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【タイと日本を結ぶ人身取引の闇③ [山岳民族の住む村へ]】

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パヤオセンターで人身取引の実態を知った私達は、タイ国内でもとりわけ人身取引の被害に遭いやすいとされているミャンマー・ラオス国境付近の山岳民族の村へ行くことになりました。



【山々を越えて】

タイ国内でもとりわけ貧困が著しいといわれているミャンマー及びラオス国境付近の山岳地帯。
この地に住む人々はどのような暮らしをしているのか。そして、どのような問題を抱えているのか。
それらを知るため私達は一度パヤオセンターを後にし、ミャンマー・ラオスとの国境にほど近い山岳民族の暮らす村へと向かった。そこでは3日間、ホームステイや仕事の手伝いなどを通じてフィールドワークをさせてもらう予定だ。

道程は簡単なものではなかった。初日に通ってきたチェンライからパヤオまでの道とは大違いで、山道を登っては下り、下ってはまた登る道を進んでいった。車はやがて、舗装されていない細い道へと入っていく。

寝ることもできないほどの悪路に体を揺らされること数時間後、村らしきものが視界に入ってきた。そこにある家屋は、これまで見てきたものとは異なり、茅葺きで高床式のものが多かった。家屋の周辺では放し飼いにされた鶏や豚が闊歩している。

(野放しにされているが、自分の飼っている家畜は判別できるらしい。他の家の家畜を捕って食べるようなことは一切無いという)



【クンフワイクライ村】

スタッフが住民に向けてこの村に来た経緯を説明すると、そのうちの一人が村長と思しき人を連れてきた。スタッフが続いて村長と話をし、事前の打ち合わせ通りここで数日過ごさせてもらうことで了承を得た。そして、村長がこの村について説明してくれた。

ここはヤオ族の村で、現在(2012年)は30世帯、83人(男性:40:女性43)が住んでいる。
タイ国内にはカレン族、モン族、ラフ族、アカ族、ヤオ族、リス族など複数の山岳民族が住んでいる。山岳地帯に住む人の多くはタイ語ではなく、それぞれの民族の言葉あるいは集落の言葉を話すという。実際、スタッフ達は住民との意思疎通に少々苦労している様子だった。

そして、この村には学校がない。
そのため、子どもたちは村から約3km離れた小学校まで歩いて通う。中学校・高等学校への進学を希望する者は、更に約20km離れたところにある学校で、寮生活をしながら通うことになる。
貧しい家庭環境から子どもを進学させずに家の仕事の手伝いをさせたり、小学校を卒業したばかりの子どもを街へ出稼ぎに出したりすることもある。
こうした理由から教育を受ける機会は制限され、進学を諦める子どもが多い。

また、この村で国籍を有する住民の割合は全体のわずか10%ほどだという。
この村に限らず、多くの山岳民族は国籍を持っていないことが多い。国籍がないということは、政府からの支援も受けられないことを意味する。
それでは、なぜ国籍を持っていないのか。山岳地帯というのは反政府軍や共産主義勢力の秘密の拠点として利用されやすく、また反政府軍のゲリラ兵には山岳地帯出身者が多いといわれている。そういった理由から、政府はかつて山岳地帯の住民に国籍や住民票、通行証を発行せず、山から町へ下りてくるのを禁止していた。

現在は政府が意図的に国籍を与えないようなことは少ないようだが、国籍取得のための認定作業には時間も費用を要するうえ、高地から街への移動が物理的に困難な事情などから、未だに取得していない山岳民族は少なくないという。

(村にある家屋のほとんどは、写真のような茅葺き造りのものだった)



【ホームステイ】

こうした村の情報を聞いた後、ボランティア達が3日間泊まる場所を紹介してくれるということでそれぞれのグループに分かれ、お宅にお邪魔することになった。

村にある家屋のほとんどは茅葺きで高床式のものだったが、私が泊まることになった家は床や壁がセメントで塗り固められ、屋根は塗炭で覆われた頑丈な造りだった。また、意外にもテレビや冷蔵庫といった家電用品もあった。数年前まではこういった家電はなく貧しい暮らしをしていたが、支援が入るようになってからはどの家も暮らしは良くなったらしい。

(風はあまり入ってこないが、ひんやりとしていて心地よい)


履き物を脱いで家にお邪魔し、私達は通訳のスタッフを交えて自己紹介をしながら、早速生活の様子について伺った。
この家には夫婦と娘2人、息子1人の5人が住んでいて、現在はお父さんだけが働いている。農業を生業としているが、仕事場は一山越えたところにあるため身体的に簡単なものではないという。

そこで、お父さんが仕事場へ行く際に運んでいるという50㎏のトウモロコシの袋を担がせてもらった。それはかつて体験したことのないほどの重量感で、背負って山道を歩けるようなものではなかった。しかし、私よりも小柄なお父さんはその袋をひょいと担いでみせた。細身の体のどこにそのような力が秘められているのか。

しかし、ずっと続けられる仕事ではない。体にはいつか限界が来るだろうし、当然ながら農業は天候などの条件に大きく左右される仕事だ。いつ収入が途絶えるかは分からない。
その時はどうするのだろうか。学齢期の息子に働いてもらうのか。あるいは娘達を…。先日、タイにおける人身取引の現実を知ったこともあって、そのような恐ろしい想像をしてしまう。

(50kg近くあるという米袋を手慣れた様子で持ち上げるお父さん)



お母さんが夕食の支度をするということで、しばしその様子を見学させてもらった。傍らでは長女と次女が調理の手伝いをしていた。彼女達は見知らぬ外国人に警戒しているのか話しかけても笑顔を見せることはなく、淡々と調理をしていた。

しばらくしてお母さんから「することもないからゆっくり休んでて」とジェスチャーを交えて伝えられたため、私は家を出て辺りを散策することにした。まだ16:00だというのに、強烈な日射しが照りつけている。村は山々に囲まれた盆地であることから、センターにいたときよりも暑さを感じる。

村では子どもが駆け回って遊んでおり、男達は軒下で昼寝をしたり話をしたりしていた。その周辺では鶏が親子でうろついている。
一見するとゆったりとした時間が流れるのどかな田舎という印象だが、実際に生活するとなると困難が付きまとうだろう。食べ物はすべて自給自足でまかなっているのか、生活で必要な物品はどうやって調達しているのか、諸々の要因から仕事ができなくなった時はどうやって生活をしていくのか、疑問は尽きない。

(ガスはないため、かまどで調理をする。調理場はかまどに火を灯す度に煙が充満して息苦しくなるが、彼女達は慣れているのか気に掛けない)

(外で竹を削るお父さん)


日が落ちてきたためホームステイ先の家に戻ると、夕食の支度が終わったところだった。
テーブルの上には数種類のおかずが置かれ、ご飯が盛られていた。皆でテーブルを囲んで食事をいただく。村を訪れた異国の人間に気を遣ってくれたのかもしれないが、当初想像していた村独自の変わった珍味などは一切無く、どれも日本人の舌に合う品ばかりだった。
ちなみに次の年の派遣の折には別の村を訪れ、豚の生肉を血と一緒に和えたものを密造酒とともに振る舞われた。

(食事①。炒め物がメイン)

(食事②。ビーフンにスープをかけて食べる)


食後は屋外に設置された小屋で凍えながら水浴びをし、テレビを眺め、子どもと戯れて過ごした。日中とはうって変わってひんやりとしており、火照った体にはそれが心地よかった。
明日は子ども達の登校について行くことになったため、この日は22:00頃に床に就いた。



次回に続く


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