障害は個性ではない。その人を形成している一部でしかない

「障がいは個性」とすると、同じような障がいを持つ人は皆一律、同じ個性とも捉えられてしまう場合もある。それはそれで失礼だ。

なぜか、障がい者は皆、善人のように語られる。天使のように語られる。純粋で素直で、無垢な人たちと。確かにそうなのかもしれない。無知であれば。それはそれで構わない。悪くもないし。仕方ない。

でも、おかしい。全員が全員、善人とかそんな訳ないじゃん。障がい者の方々もいろんなタイプの人がいる。障がいがあっても人間だもの。闇を抱えている人もいる。ネチネチした人だっている。いじわるな人だっている。わがままを素直と言う。無知を天使と例える。

障がい者だって個性は人それぞれだ。それを一括りするのもいかがなものか。私の妹は障がい者だが、とてもじゃないけど天使でもなく善人でもない。普通の人だ。性格は、穏やかだし、お世話好き。とても人当たりのいい人だけど細かいしとても頑固。寛容な部分があまりない。

「最近も人の話を最後まで聞きなさい」と注意したばかりだ。すると彼女は「最後まで聞くような話じゃない」など屁理屈を言う。マナーとして間違っている。それに、私だけじゃない、いろんな人の話を最後まで聞かず話の腰を折るんだろ。無駄なツッコミを入れるんだろ。と言うと黙っていた。身に覚えがあるんだな。

妹はとても賢い。口が達者だ。イラっとすることだって多々ある。障がい者になりたての頃は、なかなか理解できない私と母に「家族だからわかってくれると思った」とよく泣いていた。

最初はその言葉を聞くと彼女の辛さもわかるので黙り込んでいたが、よく考えたら「分かるわけないじゃん」という結果に落ち着いた。ある日、また「家族だからわかってくれると思った」とまるで水戸黄門の印籠のように言うので、はっきり言った「いや、わからない」って。

「私が障がい者になったんじゃないし。キミの身体の不自由さを想像することはできるがそこまでだ。想像するだけ。私自身が体感することはできない。ただ、想像して寄り添おうとしている。分からないけど分かろうと理解する努力をしてる。それじゃ不満なの?」と言ったら、それ以来、家族なんちゃらのくだりはなくなった。

彼女は、夜一人で歩くことができない。リハビリの先生から夜、ご家族と散歩がてら歩く練習をしてくださいと言われ、深夜1時に妹と愛犬と一緒の夜の散歩に出かけた。右手に妹。左手にリード。よろよろ歩かれるとこっちまでよろよろになり二人して転ぶ。わんこは遊んでいるのかと戯れてくる。最悪だ。

結局、妹を夜の道端に捨てて帰った。大好きなわんこを先に救出だ!妹にはここで待ってろ!とたまたまだけど墓場の前に座らせた。いやだー!怖い!という妹を放ってわんこの散歩を優先した。そのあと、車で妹を迎えに行った。これは妹のことだけど、障がいは個性ではないよね。彼女を形成している一部に障がいがあるだけで、彼女の個性には、障がいなんてあまり関係ないのかもしれない。

個性とは、「他人とは違う、その人にしかない性格・性質」ことをいう。十人十色という言葉があるように、個々のパーソナリティな部分をさす言葉である気がする。これって障がいがあり普段の生活に支障がある人にもない人にも関係ないよね。その人自身の性格、性質だよね。

「障がいは個性です」と言うのは意外に障がい者の家族に多い気がする。内閣府大臣政務官になった今井絵理子さんも、演説で「障がいは個性です」って言ってた。私の記憶が正しければ息子さんが障がいを持っているんだな。ご家族の方々は、障がいを個性とすることで、もっと一般的に受容してもらいたいと思い使う常套句になっているような気配がする。ちょっと分からないけど、障がい者の家族の私としては、障がいを個性とするべきではないと思う。

だいたい、障がいが個性ってそんな個性誰がほしい?好きで障がいを持って生まれたんじゃない。好きで障がい者になったんじゃない。って言うのに、障がいは個性って理屈が通らない。

個性を活かそう!個性を発揮しよう!個性溢れる!って言葉を聞くよね。こじつけかもしれないけど、障がいを個性とするならば、障がいを活かそう!障がいを発揮しよう!障がい溢れる!なんて言葉を使うと間違いなく叩かれるでしょ。

障がいを誰だって好きで欲した訳じゃないよな。確かに障がいは特徴ではあるが、個性にしてしまったら、その人自身のオリジナルな個性が消えてしまうじゃない。障がいは個性だなんて一括りにしないでほしい。もっとその人自身を見てほしい。障がいの有無なんて気にせずに、人対人で向き合える社会であってほしい。あぁ。。ちょっと言い過ぎてるかな。ごめんね。





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