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スプラトゥーンの「甲子園実況」をどうみることができるのか?(後編)~物語としてのスポーツ実況~

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前回の記事からどうぞ。
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ズンダの昔の愛人

スポーツ実況は「物語」である

メディアを媒介としたスポーツ実況

実況者は何をしている人々なのだろう。

ここではスポーツ実況者が行いがちなことを紹介する。
これは全てのスポーツ実況者がこの通りのことを考え、実行しているという話ではない。

あくまで彼らの実況のやり方から抽出される実況理論である。

さて、彼らとて、ただ起こっている事象のみをダラダラと語っているのではない。

「実況」として大会に参加し、それを形作る一端を担っている以上
何らかに意識を割いていると考えられる。

ここで実況の仕事に18年ほど携わってきた人物が書いた論文を読んでみることにしよう。

駒澤大学の教授、山梨放送の元アナウンサーを務めていた

深澤弘樹氏の「スポーツ実況研究の視座ー「物語」の視点を中心にー」

である。


深澤はスポーツ実況について次のように述べている。

スポーツ中継はメディアなくして存在しない。そもそもスポーツは
身体行為であり、「する」ものである。ところが、近代スポーツにおいて、
「する」人と「みる」人とが分離し、メディアの発達によって、さらに「みる」
スポーツは発展を遂げることとなった。スペクタルとしてのスポーツの誕生である。その流れはメディアかの進展によって更に進行している。

スペクタル化とは「見世物」化することにほかならない。
では、「みる」スポーツは何ゆえに人びとと心をとらえているのであろうか。それは一言でいえば、スポーツがもたらす「感動」である。

人びとがスポーツに感動を求める背景には、社会の構造的変化がある。近代とは合理性を追求してきた社会である。

文明化の過程では感情もコントロールされるべきものとされ、感情抑制の飛び地として「みるスポーツ」は位置づけられる。さらには、情報化社会において感情をコントロールする存在としてメディアがあり、

メディアは意図的に「感動」を作り出すことにもなっている。

つまり、現代の「スポーツ」とは視聴者と競技者がおり、その媒介としてのメディアが存在する。

近代化にともなう一律的な社会道徳的な抑圧により縛られることが多くなった近代人は、感情の抑制を強いられており、スポーツ観戦は彼らにカルタシスを与えているという。

更に「スポーツ中継は「現実」そのものではない。スポーツ中継とはあくまでメディアに媒介されたスポーツなのである。メディアは現実を加工し、意味づけを加えて人々に提示する。スポーツ中継においても同様だ」と続け、実況者は【加工されたスポーツの世界へ視聴者を誘う役割】があるという。

要は「メディアによって試合はありままの姿から、放送局の編集や実況によって印象操作されている」ということである。

この加工が実況においてどのような言語をともない、おこなわれているのだろうか?

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