君が関わると、私の全知が瓦解して未知になっていく。本の魔女は憎しみに囚われなかった。非常に興味深い」
 弟子はしばらく黙り込んで、それからゆっくりと口を開いた。
「あなたも、ボクを知らないんすか?」
「……そうじゃの。いや、正確には、君が生まれた理由は知っている、かの」
 弟子は目を見開き、全知の魔女の腕を掴んだ。魔女の顔が苦悶に歪む。
「教えてください。ボクはなぜ……記憶を失ったんすか」
「やめておけ。知らない方がいいこともある。すべてを知っていた私が言うんじゃ。間違いないぞ」
「それでも、知りたいっす」
 弟子の必死の訴えに、全知の魔女はため息をついて答えた。
「いいじゃろう。その代わり、約束してくれ。これから起こることを全て受け入れると」
「……もとからそのつもりっす」
「……よかろう。君は――」
 全知の魔女が、言葉を紡ぐ。
「君は、記憶を失ったのではない。あの業火の中で、誕生したのじゃ」
 その時、風がさあっと吹いた。爽やかな風ではなく、嵐を呼びそうな、暗くて重い風だった。
「――君は、私の……コピーなのじゃよ」
「……え?」

第四章 魔女は炎を抱く

 私は、炎を抱いていた。
 メラメラと、私の腕の中で、師匠が燃えていく。熱さは気にならなかった。ただ、
 大切な人を喪うのが怖かった。肉の焼ける嫌なにおいがする。涙が流れて止まらない。
 炎がようやく消えると、師匠は赤黒いナニカになっていて、身体から血とも汗ともつかない液体がどろどろと流れ出ていた。
 逃げようとも思えなかった。
 ここで終わろうと思った。
 業火の中で、私は、本に願った。
 師匠、私を一人にしないで、と。
 その瞬間、私と師匠を、光が包み込んだ。
 光が消えると、そこには、師匠の体が消え、代わりに、少年が眠っていた。
 瞬間的に、私は理解した。彼は、師匠の生まれ変わりなのだと。
 ゆっくりと、少年が瞼を開けた。
 師匠。そう言いかけたが、彼の口が開くのが先だった。
「――あなたは……誰っすか。ボクは……誰っすか」
 私はその瞬間、絶望に突き落とされた。
「――何も、覚えていない、のか」
 私は空ろな目をした『彼』を見ていた。
 そして、ついさっきまで燃えた師匠の体を抱きしめていた、焼け爛れた腕で、『彼』を抱きしめた。
 師匠の記憶を取り戻せば、きっと、もう一度、一緒にいられる。
 大丈夫。師匠が忘れても。
「わからなくてもいい。覚えていなくてもいい。君が願うなら、私は君を永遠に忘れないよ。私が君の代わりに……覚えているよ」

  *

「私が死ぬ直前、あの業火の中で本の魔女は、私を救うために、君を生み出した」
「ちょ、ちょっと待って……コピー……って」
 弟子が混乱しているのを見て、なおも全知の魔女は説明を続けた。
「本の魔女が人々の願いを叶え、本を集めているのは、君の記憶を開放し、私を生き返らせるためじゃ」
 弟子は口をパクパクと開き、まさかそんな、という表情をしている。
「……じゃが、私は生き返るつもりはない。そもそも、あの日私が死んだのは計画通りだったからじゃ」
「……どういう、ことっすか?」
「……私の能力は、全知。あらゆる事象を知り得る力じゃ。全知の力は強すぎる。それ故に、使い方を誤れば、世界を壊すことだってできる。私は自分自身の魔法を、死をもって封印することにしたのじゃ」
 全知の魔女は自嘲気味に笑った。
「全てを知っているからこそ、知りたいと思う気持ちが……私には理解できん。だから、羨ましいのじゃ。未知に心躍らせる……人間がのう。くくっ、世界は……少し謎がある方が魅力的じゃろう」
 全知の魔女は立ち上がり、空を仰いだ。
「しかし、君という特異点が、世界を私の知らない道へと導いている。魔法で生み出されたが故なのか……。死んだ後で未知が見つかるとはのう。そうか……これほど心躍るものか」
 全知の魔女は胸に手を当てて微笑んだ。
「……つまり、ボクは、師匠が生み出した、あなたのコピー……ということなんですか?」
「私の、というよりも、この世界と魔女が生まれる前に存在した……『原初の魔女』と同一、じゃな。」
「…………」
 弟子は頭を抱えた。自分の出生について明かされるのは初めてのことだった。
「さあて、最終儀式を始めるとするかのう」
「最終……儀式?」
 弟子が顔を上げると、全知の魔女は何やらぶつぶつと呪文を唱えているところだった。
「待ってください!何をするつもりっすか!?」
「……時を巻き戻し、魔女を『なかった』ことにする」
 弟子はその冷たい声を聞いた瞬間、全知の魔女を取り押さえようとして――失敗した。全知の魔女の体が煙のようにすり抜けたのだ。
「無駄じゃ。私は死んでおるからの。それにこの魔法は、私が死ぬ前に組み上げておいたものじゃ。あとは起動させるだけでよい」
 弟子が激昂する。
「なぜそんなことを!!」
「魔女を救うためじゃ」
 全知の魔女は静かに言う。
「君が、な」
 そう言った瞬間に世界は、蝋燭の火を吹き消した後のような、暗い暗い闇に包まれる。地面も空もなくなった場所に放り出された弟子は、浮いているのか落ちているのかもわからず、ただ背中に冷たい汗を流した。
 何も見えない。目を開いているのにつぶっているような錯覚に陥り、何度も瞬きをした。
 瞬きを繰り返していると、ある瞬間から空が生まれた。空は、一日のすべての時間が混ざり合い、重なり合ったような、言葉では表しきれない複雑な色をしていた。
 もう一度、瞬きをすると、今度は大地が生まれた。地に足がついた、と認識した瞬間、それまで感じていた不思議な浮遊感は消えた。
さらにもう一度瞬きをすると、遠くの方に、誰かがいることがわかった。弟子は、とにかく その人物とコンタクトをとるべく、その人物に近寄ろうとする。
 一歩踏み進むたびに、猛烈な暑さと寒さが交互に襲いかかってきた。前進から吹き出した汗が次の一歩で凍りつきそうになり、次の一歩でまた汗が流れ出す。お腹は減らないし疲れもしない。ただ、自分が生きているのかどうかも曖昧になりそうだ。
 たった数歩でたどり着きそうなのに、永遠にたどり着けないような気さえする。
 ……ようやく、その人に手が届きそうなところまで辿り着いた。ようやくと言っても、五分しか経っていないのかもしれないし、あるいは気づいていないだけで三日は経ったのかもしれない。
 その人は、彼女は、泣いていた。
「君はどうして……泣いてるんすか?」
 弟子は声を掛けた。
 その女の子は、肩を小刻みに揺らしながら、答えた。
「わたし、わたしね。まほう、せいぎょ、できなくて。なんども、なんども、こわしちゃうの」
「壊しちゃうって……なにをっすか?」
「ぜんぶ」
 全部? 弟子が聞き返そうとすると、またふわりと奇妙な浮遊感に包まれた。地面が消えたのだ。無重力空間に放り出されたかのような感覚にクラクラする。
「ま、またこわしちゃった。もどさなきゃ」
 彼女はそう言うと、手を宙に振る。
 すると、また地面が生まれた。弟子は着陸……と言えばいいのかわからないが、それに失敗し、尻餅をついた。
「いてっ」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 弟子は確信した。天地創生の魔法。間違いない。原初の魔女だ。
「わたっわたし、なんでうまれてきちゃったんだろう。なんでこんなまほう、つかえるんだろう」
 原初の魔女は苦しそうに頭を抱える。
「こんなまほう、いらないのに。いやなのに。わたし、わたしなんて――」
 しんじゃったほうが――。
 原初の魔女がそう言いかける。
 そして、世界は、また眠りにつくように――。
 ――消える、前に。
 弟子は人差し指を彼女の口に持って行きその言葉を止めた。
「ボクは、君に出会えてよかったっすよ」
「どうし、て?」
「こんな綺麗な空を見たのは初めてだからっす」
 弟子は神秘的な色の空を見上げながら、言った。
太陽と月と天の川と流星群。朝焼けと青空と夜の帳が混ざった空。
「この空みたいに、君のせいで壊れたものもあるけど、君のおかげで生まれたものもあるっす」
「たとえば、なに?」
 原初の魔女が問う。
 弟子は、全知の魔女の言ったことを思い出しながら、大きく息を吸って、言った。
「たとえば……ボクも、そうっす」
「え……」
「だから、死んじゃったほうがいい、なんて悲しいこと言わないでほしいっす。ボクを生んでくれて、ありがとうございます」
 目の前の彼女に、あるいは、彼女のコピーの自分自身に向かって。
「生まれてきてくれて、ありがとうございます」
 それは、心の底から出てきた本心だった。
 自分が生まれたあの日から、今まで。
 師匠と過ごしてきた日々を思い出す。
 幸せだった。自分が生きてきた時間を、絶対に失いたくないと思うほどに。
 だからこそ、弟子は今、心から感謝していた。
(そっか。全知の魔女さんが言いたかったことは……)
 弟子はこの世界に来てようやく答えを得た気がした。
「うふ、うふふ、おにいさん、へんなの」
「え、そんなにヘンっすかね……」
原初の魔女は、ひとしきりくすくす笑うと、空を見上げて、ため息を一つ吐いた。
「わたし、わかった。このまほうは、わたしごと、ばらばらにして、『つぎのせかい』にもっていく。そうすれば、きっとだいじょうぶ」
 彼女は、笑って。
「ありがとう。あなたのそのことばがあるから、わたしは、しあわせです。しあわせでした」
 彼女の体はガラスが粉々に砕けるように割れて――。
「ありがとう。またね」

 そして、世界は、始まった。

 *

「――――!?」
 弟子が周りを見渡すと、そこはもうあの世界ではなくて、空は一面青く染まっていた。
「おっ戻ったか」
「全知の魔女さん……今のは、何だったんですか」
「この世界が始まる一つ前の世界、まあわかりやすく言えば過去の世界に君を送った。どうじゃった? タイムスリップした感想は」
 どうだった、と言われてもな。 
「ボクがこれからどうすればいいかは見えたっす」
「ほう」
 弟子がぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいく。
「ボクは今までも……これからも、ボクはボクです。誰のコピーでもない、ボク自身」
「その心は?」
「ボクの人生は……思い出は……ボクだけの、ものだから。」
 全知の魔女はくつくつと笑い出す。
「そうじゃ。君は君じゃ。君の思うがままに生きれば、それでよい」
 全知の魔女は満足げに言った。
「そうそう……君が何をしたかは知らんが、炎の魔女の罪は『なかったことになった』」
「はあ……――え? どういうことっすか?」
「だから、君が原初の魔女に与えた影響によって、炎の魔女や魔女狩りどもは『誰も殺さなかった』ことになったんじゃよ。これですべての魔女が健やかに生きている世界となった。君の力を信じて良かったわい」
「は、はあ……?」
 そんなにすごいこと、やった気はしないけど。あれ? ってことは今ボクと師匠の関係ってどうなってるんだ? と弟子がぶつぶつ言うのを見ながら、全知の魔女は小さく「ありがとう」と呟いた。声は弟子には届いていなかったが。
「さ、すぐそこが図書館じゃ。私の手引きは、ここまででよいな」
「……また、会えますか?」
 その問いかけに、全知の魔女は意地悪そうににやりと笑う。
「さあのう。おぬしらが旅を続ければあるいは、な」
 全知の魔女の体が、徐々に透明になっていくように見えた。
「……じゃあ、いつかまた、っす」
「うむ。さらばじゃ。我が未来よ。本の魔女にも、よろしく」
 全知の魔女は、ゆっくりと目を閉じた。
 そして、弟子の目の前で、砂の山が風に吹かれていくように、消えていった。

「帰ったか。我が弟子よ」
 本の魔女は、図書館の入口に立って、弟子を待っていた。
「ただいまっす」
 本の魔女は、弟子に近づいていく。
「炎の魔女は……」
 どうなった? と聞こうとしたのだろうが、声が小さくて、弟子には聞こえなかった。
 弟子はサムズアップをした。
「ノープロブレム! っすよ」
「そうか……。うむ、よかった」
 本の魔女は弟子の頭を撫でた。弟子は照れくさそうに笑い、やがて真剣な表情で魔女を見つめた。
「……師匠。ボクは、真相を知ったっす。ボクが、原初の魔女のコピーだってこと」
 本の魔女はハッとした後、ぎゅう、と口を結んだ。そしてしばらくの沈黙の後、重々しく口を開いた。
「……そうか」
 弟子は真っ直ぐな目で、魔女を見据えた。
「でも、ボクはボクっす。師匠が……どう思っていようと」
 弟子は胸を張って言い放った。
「ボクは、本の魔女の弟子っす」
「……そうだな。私も、そう思う」
 本の魔女は切なそうに微笑んだ。
「私の願いは、もう叶っていたんだな」
 本の魔女はうなずき、それから目を閉じてつぶやいた。
「お前は、私の誇りだ」
「……ありがとうございます」
 本の魔女はゆっくりと目を開き、弟子を見つめた。
「さあ、行こう」
 本の魔女が歩き出す。弟子はその隣を歩いた。
「次はどこへ? やっぱり、全知の魔女さんのところへ?」
「いいや、どこへでも。まだまだ読みたい本ばかりだからな!」
 本の魔女は微笑んで、弟子の手を握った。弟子もまた笑って、握り返した。
 二人の背中を押すように、風が吹き始めていた。

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