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リスク評価と精神論


リスク評価は、あまりに当たり前のことだ。それを抜きにして「安全・安心」を主張することはあり得ない。「安全・安心」を保証する論拠として、適切なリスク評価が存在する。それを無視して、単に口先だけで安全や安心を唱え、最後には「最大限努力する」という根拠のない精神論で結ぶ。
昭和は遠くなりにけり、とは誰が言ったことか。令和は昭和の劣化版であろうか。

議論がかみ合わないもどかしさは、双方が感じていることかもしれない。しかし、「別の地平」などという比喩を使って論評する態度は、ひどいと思った。開催の可否・要否は知らないが、これほど国民的で身近なテーマで生じている対話の欠如と説明責任の放棄は、開催にしても中止にしても、心の傷、民主主義の汚点として記憶され続けるだろう。

もっとも単純な議論の切り口は、
開催した場合としなかった場合の双方のシミュレーションを比較することだろう。リスクやコストと経済効果。開催の利益が、不利益を上回るとするシミュレーションは、寡聞にして知らない。

あるいは政府は、開催によって収束が遅れるというリスクを敢えて受け入れる算段なのだろう。もちろん、選挙のために。
感染が拡大しても、五輪のせいではないと主張するだろう。根拠なく繰り返し主張するだろう。壊れたテープレコーダーのように。

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