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ドレッシング全然かかってへんで

 バターがしみ込んで真ん中がしっとりへこんでいる薄切りの食パンを、私はさも愛おしそうに食べている。休日の喫茶店のモーニング、ひとりでコーヒーをすする私をさしおいて、常連客たちや店員さんは目まぐるしく動き回る。漫才を日常に落とし込んだような会話をBGMに、湯気の立つコーヒーに砂糖をひとつ落とす。
 そして目の前にはこんがり焼き色のついたトーストがある。こんなことを言ってはなんだが、トーストなんて味は別に喫茶店で食べようがどこで誰と食べようがほとんど同じ。だけどそれでいい。味は別に評価点ではない、この特別な場所でじっくりと食べられるからいいのだ。
 市販の食パンに魔法なんてそう簡単にはかからない。

 トーストが鎮座するお皿の隅には、千切りキャベツの小さな山が添えられている。その山のふもとには、これまた小さく盛られたポテトサラダ。私が向井秀徳だったら、6本の狂ったハガネの振動をかき鳴らしていただろう。
 そのキャベツは業務用ではなく包丁で切ったであろういびつさが垣間見えて、それが愛おしい。チェーン店であろうと個人店であろうと、こういう温もりや手間暇が見えると、料理が一層美味しく感じられるというものだ。

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 (ドレッシング全然かかってへんやん!)

 小高く盛られたそのキャベツの千切りには、見たところドレッシングが山のてっぺんに少しかかっているだけだった。まるで今シーズン初冠雪を観測した雪山のように。脇には薄切りのキュウリも添えられているが、もちろんこれにはドレッシングがかかっていない。

 私は思った。こういうときって、ドレッシングの追いがけをお願いしてもいいものなのか。
 ドレッシングってのはサラダに必須の調味料。野菜は基本生で食べられるが、完全に"素"の状態だと味気ないし、なんか植物感が強くてあまり美味しくない。まあ確かに野菜といっても所詮は、葉、茎、根だし。でもドレッシングってのはまさにその根や葉を"ドレスアップ"してくれる超発明で、生野菜を食べるにはドレッシングは欠かせない。
 例にも漏れず、喫茶店のモーニングで出てくるサラダにもドレッシングはかかっているが、その絶対量が明らかに少ないことがある。これは別に喫茶店に限った話ではなく、どこの飲食店でも起き得る現象である。

 ただ、せわしなく動き回る店員さんにそんなことを聞く勇気もなく、私はただそびえるキャベツの山を見上げた。

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 さて、ドレッシングの量が少ないことについて、私は考えを巡らせた。サラダの頂上が透明なきらめきを放っていることから、かかっているのはおそらく柑橘系の無色のオイルドレッシング。サラダの景観を損なうことなく味をつけられる優れものだ。ゴマドレのような、すべてを俺色に染めてしまうアブラカダブラな奴とはまた違う、引き立て役というポジションをよく理解しているデキた奴だ。

 ホント、人によってドレッシングの好みの量って違うよなぁ、とつくづく思う。そういえば私の弟は、刺身を食べるときに醤油を小皿にヒッタヒタに入れていた。明らかに刺身の醤油許容量を大幅に超えていたので毎度醤油が余ったいたが、これくらいしないと気が済まない人もいる。
 かと思えば、調味料は最低限でいい、素材の味を愉しむ、という人もいる。ちょっとお高い焼肉を食べに行ったとき、肉一切れにゴマ粒くらいのワサビをつけて食べたことがあるが、両者がより引き立って味の奥行きがとても広がった感覚を味わった。調味料をいたずらにかけすぎると本来の味がわからなくなるし、なんせ余ったらもったいないからこの論調も理解できる。

 ボディラインが強調されるようなドレスを着るか、派手な装飾のドレスに着られるか、そこはもう好みの問題でしかない。

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 初冠雪のように積もったこのドレッシングを、いかに効率よく融かすか。雪融けの新鮮な水をどうやって山全体に行きわたらせられるか。私の龍弓【山崩】が火を吹く。
 さっそく山の頂上から私は崩しにかかった。ドレッシングが最もかかっている部分を慎重に箸で掴み、均等に分散させる。山のふもとから土砂を運搬して、山の標高はみるみる低くなってゆき、雪融け水が浸透してゆく。キャベツの表面に光るわずかなきらめきを見失わないように。

 (普通にもっとかけてほしかったなぁ…)と思いつつ、平たくなったキャベツをモシャモシャ食べた。キャベツの水分量が多すぎて、均等にドレッシングを拡散したことにより逆に完全に中和されてしまったのだ。山を切り崩してまでして、結局はほぼ素キャベツが出来上がっただけ。私は味の濃い食べ物が好きだ。

 私はもう「あっぱれ」の気持ちで、卓上にあった塩をひとふりかけた。何もない荒れ地に、今年初の雪が降った。
 
 

 

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