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わたしの卒業論文 谷崎潤一郎『卍』(2)

〔(1)はこちら〕

第二章 一堂に会することのない主要人物

本章から、物語内容の分析をしていきます。
『卍』の主要な登場人物は、園子、光子、柿内、綿貫の4人ですが、実はこの4人は、物語内で同時に登場する場面が一切ありません。
本章ではこの部分に着目し、4人が同時に登場しないことによりもたらされる効果を分析することで、4人が同時に登場しない理由を考察します。

1. 主要人物の関わり
考察にあたり、まずは章ごとにどの主要人物が登場しているかに着目し、物語全体を3つの場面に分けます。

場面A:〈その一〉~〈その九〉園子、光子、柿内が登場する場面
場面B:〈その十〉~〈その二十九〉園子、光子、綿貫が登場する場面
場面C:〈その三十〉~〈その三十三〉園子、光子、柿内が登場する場面

では、それぞれの場面で描かれる内容をざっと見てみましょう。

場面A:園子と光子との恋愛が描かれる場面
綿貫の存在はまだ一切描かれない。柿内は、園子との夫婦関係は描かれるものの、物語に大きな影響を及ぼすほどの存在とは言い難い。

場面B:一般的でない2つの恋愛が描かれる場面
柿内と入れ違いで綿貫が登場する。そして、園子、光子、綿貫の中で繰り広げられる同性愛と性的不能者との恋愛の2つが描かれる。
2つの恋愛は物語内では一般的でない恋愛とされる。それがわかるのは以下の部分。

・(同性愛について、光子の母が光子に)「お前もこれからが大事な体やよって、しょうむない事あんまり云われん方がよろしおまっせ」(P.28)

・(性的不能者について、綿貫を知る女性)「あのステッキ・ボーイやったら誰も羨ましいことないなあ」(P.148)
・(性的不能者について、光子が綿貫のことを)「自分に欠陥ある云うこと隠して遊んで」(P.150)

これらの記述から、この物語世界では同性愛や性的不能者との恋愛は一般的でなく、世間に歓迎されない恋愛であることがわかる。
つまり、この場面では、一般的でなく、世間に歓迎されない恋愛をする世界が描かれている。

場面C:園子、光子、柿内が3人一緒に行動するようになる場面
狂言自殺の一軒により光子と柿内が「健全な男女」としての関係を持ち、綿貫の問題を解決した後の話。光子が、園子と柿内との前で大きな権力を持つようになり、2人を薬で支配するようになる。
場面Bまでは外部との関係があったが、場面Cでは世間から完全に隔離された世界の中で登場人物との関係が変化していくことになる。

以上の場面ごとの特徴の差異により、それぞれの場面に違う世界が生まれていきます。この話は後でのお楽しみ。

2. 四人の運命を握るお梅
この物語で、4人の主要人物とともに重要な役割を果たす人物がいます。光子の女中、お梅です。本節では、お梅の人物像の分析と、場面ごとの特徴のさらなる考察をしていきます。
なお、お梅は場面Aには登場しないに等しいため、場面B、場面Cの2つの場面について見ていくこととします。

場面B:光子と綿貫の着物が盗られた際、お梅は代わりの着物を持っていく園子に同行し、園子、光子、綿貫、お梅の4人が揃う場面では、光子と綿貫を2人きりにさせるためか園子に話し掛け続ける。
それ以外の時は、光子が園子と会い続けられるように立ち回る。

〈例〉
・園子と光子が「見舞い」と称して会い続けられるように、光子の家への電話を辻褄の合うようにしておく
・さらに長い期間会い続けられるよう、光子が妊娠したことにするアイデアを出す
・狂言自殺の際には、家との連絡や薬や水の用意などをぬかりなくこなす

⇒お梅は、光子がその時点で一緒に居たいと思っている相手と居られるように立ち回る。お梅は光子の女中として忠実に仕事をしているとわかる。

場面C:光子の母に暇を出されたお梅は光子らを非常に恨み、園子、光子、柿内の3人の関係が過激化していく中、新聞に4人の情報を売って姿を消す。
⇒お梅は、光子の女中としてはぬかりなく仕事をこなしていたにもかかわらず光子の母に解雇され、その不条理さから光子らを恨み、意趣返しをした。

以上からお梅は、
・光子と園子との間を始めとする4人の間を「繋ぐ存在」であった
・4人の閉ざされた関係を外部と「繋ぐ存在」であった
といえるのではないでしょうか。

だからこそお梅は、場面Bでは園子、光子、綿貫の関係を外部の関係にも気を配りながら取り持ち、場面Cでは内部で完結していた園子、光子、柿内の3人の関係を新聞で強制的に外部と繋ぎ破滅させることとなります。
お梅は主要人物の運命を握るほどの「繋ぐ存在」であり、場面B、場面Cはお梅の介入があってこそ成り立った場面だということです。

3. 「卍」に蔓延する感情とその効果
4人の主要人物が同時に登場しないことでもたらされる効果を探るため、ここでは主要人物の4人が共通して抱え、物語全体に蔓延している感情に切り込んで分析していきます。

結論としては、主要人物の4人は皆、寂しさを嫌い誰かと繋がろうとしているという話です。
1人ずつ確認していきましょう。

[園子]
園子はほぼ常に誰かを愛し続けている。この恋愛事情については、先行研究で指摘がある。

「園子が結婚後間もなく男と恋愛事件を起こし、ようやく落ち着いたと思ったら光子に狂った理由として、谷崎は周到にも、というより常識的に、夫柿内との性格的・性的不一致を強調している」

(大久保典夫「「卍(まんじ)」―女性同性愛の奥にあるもの―」『国文学解釈と鑑賞七巻二号 1992年2月 P.77)

しかし、園子が柿内について語った部分を見てみると

「夫と私とは肌合エへんのんで、私がいつも愛の相手外に求めてた」(P.213)

と、柿内との性格的・性的不一致を示しはするが、一方で

(光子と関係を断とうとした際)「今では夫の愛情だけが一つの頼りでした」(P.92)
(柿内が光子と関係を持ったことを白状した際)「今にあの人とグルになって、うち独りぼっちにさそ思て」(P.216)

と、柿内にすがったり、離縁し独りになることを恐れたりする。
これらの記述から、園子は独りを嫌い、寂しさを埋めるために愛を求め続けたと考えることができる。
園子が体の関係を持った記述が無いのも、園子が体の関係よりも精神的な寂しさを埋める愛を求めていたからではないだろうか。すると、園子が愛する相手と体の関係を持ちたいと考えている様子が見られず、かつ「肌合エへん」夫との離縁を嫌がるのも辻褄が合う。

[光子]
光子の場合、光子本人が

「異性の人に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇り感じる」(P.117)

と明言していることなどから、光子が美しさで人々を、特に同性を引き付けたいのは明白である。
そして、同性の園子を惹きつける一方で異性の綿貫も惹きつける光子の行動は、物語内で

「絶世の美人やよって、いつも高うとまってて(中略)優越な地位にいるため」(P.130)

のものだと捉えられている。
しかし光子は、美しさで人々を惹きつけようと高くとまっているだけではなかった。出血事件の際の狂言だ。具体的な引用はしない(卒論ではしている)が、美しいとはとても思えない狂言をし、後からその件についてこう語る。

「あてかて姉ちゃんを取り戻そ云う一心で有るだけの知恵絞ってんし」(P.163)

つまり、光子は園子の愛が欲しかったのである。
綿貫に対しても、綿貫が寂しさを埋める相手になり得たからこそ、園子との同性愛の噂を自ら立ててまで縁談を破談させ、綿貫との関係を守ろうとした。
光子もまた愛を求めていたのだと考えれば、行動の辻褄が合う。

[綿貫]
綿貫は、表向きでは虚栄心を持ち強がっているものの、自らの性的不能を負い目に感じ、一人になる不安を抱え続けている。
詳しくは後で触れる。

[柿内]
光子との行為の後、明らかに愛を求めるようになる。しかし実はその以前にも、光子と遊ぶようになった園子の帰宅が遅いと

「いつにのうけったいな顔して、何やこう寂しそうにしてた」(P.32)

と、寂しそうなそぶりを見せている。

以上のように、主要人物の4人は全員、寂しさを抱えています。すると物語内は、主要人物の「独りになりたくない」気持ちのぶつかり合いになります。
では、それにより、場面ごとに何が起こるのかを見ていきましょう。ポイントは、同時に登場する人物の人数です。

場面A:園子、光子、柿内の3人が登場。ただし柿内は寂しさを抑えて表出しない。
⇒園子と光子の関係は、2人の間で比較的大きな問題なく深まっていく。

場面B:園子、光子、綿貫の3人が登場。3人で顔を合わせても園子と綿貫は光子の取り合いを始めることは基本的に無い。
光子と綿貫の着物が盗まれた事件の帰り道は、園子も綿貫も光子と一緒にいたがった。しかし、お梅がいたことで全体の人数が4人、つまり偶数となり、2人ずつに分かれてひとまず落ち着く。もし園子が独りになっていれば光子の取り合いに発展したかもしれないが、お梅の存在によりその余地は無くなった。
⇒2つの恋愛は、一応は混同することなく進んでいく。

場面C:園子、光子、柿内の3人が登場。柿内が寂しさを表出するようになり、主要人物の状況としては場面Bに近くなる。
だが、場面Bと決定的に違うのは、3人の間にお梅の存在が無く、外部から隔離された環境にあることだ。人数が奇数であるから、誰か2人が共に行動した途端、残る人は強制的に独りとなる。
そのため光子により3人一緒でないと行動できないルールが生まれ、3人全員が他2人を疑い続ける状況が発生する。
⇒光子の支配と、それを受け入れる園子と柿内との特殊な関係が生まれ、発展していく。

つまり、主要人物が誰かと繋がろうとしたがる中で重要となるのは、その場面での登場人物の人数が偶数人になるか奇数人になるかです。偶数人になれば落ち着き、奇数人になれば不安定な関係性が生まれていきます。

第二章まとめ
本章で見てきたのは、主要人物4人が同時に登場しないことでもたらされる効果でした。

場面A:園子と光子とが2人で恋愛を進めていく世界。
場面B:外部と折り合いをつけながら光子と園子、光子と綿貫の一般的でない恋愛がそれぞれ進行していく世界。
場面C:園子、光子、柿内の、内部で関係が発展していく世界。

場面を3つに分けると、それぞれ、以上の世界を生み出す効果があるのではないでしょうか。また、こうした世界を生み出す要素として、お梅の存在の有無やお梅の場面への関わり方も重要となることが判明しました。

第三章 柿内と綿貫

ここで少し視点を変えてみましょう。
「卍」において4人が同時に登場しない単純な理由は、柿内と綿貫が基本的に同時に登場しないからです。ここからは、柿内と綿貫について詳しく見ていくことで、4人が同時に登場しない理由を探っていきます。

1. 柿内と綿貫の性格の違い
まずば柿内と綿貫の性格の違いを見ていきます。なお、ここでの柿内の性格は、光子との行為の前に限定して分析します。

[柿内]
柿内は、前章でも触れたとおり、寂しさを抱えてはいるものの、他の主要人物とは違い相手に表立って寂しさをぶつける様子は見られない。

学者肌で「いつまでたっても書生流のぶっきらぼう抜けしませんし、あいそは下手ですし、それはそれは人づきあい悪い方」(P.8)

とされながらも、とにかく常識人であることが園子によって強調されている。
また、園子は柿内について、煩悶したことが無いように見えパッションも無さそうであるとし、

「冷静な夫の性格にやるせない淋しさ感じたばかりやのうて、いつの間にやら一種のわるさじみた好奇心抱いてました」(P.52)

と語る。
⇒柿内は、「卍」の主要人物の中では最も常識的な人物として描かれている。

ここで「パッション」という語が出てきたので、園子が語る「パッション」という語について定義しておきます。
定義のため、以下に辞書の定義と園子の発言の引用を並べます。

①キリシタン用語。キリストの受難、苦難。②熱情。激情。欲情。(『日本国語大辞典 第二版 第十巻』小学館 2001年 P.1222)
「いったいこの人の胸にはパッション云うものがあるのかしらん? この人でも泣いたり怒ったりびっくりしたりする事あるのかしらん」(P.51-52)

物語内での「パッション」は、辞書の定義の②にあたると考えられます。ただし、光子と遊ぶようになった園子に対し寂しそうな様子を見せる柿内には、園子は「パッション」が無いと判断しています。
なので物語内では、熱情、激情、欲情を持つだけでなく、それを他人を巻き込むほどの強さで表出することを「パッション」があるとしていると考えます。
よって、本論における「パッション」という言葉は「他人を巻き込むほどの熱情」という意味で使用していきます。

次は綿貫についてです。

[綿貫]
綿貫は、一言で言えば江戸時代的な美男子像を想像させられる人物だ。
(「江戸時代的な美男子像」は若衆歌舞伎の舞台に立つ11~15歳くらいの少年を指す。卒論ではもっと詳細に解説しているがここでは割愛。綿貫の特徴から、大体こういう姿が江戸時代の美男子像なんだなと思っておいてほしい。)
綿貫について、外見と性格とに分けて特徴を抜き出してみる。

「歳は二十七八ぐらい」「顔の色白うて」「表情が乏しい」「絵エに画いたように綺麗なばっかりで、ちょっとも近代的なとこあれしません」(P.118)
「さもさも感情の籠ったような芝居じみた声出し」(P.82)
「芝居のセリフみたいに節つけて云いながら、泣きそうな顔」「表情や物の云いようまで女の腐ったんみたいにねちねちし」(P.127)

また、綿貫の重要な特徴は、性的不能であることだ。綿貫は性的不能を隠しながらも異性を自らの美貌と巧みな言葉で魅了しており、光子もその1人となる。
だが、光子には他の異性とは違い、性的不能の秘密がばれる。それでも一緒にいようとする光子に綿貫は

「自分に欠陥ある云うこと承知して愛してくれるのんやったら、自分かて何で隠すもんか」(p.151)

と、光子を離さまいとする。
⇒綿貫は、常識的とされる柿内とはあらゆる面で対照的な存在として描かれている。

ここまでで柿内と綿貫の性格が対照的であることを確認しました。2人の性格の差が決定的に表れる場面のひとつが、相手への説得の場面です。

柿内は、挑発的、感情的な園子に対しては感情的に動かすように努めつつ、お互いに妥協しながら歩み寄ろうと冷静な対話を呼びかけます。
ところが綿貫を説得する場面では、一方的に証文を突きつけてきた綿貫に対し、証文をただ突っぱねることはしません。証文に但し書きを入れて証文を実質無効にすることでやり取りをしています。
柿内は相手に合わせた方法で説得を試みる人物であるといえます。

綿貫がとる説得方法として目立つのは、感情で訴えかける方法です。

「なあ奥様、今夜のことさぞかしお腹立ちですやろけど、どうぞどうぞお願いします」そう云うて男は又ぺたっと畳い頭擦りつけて、「僕の一身はどないなっても構いません、どうぞ光子さんを無事に送ったげて下さい、御恩は一生忘れません」云うてしまいには手エ合わせて拝むんです。(P.81-82)

そして相手の気持ちを汲む様子もなく、誓約書などの証文による契約で事を収めようとします。誓約書は園子、光子、柿内のいずれにも突きつけています。
綿貫は相手の都合に構わず相手の情に訴え、表面的に証文で相手と繋がろうとする、強引な説得を試みる人物であるといえます。

以上から、
柿内は相手を思いやりながら物事を進める人物
綿貫は自らの感情を全面に押し出し、相手と食い違った時でも半ば強引に物事を進める人物
であると分析できます。柿内と綿貫がいかに対照的な人物であるかがうかがえます。

2. 柿内の変化
柿内の性格は光子との行為後に変化します。具体的にどのように変化していくのかを見ていきましょう。

光子との行為前、つまり場面Bまでの柿内は、感情をむき出しにする場面が滅多にありません。しかし一度だけ、園子との喧嘩で大声で怒鳴っています。ただし一言だけです。

「「馬鹿」云うたなり、半狂乱になって泣きわめいている私の姿呆れて眺めてるだけ」(P.62)

感情が相手の人物にもわかる形で表出することがありません。よって、この時点ではパッションが無い人物として扱われています。
しかし、光子の行為後、柿内はパッションを手に入れ寂しさを知ることとなります。

「堰切った水みたいに、盲目的な情熱が意志や理性の力踏みにじくって燃え上って来て」(P.213)
「お前は僕のことパッションないない云うたけど、僕にかてパッションあったんや」(P.215-216)
「今になったらお前の気持かて分ったさかい、何で悲しい思いさすもんか!」(P.216)

園子と共に光子に支配される中で、3人一緒にいたい気持ちと、園子や光子を疑う気持ちとを得ることになった柿内。最後には、光子に第二の綿貫にさせられているのを自覚しながらも従順にそれを受け入れ、薬を飲まされるのも喜ぶようになります。

柿内は、何事も従順に受け入れるという綿貫との相違点はあるものの、パッションを手に入れ、寂しさを知り、おおよそ綿貫の性格と同じ性格に変化していったと言って良いでしょう。

「卍」において4人が同時に登場しない理由を考えるとっかかりとしては、以上から、場面Cについては、柿内が綿貫化する以上、綿貫が存在する必要はなかったのではないかという視点が得られます。
では、ほぼ場面Bのみで登場している綿貫は、物語にどのような影響を与えているのでしょうか。

3. 綿貫が物語に与える影響
綿貫は虚栄心が非常に強いです。しかも、世間では男としての存在価値を否定される立場ながら、大いに男性性にとらわれている人物です。自らの性的欠陥を、口先では

「人間の中で一番気高いのん中性や云うこと分ってる」(P.152)

と言い自分自身を理想的人間だと言い放ちます。ところが、光子は綿貫の一人前の男でありたいと願う本心を見抜いています。

「出来るもんなら一人前の男と同じに奥様持って暮らして行きたい」「ちょっとも外の男と違たとこないように思てたい云う気イあるばっかりか、光子さんみたいな人一倍綺麗な奥様持って、世間の奴アッと云わしてやりたい云う虚栄心まであるのんで」(P.155)

綿貫は虚栄心のために中性は気高いなどと強がったり、嘘や誇張を重ねたりすることで自らを守っていきます。そのため、その矛盾を他人から指摘されるのを恐れ卑屈になったり、本性や本心に気づかれてはいないかと人を疑い攻撃的になったりすると考えられます。
綿貫のこのような卑屈さや攻撃性が、物語の中では綿貫のパッションとして機能していきます。

そうした綿貫の性格が物語に与えた影響について言及している論文があります。

簡単にまとめて言えば、次の三点になろう。
綿貫の告白により園子の抱いていた光子像が変形したこと、その結果、園子の離反に対する光子の行動が過激になったこと、(直接的なことではないが)最終場面で光子と関係を持った柿内が綿貫に似てきたことである。
(藤村猛「「卍」試論--園子と光子の恋愛の物語」『近代文学試論』33号 1995年12月)

この論のうち最後の、柿内が綿貫に似てきたことについては既に考察済みなので、以下では他の2点について見ていきます。

・綿貫の告白により園子の抱いていた光子像が変形したこと
園子は綿貫の計略により、着物を持って行った宿屋で光子に恋人がいたことをはじめ光子の過去を知り、悔しい感情を爆発させている。

・園子の離反に対する光子の行動が過激になったこと
光子が狂言で園子を騙した「出血事件」のことであり、光子は狂言で人を騙すのを綿貫に教えてもらったと発言している。出血事件は綿貫の性格や行動が影響した事件とみて良いだろう。

さて、この2点の出来事によりもたらされたのは何だったでしょうか。光子の過去を知り一旦は悔しさのために復讐したいとまで言った園子は、出血事件の後の心境をこう語っています。

「よりが戻ってみましたら、その恋しさは前より増して」(P.106)

この2点の出来事によりもたらされたのは、以前より強い園子と光子との結びつきでした。
2点の出来事は場面Bの出来事なので、場面Cにおいては綿貫は案外、元々あった園子と光子の結びつきを深くする以外には、さほど大きな影響は与えていないといえるのではないでしょうか。

ただ、場面Cにおける光子についての園子の発言は見逃せません。

「そない極端に、ヒステリーみたいなこといい出しなさったのんは、(中略)多分綿貫の感化やないか思いますねん」(P.227-228)

光子は綿貫との経験により、柿内のような普通の男性では物足りなくなったのではないかという考えです。この考え通りならば、綿貫は場面Cで、柿内だけでなく光子にも大きな影響を残したこととなります。

綿貫がとる行動自体はシンプルです。
光子を放したくない気持ちを持ち続け、もしも別れる流れになったらあらゆる復讐をすると宣言していますが、実際に場面Bの最後〈その二十九〉で喧嘩別れとなります。また、園子との証文を秘密厳守とし、誓約の内容を破ればあらゆる迫害を受けることを覚悟するよう明記されていましたが、園子は証文の話をあっさりと光子に白状します。
そのため、場面Cで宣言通り、4人の話を新聞に売り込んでいくという行動です。

綿貫は、この復讐の宣言をした頃、つまり証文で人の心を括ろうとした頃から独り相撲状態であり、場面Bでは存在感の大きさの割に、物語の展開の大筋をひっくり返すような影響は与えていなかったのではないでしょうか。綿貫は、園子と光子の結びつきを強化しただけの人物と言っても過言でないかもしれません。
ですが、姿を消した後、柿内や光子の性格の変化に影響を与え続けた点では、物語に間接的に大きな影響を与えたといえます。

第三章まとめ
柿内と綿貫とが基本的に同時に登場しないことに着目し2人の性格を分析、両者はもともと対照的な性格であることを確認しました。しかし柿内は場面Cにおいて綿貫化をし、綿貫は姿を消しました。
綿貫は登場時、意外にも物語の展開に影響を与えていませんでしたが、姿を消した後の物語には間接的に影響を与えたといえます。

次章では、4人が同時に登場しない理由について、パッションの観点から場面を見直し、理由を探ります。


〔(3)に続く〕

本論における「卍」の本文はすべて、谷崎潤一郎『卍』(新潮文庫 2010年)から引用し、ページ数のみを示しています。



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