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イギリス留学決意

はじめまして。私も妻も生粋の日本生まれ日本育ち、でもいまはイギリスで生活しています。イギリスで仕事をもち、子供を育てながら暮らしていくとはどういうことかについて書いていこうかと思います。

私も妻も日本では医師をしていました。私はがんの内科医、いわゆる腫瘍内科を専門にしており、妻は小児科が専門です。日本を飛び出したのは医師8年目、ちょうど医師として一通りのトレーニングを終えた頃、次のステップを踏み出すためにどうすることが一番よいのか考えていたころでした。医師といっても私の給料は手取りで30万ほど、週末は当直などのアルバイトをしてなんとか手取りが50万円という懐具合でした。そのため休みなし、毎日朝7:30には病院にきて、夜は20:00頃まで働くと言った毎日で、子供もできたばかりなのに家族として過ごせる時間もままならないような、まさに目まぐるしい毎日を過ごしていました。また腫瘍内科といった専門性から、患者さんやご家族と話す内容は極めて重苦しい、精神を削らないでは話せない事を伝えなければならない毎日でした。私はなんとかこうした日常の出口を、あるいはそのきっかけを探していたのかもしれません。一方でがんという病気に医師として真剣に向き合う、必ずいつかこうした患者さんを救える手助けを、自分にしかできない方法でサポートしたいという気持ちも強く持っていました。そんな折、新薬の臨床試験や、がんの様々な病態を科学的に検証する機会にも恵まれ、もう少し真剣に取り組みたい思いが強くなっていました。

当時も今も日本はがんの研究では世界のトップクラスです。がんの免疫治療ではノーベル賞も出ているほどです。ところが、そうした研究を臨床に効率よく活かす研究は、一周りほどアメリカや欧州の国から比べると遅れていると言わざるをえませんでした。例えば新しくできた薬を始めてヒトに投与するような試験的な臨床研究は当時日本で行われることは皆無でした。今現在もがんの分野では年間おそらく5件以下です。日本で行われている多くの新薬試験はアメリカあるいは欧州で初めてヒトに投与され、ある程度安全であることがわかった薬を、日本人ではどうか検証するような目的で行われることが多いのです。ここで何が問題かというと、もし有効な薬があったのならば、外国で初めてヒトに投与された薬が日本人への試験をするまでにおそらく3-5年ほどのタイムラグができてしまうのです。つまり3-5年も前にアメリカや欧州で命を救えるような薬が試験的にあるのに、日本ではその試験にすら患者さんたちは参加資格が与えられないのです。もっと言えばそうした試験に特化した知識を持った医師が圧倒的に少ない、つまりノウハウが育ちにくい土壌が脈々と受け継がれてしまうわけです。目の前のがん患者さんに毎日悪戦苦闘しているのに世界に目を向ければもう周回遅れになっている、こんな悲惨なことってありますか。私は先輩医師を恨みました。あなたたちがもっと世界的な視野に立ってそうした努力をしてこなかったから、結局私たちや次の世代の医師、そして目の前の患者さんに大きな不利益がふりかかってくるのだと。実際アメリカや欧州の医師たちはただ医師免許を取得して、それなりの施設で研修すればそうしたことに触れる機会があり、気軽に質問できる相手がいるのです。私は医師としてかなり絶望しましたが、同時にこうした事を理解している仲間や、先輩医師が幸いにも当時勤めていた安月給の病院にはいて、こうした問題に取り組もうとしていたところでした。

私はある時思いました。それならば自分が知識や経験を身につけてこの分野をリードしようと。しかしどうしたらいいのかまるでわかりませんでした。私は比較的短気というか行動が先に出る性格なのか、ある当直の夜の空き時間に、英語論文を出している研究者20名ほどに、片っ端からメールを書いて数年修行させてほしい旨を書いて送信してみました。今思えばほとんどが迷惑メールとして読まれもしなかったのではと思いますが、奇跡的にオックスフォード大のとある研究者から返信が来たのです。しかもせっかくなので博士号をとりにこないかと。今思えばその研究室では人手が足りなかったので、もしかしたら誰でも良かったのではと勘ぐるのですが、兎にも角にも私は急いでメールにお礼の返信をし、後日電話で更に詳細を詰める約束をしたのでした。

さて、英語圏のイギリスには実は大学生の頃二回ほど語学留学で訪れたことがありました。1回目はロンドンに一月ほど、2回目はスカボローという田舎町に1月半ほど滞在しました。当時はたいして英語を喋れるわけでもなく、また相手の英語をちゃんと理解できるわけでもないと言った程度の、いわゆる中級者の会話力でした。この二回の語学留学のあと、国連英検なるものを腕試しにうけ1級を取得したものの、かれこれ10年近いブランクがありました。日本で普通に生活していて英語ができないと困るシチュエーションってなかなかないでしから。そのため初めてオックスフォード大の研究者と電話したときはおそらく半分も相手の言ってることがわからなかったように記憶しています。ただ職業で使う専門用語は英語で論文を書いたり読んだりしてきたので、あまり苦労しなかったのは事実です。この会話のなかでわかったのは自分の英語力のなさと、大学院博士課程に入るには英語力の証明と、生活費と学費を賄えるだけの証明が必要だということでした。英語力はIELTSというイギリスやオーストラリアなどの留学に向けた英語検定があり、オックスフォードではリスニング、リーディング、作文、会話すべてで7.5点、全体でも7.5点というなかなかハードな関門をクリアしなければなりませんでした。また生活費や学費の証明は奨学金をもらっていないとほぼ不可能(貯金が1500万円くらいあれば、その貯金の証明でも可能でしたが、、、)なので、まず手当たり次第海外留学向けの奨学金に応募しました。結論からいうとIELTSは何度も受けましたが終にいわれた得点をクリアすることはできませんでした。たしか作文が7.0で少し足りなかったのですが、何故か大目に見てもらえて入学条件はクリアしました。また日頃から英語論文を出していたことが評価されて国内から奨学金も頂けることになったのです。さらにオックスフォード大学の奨学金も腫瘍内科の学生候補のなかで一番強く推薦してもらえることになりいよいよ留学が現実的になってきました。

しかし何事もすべてうまくいくわけはありません。期待していたオックスフォード学内の奨学金はなんと私の大学時代の成績ぐ悪かったため落ちてしまいました。今だから言えますが、日本の医学部では(少なくとも私のいた大学では)60点がテストの合格ラインで、60点でテストを通過することが美学でした。60点を切れば追試、あるいは留年となるわけですが60点なら合格、80点や100点と結果は同じです。また自分の努力を最小限にしてギリギリで通るのは実は難しいのです。だから私の大学の成績は60点より少しいいくらいの点数が並んでいました。医師国家試験をちゃんと通ればそんな成績ははっきり言って関係無いのです。ところが海外の大学は違います! イギリスでは上位10%くらいが2:1とよばれ、大学の知名度にかかわらずこの成績を収めた人は就職や大学院などで圧倒的に有利となるのです。これはアメリカでも同様の傾向があると思います。私はこの事を知った時ぐうの音も出ませんでした。全ては自業自得、世界を見てこなかった自分の見識の狭さ故の報いとして、その後の三年間自身と妻の貯金をほぼ全て食い尽くしていくのでした。事件はこれだけではありません。こうした最終的な通知が来たのは6月頃、入学は10月で私も妻も仕事をしていました。妻にはそれとなく伝えていましたが、いきなり色々な物事が進み、小さな子供もいるなかで彼女のストレスも限界を超えていたでしょう。ハワイのキラウエア火山級の爆発がそれこそ日毎に起こるのでした。

なんとか説得というか諦めてもらい、ついに9月、私は片道切符を持って日本を飛び出したのでした。(続編に続く)


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