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わたしの卒業論文 谷崎潤一郎『卍』(3)

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第四章 蔓延するパッション

最後にそれぞれの場面から、4人が同時に登場しない理由をパッションの観点で見直し、まとめていきます。

1. パッションによる結びつき
登場人物は皆、寂しい気持ちの上に生まれたパッションを何らかの形によって表出し、欲求を満たそうとしています。園子は怒ったり泣いたりといったストレートな感情表現によって、光子は美しさで人を惹きつけることによって、綿貫は人を疑い、疑いを晴らそうとすることによって。そして、パッションを持った後の柿内は、光子に喜んで従うことによって。
これを踏まえ、場面ごとにパッションに着目し、それぞれの主要人物が登場する理由、しない理由を考えてみましょう。

場面A:園子、光子の2人は、観音さんの絵を描くために初めて園子の家の寝室に2人で入った〈その五〉〈その六〉の時に、パッションをぶつけ合う。光子が裸にシーツを纏って美しさを見せ、園子は光子の美しさに涙を流し、感情をあらわにする。

「うちあんた殺してやりたい」(P.39)
「殺して、殺して、―――うちあんたに殺されたい」(P.40)

以降、園子と光子は、途中断絶はあるが物語の最後までパッションをぶつけ合い繋がり続ける。
柿内が登場しているにもかかわらず物語の中心になれないのは、まだパッションを表出していないためである。また、綿貫はまだ存在自体が書かれていないため登場しない。

場面B:園子、光子が引き続き関係を構築し続ける中、綿貫の存在が明らかになる。綿貫は、光子が自分より園子を愛しているのではと疑い続けている。場面B冒頭の綿貫と園子が初めて出会った着物の事件の時も

「いかにも自分は光子さんの恋人や云う顔つきして、いろいろなこと私にカマかけて聞いてしもた」(P.161)

ことが後に明かされる。じきに綿貫が、他の登場人物のことを証文などの書面を用いて思い通りに繋ぎ止めようとしていくのも、その人物を繋ぎ止めたい強い気持ちの表れ、つまりパッションの表れである。
柿内はやはり、まだパッションを見せていないために登場しない。

場面C:園子と光子との結びつきは続きつつ、新たに柿内が加わり、三人で一体となって強く結びつく。

園子と柿内は、光子の薬により生きているのか死んでいるのかわからないほどになるにつれ、つやつやしい血色の光子の姿に

「太陽みたいに輝いて見えて、どんなに頭疲れてる時でも光子さんの顔さい見たら生き返ったように」「ただそれ一つ楽しみに命つないでいる」(P.227)

と反応しており、美しい姿を見せて欲求を満たしたいパッションを持つ光子には最高の環境だ。
また、美しいものが大好きな園子にとっても、薬の問題はあれど欲求は満たされていると考えられる。柿内も、光子に従うことでパッションを表出し、光子のパッションと結びつくことができている。
登場しない綿貫は、場面Bの最後の時点で光子と証文を交わせず、園子、柿内との証文もまともに結べていないため、園子、光子、柿内の中ではパッションの向けどころが無い。よって、最後の場面Cでは登場のしようが無い。

それぞれの場面において大切なのは、パッションを持っているか否か、それを出せるか否かだといえます。その場においてパッションを出せなければ、あるいは出せる環境が無ければ、他の人物と繋がることができず、その場面には現れない。そのような基準で見ていくと、主要人物4人が同時にパッションをもって出会うことは出来ないのです。

2. 同時に登場しない四人とパッション
本節が第二章から第四章までのまとめです。
ここまで「卍」の4人の主要人物、園子、光子、柿内、綿貫が、物語内で一度も同時に登場しないことに着目し、その理由と4人が同時に登場しないことでもたらされる効果を考察してきました。

4人が同時に登場しないのは、全員が同時にパッションを持てる場面が存在しないからです。パッションは寂しさを根底にして生まれた他人を巻き込む感情であり、4人はこの感情を各々の方法で表出することで他人と繋がっています。4人が同時に登場しないため、登場人物別に分けたそれぞれの場面において、別の世界が生み出されることになりました。
そして、4人の内部には寂しい感情が蔓延しており、4人のうちの3人、つまり奇数の人数で場面が進行すると、寂しさが元となり生まれたパッションの衝突が生まれます。しかし、お梅の存在が加わると、お梅が内部の登場人物や内部と外部の間をつなぐ役割を果たし、衝突を避けられます。

園子、光子、綿貫については、タイミングごとに強弱はあるが性格は一貫しており、パッションを表出し続けています。しかし、柿内だけはパッションが無いと言われ続け、光子との行為の後に初めてパッションを見せるようになります。
綿貫は、最後の場面での間接的な影響力が特に強く、柿内が綿貫化したり、光子が柿内を綿貫化させるようになったりといった影響を及ぼします。結果、光子が園子と柿内に毎晩薬を飲ませ、園子と柿内もそれを受け入れるという、より激しいパッションのぶつかり合いが起きています。

以上を踏まえると、この物語は、パッションによる結びつきやぶつかり合いに焦点を当てた物語だと言うことができます。よって、パッションを感じられない人物は削られるか、物語の脇役としてパッションのある者の引き立て役に利用されます。
4人が同時に登場しないのは、物語内の熱をより一層高めるためであったのではないでしょうか。

第五章 パッションに覆い隠された読み

第二章からこれまでに見てきた議論は、パッションに結びつくものでした。それを踏まえて最後に、パッションが覆い隠すものについても考察を加えてみます。
物語がパッションに覆われているというのは、あくまで園子が語る世界におけるもので、登場人物のこれまでの評価も、ほぼ園子の語りを通して見えたものばかりです。ということは、園子の価値観、つまりパッションによって見えなくなっている物語も当然あるはず。
本章では、柿内と園子との夫婦関係と、綿貫と園子が兄弟契約を結ぶ場面とで、パッションに覆い隠された読みの発見を試みます。

1. 園子と柿内の夫婦関係
柿内と園子との夫婦関係は良いものとは言えません。本文にて、園子と柿内が合わないことは園子によって繰り返し語られています。
園子は寂しさを埋めるために柿内と離れませんでしたが、柿内は、光子と行為をする前まではパッションが無い人間とされています。物語内ではパッションが無いために特に注目されず、園子への気持も冷めていると捉えられています。だが、柿内は本当にただの冷めた人物だといえるのでしょうか。2人の夫婦関係に焦点を当てながら分析します。

ここで、2人の関係を『恋愛依存症の心理分析』という書物を用いて分析していきます。恋愛依存症は恋愛依存症者と回避依存症者との結びつきによって起こるという内容が書かれています。以下に説明をまとめます。

恋愛依存症者:恋愛感情を抱いている他者に依存、束縛することに脅迫的なまでに集中する人のこと。見捨てられる恐怖の強さゆえのもの。しかし、実は無意識に親密さに恐れを抱いているため、面倒をよく見てくれるが対等に付き合ってもらえない回避依存症者を相手に選ぶ。
回避依存症者:相手と親密すぎる恋愛関係を築くことに恐れを抱く人のこと。そのため、恋愛依存症者に対等ではなく保護者のように接し、相手の優位に立つ。そして相手と関係のないものに執着することで相手と距離を取ろうと努め、相手が距離を縮めすぎると縁を切ることもある。が、相手に見捨てられる恐れを大抵は無意識に抱いている。

恋愛には恋愛依存症者同士、回避依存症者同士の繋がりもあるが、恋愛依存症者と回避依存症者の結びつきは基本、一方がもう一方を追いかけるネガティブな感情にまみれた状態が続き、両者が向き合った瞬間のみポジティブな激しい感情を感じる。

『恋愛依存症の心理分析』(ピア・メロディー ミラー&ミラー著 水澤都加佐訳 大和書房 2001年)

「卍」に当てはめれば、パッションを持った人物が、ちょうど恋愛依存症者の特徴に当てはまる人物といえましょう。
園子と柿内の関係は、園子がいつも柿内を振り回し、柿内が保護者のような立場から見守る関係です。例えば、〈その八〉の場面においては、柿内が園子に光子との関係を問いただすと、園子は強情を張ります。対して柿内は穏やかに

「万が一そんなこと世間い聞えてみいな、あの児よりお前の方が責任あんでエ」「お前だけやない、僕かって黙って見てた云われたら、後日になってどないにも云いようない」(P.58)

と言います。よく見ると柿内が園子と対等の立場からではなく、保護者のような立場から発言しているのがわかります。
園子は光子と恋愛依存症者同士の関係を持っているため、柿内に対しては一見冷たい態度を取っているように見えますが、定期的に柿内に献身的になります。第二章では寂しさゆえのものと論じましたが、恋愛依存症のパターンとして見れば、寂しさを持っているがゆえに、放っておくと関係が切れかねない柿内を振り返らせるためのものといえます。実際、柿内は園子が献身的に尽くしてくれることに喜び、園子との関係は束の間のみ良好となります。
このような関係を概観すると、園子が恋愛依存症者、柿内が回避依存症者であるといえるのです。

柿内は光子との行為を経験すると、他の登場人物と同じような、すなわち恋愛依存症者のような言動をするようになります。が、実は行為の前にも既に、理性を働かせているはずの会話の中に片鱗が見えていました。以下は、園子に灰皿を投げる喧嘩になった後の柿内の発言です。

「ただあの光子いう児とは今後交際せんといてくれ」「それがイヤやったら交際するだけは仕方ないよって、あの児をこの部屋い入れたり、二人だけで何処やかし行かんようにしてくれ。そんでこいからは家出るにも帰るにも僕と一緒にするようにしてくれ」(P.63)

柿内も他の登場人物と恋愛依存症に陥っていることに変わりはなく、実は園子と柿内の関係も、合わない、冷めているものではなかったのです。むしろ互いに、様々な問題が起きても2人の関係から抜けられない心理状態に陥っていたのです。柿内が冷たい人物のように思われていたのは、柿内の感情の動き方が他の3人と違ったためにすぎません。

2. 綿貫と園子の契約
これまでに、綿貫は虚栄心が非常に強く、性的欠陥を隠すことで「男」の立場に固執している人物であるとまとめてきました。また、自らの立場の確保のためにパッションを押し出し、人を証文で繋ぎ止めようと躍起になっている人物像が浮かび上がりました。
しかし、綿貫がパッションにより行動する人物であると評価するがゆえに、綿貫の別の思考を見落としてはいないでしょうか。綿貫と園子が証文で契約を結ぶ〈その十七〉から〈その二〇〉までの場面を分析し、考察します。

この場面では、園子の前に突然現れた綿貫が、綿貫と園子のどちらが光子に愛されているかという話を始め、光子は本当に妊娠しているのかという話に発展します。光子から妊娠は狂言であったと聞いている園子は、光子が妊娠しているという前提で話を進める綿貫に疑問を抱きます。園子は光子の妊娠について、初耳であるとだけ伝えますが、綿貫は一生懸命にこう言い張ります。

「何で子供出来る筈ない云いましたか、あの本の通りを実行してる云うのんですか、そやなかったらそんな体質や云うんですか」(P.126)

この場面での綿貫の態度は、後の場面で綿貫が性的不能者である事実が判明することにより、性的不能が園子に知れたと勘違いし焦ったものと解釈されています。しかしこれは、あくまでも園子の視点に沿ったパッションに基づく解釈にすぎません。次の園子の発言をもとに、綿貫のこの場面での思考を分析し直してみましょう。

「なあ、お姉さん、何でそないに妊娠したいうこと隠すのんでしょう? 殊にお姉さんにまでウソつかいでもよろしいやありませんか? ほんまにお姉さん知りやはれしませんのんか?」いうて、何や疑うてる様子で、何遍でも念押すのんですけど、ほんまのとこ私は聞いたことあれしません。綿貫の話ではもうちゃんと三月ぐらいになってて、お医者はんにも見てもろた云うのんですが(P.126)

綿貫の話では、光子は妊娠3か月で、医者にもかかっていることになっています。綿貫は、もし自身の性的不能を隠すために光子が妊娠したことにしているのならば、実際には光子が妊娠するわけがないと確信しているはずです。光子が妊娠した前提で話を進めるのは、あくまでも演技です。
にもかかわらず、光子は妊娠していないのではと園子が言うと、慌てて「何でそないに妊娠したいうこと隠すのんでしょう?」「殊にお姉さんにまでウソつかいでもよろしいやありませんか?」と発言します。「隠す」「ウソつかいでも」という言葉がいささか不自然ではないでしょうか。綿貫はなぜ、園子が光子の妊娠を「知らない」ことについての発言ではなく、光子が園子にまで妊娠を「隠した」前提での発言をしたのでしょう。

実はこの場面は、綿貫が、光子が本当に妊娠した可能性を考えたと仮定すると、違和感なく読み解けます。
もし光子が本当に妊娠したとすれば、光子は性的不能者の綿貫とは別に、性的欠陥の無い男性と関係を持ったことになります。つまり、綿貫でも園子でもない相手が存在することになり、しかもその相手は、園子にも言えない相手です。すなわち、柿内と光子が関係を持ったと予想できるのです。
なお、園子に嫉妬心を燃やし続けていた綿貫が突然、園子と「きょうだいの約束」をしようと言い出したのも、他の男に光子を取られるくらいなら、女の園子と2人で一緒に光子を愛そうとしたからでしょう。

綿貫は、光子を他の男に取られないように誓約書を交わすのだと主張します。その点は綿貫の本心ではありますが、内心ではさらに、誓約書は柿内という特定の男を意識した上でのものと考えていたのでしょう。後にその誓約書を柿内に見せに行くことからも裏付けられます。
綿貫は、自分の性的欠陥を隠したいという虚栄心ばかりで行動していた人物とは言えないのです。

第五章まとめ
本章では、パッションにとらわれて物語を読むと隠されてしまう読みの発見を試みました。物語全体がパッションによる結びつきやぶつかり合いに焦点を当てている以上、パッションに覆われた読みを見つけ出すのは困難を極めます。
しかし、登場人物の言動の細かい部分にはパッションが覆いきれなかったものが残されています。それらを拾い集めれば新たな読みの発見が可能であることが、本章の分析によって示唆されたのではないでしょうか。

終章 パッションに覆われた世界がもたらすもの

本論でのこれまでの流れを整理しましょう。

第一章では、「卍」の地の文における、語り手園子と聴き手〈作者〉との関わり方を分析しました。地の文の構造は物語の客観性を失わせ、園子の身に起きた事件の真相が覆い隠す構造だったため、この物語においては、事件の真相以外に読むべきものがあるのではないかという疑問が浮かびます。
第二章から第五章までは物語内容に着目しました。第二章から第四章までは園子、光子、柿内、綿貫の4人が同時に登場しない理由を探り、この小説において読者が見せられているものは、事件の真相の真偽ではなく、パッションによって結びつけられた人々の動きだったのではないかと考えます。
これを踏まえ第五章では、パッションにより逆に覆い隠されたものもあるのではないかと考え、分析しました。そこで、パッションにとらわれなければ新たな読みの可能性がさらに広がることを確認しました。

さて、園子の事件がパッションに着目して小説化されたことは、良い効果を生んだのでしょうか。
〈作者〉がパッションに焦点を当てた大きな狙いとして、考えられることは2つあります。

・煩雑に語られる園子の物語を、まとまりのある物語として描き上げるため
・園子の語りを、小説として一層おもしろい物語にするため

第四章から第五章までで確認した通り、パッションにより、物語内では、強調されるものと覆い隠されるものが明瞭に分けられました。
園子の情感を強調し、園子の語りをパッションに満ちた物語として一貫させ、盛り上がりのある小説に仕立て上げたと考えると、パッションの強調は成功であったといえます。さらには、パッションに覆い隠されるものが一層読者の解釈を広げ、想像力をかき立てる効果も生まれました。
強調したものが新たな解釈を生むだけでなく、隠した部分の隠しきれていない断片から、さらに解釈が生まれます。その解釈は、園子の視点、園子が経験した事件の真相を離れた、自由で多様な解釈です。パッションは物語を盛り上げるだけでなく、1つの事件を、小説として多様な読みのできる物語に作り替えたのです。

パッションに焦点を当てた物語が読者に見せるものは、園子と光子の熱い恋愛です。園子と光子の恋愛は同性愛であり、物語内の世間では良くない目で見られる恋愛ですが、パッションは園子と光子の熱い恋愛を強調し続けます。恋愛の形は、恋愛関係にある両者が持つパッションにより覆い隠されるからです。
もし、両者のうち一方だけでもパッションを持っていなければ、恋愛の形は覆われません。光子と綿貫の関係において、光子が綿貫に愛想を尽かせたときから綿貫の性的不能が取りざたされるのが良い例です。園子と光子の場合は互いにパッションを持ち続けているため、恋愛の熱さがひたすらに強調されます。

また、パッションが機能するためには、事件の真相が、物語構造の面でも厳重に覆われる必要がありました。登場人物の言動の真偽すらもわからない事件を、園子の語りで覆い、語りを聞いた〈作者〉の存在で覆い、さらに〈作者〉の編集で覆う。真相の見えない世界が徹底的に創り上げられているからこそ、読者は園子と光子の恋愛の展開を、恋愛の形などお構いなしに楽しめます。

この物語が描かれている媒体は、園子達の恋愛事件を報道した新聞記事などではなく、小説です。小説の性質上、覆い隠したいものは自由に覆い隠せます。物語の解釈も真偽を問わず、自由に広がっていくのを楽しめるのです。
こうして、新聞記事にまで取り上げられた園子、光子、柿内、綿貫、そしてお梅の間に起きた事件は、パッションに満ちた小説として、物語内外の人々の目に触れながら残り続けていくのです。


本論における「卍」の本文はすべて、谷崎潤一郎『卍』(新潮文庫 2010年)から引用し、ページ数のみを示しています。



あとがき ~数年ぶりに卒論と向き合ってみて~

卒論を記事にしようとして、記事を書き始めたのが2020年5月2日。ひととおり書き上げたのが2021年1月11日。
仕事の休日が大体、日頃の疲れを癒すので終わってしまって手が回らなくて(ただの言い訳)、とんでもない時間をかけていました。実際に掛けた時間はおそらく丸数日分だと思います。

でも時間がかかった理由は他にもありました。自分が卒論に書いた論の穴が、卒論を書いた当時よりもよく見えるようになっていたのです。
記事を書き始める前、久しぶりに卒論を読み返すときには「小説どころか本を読むのもすっかりご無沙汰な今では、卒論を読み返したらきっと『学生の時はよくこんな難しいことを掘り下げて3万字近くも書いたなあ、自分を褒めてあげたい!』と思うのだろう」と思っていました。
でも現実はむしろ逆。本を読んでいない期間の長さのマイナスよりも、ここ数年分の人生経験により養われた思考のプラスの方が大きかったのです。

卒論を読みながらnoteになるべく読みやすく書いていくという作業を続けるうちに、過去の自分が書いたことの支離滅裂っぷりに何度か歯が立たなくなり、ひどいときには数か月頭を冷やして(いや、仕事にかまけていただけ)卒論の内容をまた忘れた頃に再挑戦ということもありました。
でも一応、今回は一介の大学4年生が書いた卒論を見せるという趣旨で書き始めたので、今の自分が解釈を改変することのないようにまとめました。

この卒論を書いた時に評価してくれたゼミの先生は、たしか「細かいところの突っ込みどころは多いけど、事前のゼミ発表で指摘された穴を埋められていて、1年かけてじっくり取り組んだ成果が出ている。おもしろい内容だった」って言ってくださったと思います。
先生はとても褒め上手な人だと、今となっては褒められた当時以上に感じます。

自分でも穴だらけだと思ったくらいですから、読んでくださった方の頭の中は今頃、突っ込みの嵐となっているかもしれません。
コメントでご意見いただければ幸いですが、そうでなくても、この記事を読んでくださった方の数だけ「卍」の様々な解釈が生まれていくのだと思うとそれだけで楽しいです。

高校までのテストとは違って答えがひとつに定まらない問いに向き合い、ああでもないこうでもないと様々な解釈を捻り出し、ゼミの仲間とバチバチに意見を闘わせ、より良い読みを探る。
そんな学生時代の経験は、これまで非常に役に立ってきました。これからもどう生きていっても役に立つと思っています。大学で文学と向き合って良かったなと、いま改めて感じ入っています。

3記事にわたる長い長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。



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