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「神様のボート」に乗り換えた話

花森咲樹さんの記事「神様のボートに乗ろう」を拝見して、「そうそう、そうだよねー」と感銘を受けました。それについて私の体験を語りたくなりましたので、今日はこのテーマで書きたいと思います。「神様のボート」って何?と思われた方は是非、花森さんのお話をお読みください。オススメです!

“神様の創造したボートは、真我によって創られた。 自分で創造したボートは、自我(エゴ)によって創られた。”

白状します。私も「自分の創造したボート」に乗っていたことがあります。それは元彼とズルズルと別れられなかったことです(笑)。いろいろ問題があったのに、結構長く付き合っていたので、今更別れられないと考えていました。今思えば明らかに執着です。

勇気を持ってお別れしてみたら、その後にはもっと素敵な人との出会いが待っていました。花森さんの書いていらっしゃるように「一般的には受けがよくないけど、自分は心から大好きな人」です。「神様のボート」に乗り換えたのです。

両方のボートに乗ったから比較できるのですが、「神様のボート」に乗っている時は、もう快適具合が違いますね。何もかもトントン拍子でうまくいきましたし、今は笑いが絶えず、幸せな日々が送れています。安心感も半端ないです。

それに比べて間違ったボートに乗っていた時はひどかったです。四方八方から槍が飛んで来て、精神的に病気になりそうでした。それでも、そのボートに執着していた自分。そして頑張れば、頑張るほど多くの障害が現れてきました(笑)。これ、間違っている道を行っている時のアルアルらしいです。その障害は「そっちじゃないよ」という神様からの声だそうです。

でも乗り換えるのは本当に勇気がいります。執着を手放すのは簡単じゃありませんね。ぬるいお風呂から、なかなか出られないのに似ているかもしれません。寒いから出たくないなーという感じです。そこをエイって出ると、ご褒美がもらえるのかもしれませんね。

ちなみに逆境に耐えて、間違った道を行き続けると、強制的に乗り換えをさせられることもあるようです。体調を崩したり、事故がおきたりして強制的に終了。そのボートを断念せざるを得なくなる状況になる。できれば、その前になんとかしたいですよね。

私などは何事も諦めずに最後までやるド根性的な、体育会系な考えが刷り込まれているので、なかなか途中で乗り換えること(止めること)が難しかったのです。それでズルズルと(笑)。まあ、人生何事も勉強ですよね。これもこれで無駄な経験ではありませんでした。

今回初めてこういうテーマで書いてみました。自分の恥ずかしい過去を書くのも、どうかと思ったのですが、花森さんの記事を読んだら、ムラムラと書きたくなってしまいました(笑)。他のクリエーターさんにインスピレーションをいただく。これもnoteのスゴさですね。

書いていたら、他にもこれ関連で書きたいことが出てきました。それは次回に書きたいと思います。

ここまでお読みいただいて、どうもありがとうございました!


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