育児ほどクリエイティブな仕事はない。
育児ほどクリエイティブな仕事はない。
最近の妻はよく、「〇〇しなくちゃいけない」という見えない責任感に尻を叩かれている。
家の中を「てぇへんだーてぇへんだー」と走り回ったかと思うと、一息ついてまた走り始める。
見てるこちらが、「てぇへんだなぁ」と呟いてしまうほど、見えない責任感と追いかけっこをしている。
僕はというとその姿を傍観しながら、掃除をしたり、子どもと遊んでいたりする。
こと、育児においては、僕に見えていないものが、妻には見えているようだ。
妻は言う、
育児には始まりも終わりもない
と。
育児はどこまでも広がっていく
育児とは何なのか。その範囲は宇宙のように果てしなく、終わりが見えないもののようだ。
例えば、
この前、うちの妻は娘たちの大好きなキャラクターの人形を睡眠時間まで削って作成していた。
怒られてしまうかもしれないが、それを承知で言わせてもらうと、そんなことは僕の育児には見当たらない。
いや、、育児なのは分かる。
「人形を手作りする」という作業を僕が育児として価値を見出すことができなかった。それだけだ。
つまり、育児として対価(時間やお金)をかける価値があるか、を自分の中で無意識に考えているんだと思うんだ。
決して手作りがダメな訳じゃない。
極端なことを言えば、僕が今仕事をしていること、noteを書いていることも、育児だと言えなくない。
なぜって、そこで少なからず金銭を得ているのだから、巡り巡って育児にも繋がるはずだよね。
でも、たぶん妻は仕事を育児だとは思っていないはずで、noteを書きながら僕が「育児参加してる!」なんて言えば怒られること必至だ。
結局、育児の価値も人それぞれのようだ。
結局何が言いたいの
話を冒頭に戻そう。
妻は今日も「てぇへんだぁーてぇへんだぁー」と走り回っていて、僕は掃除をしたり、娘たちとEテレを見ながら、そんな妻を傍観している。
妻の頭の中や視界では、どんなものが見えていて、どんなものに価値を捉えているのか。
僕には、まだ見えない。
ただ、見えていないものに価値がないわけじゃない。人が見えていないものに価値を生み出すことこそ育児なんだと思う。
そんな育児ほどクリエイティブな仕事はない。
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