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それでは、また明日

 親戚の法事があったので実家に帰った。2か月ぶりくらい。全然大したことは無い。
 大阪で一人暮らしを始めて半年が経った。遠く離れた地でもないので、当初から感動はなかったし以後も特に盛り上がりはない。私にとって新鮮味のないことが成功の証なのだろう。それにしても暮らしってやつはなんとも飽きないな、若気の至りだろうか、気持ちの問題なんだろうか。

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 昼下がり、読経を聴きながら座布団の上で私は正座をしている。次第につまさきの感覚がなくなってくるが、なんとか背筋をピン!と伸ばしている。ふと窓を見ると、カーテンの隙間から青空が見えた。雲が絶えず動いて灰色と青色が交互に映写される。昔よく行った近所の裏山の木々が見える。幼い頃は鬱蒼としていて巨大に見えたが、今となってはただの禿山だ。
 
 皆は読経を聴いているときに何を考えているのだろうか。私もいろいろ試行錯誤してみる。最初は一字一句追いかけてみたりするが、すぐに追えなくなる。英語のリスニング問題の大問③あたりの感じ。追えなくなると手に負えなくなってやむを得なくなるアレ。
 正確な音を拾えなくなると今度は空耳を探すようになる。今日は聴いている限りで「無料招待券」「バーゲンセール」「ギンガムチェック」などがあったが、それ以上はきりないないからいいよもう。こんなことは覚えている暇があったら読経の意味をちゃんと勉強したほうが有用だ。

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 イオン系列スーパーの店内放送の声。諸行無常の響きあり。実家の近所にあった大きなスーパーがこの度、20年の歴史に幕を閉じることになった。驕れるスーパーも久しからず、ただ秋の夜の夢のごとし。

 そのスーパーは私が住んでいた区域のほぼ中心に位置し、老若男女問わずいつも賑わっていた。友人と集まればとりあえずジュースとお菓子を買う場所であったし、晩御飯に1品足りないときはとりあえずお惣菜を買う場所であった。店の前に夏は焼き鳥屋、冬は焼き芋屋などが軽トラで販売に来ていて季節を感じさせた。少なからず、私の生活の中心にあった存在なのだ。
 感動のグランドフィナーレを見ようと閉店時刻30分前に店に行ってみると、今まで見たことないほどの人で溢れかえっていた。この狭い町にこれだけの人が潜んでいたというのか。あれだけカラフルに陳列されていた野菜たちは綺麗さっぱりなくなって、ところどころに商品が点在しているだけとなっていた。店員さんたちが総出で店の最後を見守っていて、中には私が幼い頃から勤務している店員さんもいた。中学時代以来会っていなかった友人のママもいた。10年ぶりくらいに会ったのにすぐに気づいてくれたその慧眼に早くも脱帽した。わわっ、忘れられてたら悲しいな…と思ったが杞憂だった。

 このスーパーの跡地に何ができるかは果たして知らないが、私の思い出の中からひとつの大きなものが抜け落ちるような感覚だ。ここら一帯のランドマークともいうべき存在になっていたこの建物に、それではまた明日、と言うことも、もうないのだ。離れれば知らぬこと。何事もない日々を取り戻すために、私も独り暮らしの家に戻る。

 それでは、また明日

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