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わたしの卒業論文 谷崎潤一郎『卍』(1)

「文学部?国文学?って何すんの?」「小説読むだけでよくて楽そう」なんて声を、大学時代はしばしば聞いたものでした。
でもなかなか、そんな声に対して「これが自分のやってきた学問だ!」とズバリと返すのも難しいんですよね。実験して数値を出し分析する学問でもなく、卒業すれば仕事に直結する資格が取得出来るわけでもなく。

そんな中、大学時代に知り合った先輩(実はかなり憧れの先輩)がnoteにこんな記事を投稿されました。

先輩と知り合ったのはサークル内でしたが、たまたま同じ学部学科の別のゼミ出身でして。
上の記事をきっかけに先輩と「別のゼミの卒論を読む機会がなかったから興味深い!」と盛り上がったため、自分の卒論も多くの人が読みやすい形に書き直して投稿しよう。と決意しました。
いろんな人の卒論を読んでみたいから自分もというのと、大学で自分がテキトーに遊び惚けていたのではないことの証明のためですね(笑)

ただ、私が取り上げたのは村上春樹のような現代作家ではなく、谷崎潤一郎という近代の「ド変態」作家の作品です。『細雪』などは立派な文学作品として作品名を記憶する方も少なくないでしょうが……若いころの作品は「ド変態」。
「ド変態」ってどういうことかというと、当時「変態性欲」とされていた要素を取り上げた作品をたくさん書いているんですよね。当時の「変態」の語には、現代でいう「変人」という意味合いも含むと思ってください。
で、卒論で取り上げた作品『卍』は、発表当時(昭和3年~5年)には「変態」とされていた同性愛が取り上げられています。さらに性的不能者も登場しており、そのようなものに触れるのを良しとしなかった(検閲で止められるレベルだったらしい)当時としては、とても先進的な作品です。

なのでこの小説、変わった小説だよね~という前提で研究されがちです。でも今を生きる私としては、同性愛や性的不能者を特別視する気が起こらない。では、当時の日本の事情、なんなら現代の日本にもあるようなジェンダー的な偏見を捨て去って、あくまで完成された小説の中に描かれる世界観のみに基づいて『卍』を読んだらどのような解釈ができるのか。
こんな動機から、私は谷崎潤一郎『卍』を研究することに決めました。

結果、論文では「物語の真相がわからない」というところに着目しました。真相が意図的に隠されまくっていることを指摘して、隠されていることでどのような効果が出るのかという話を、小説の構造の面からもストーリーの面からも分析していく感じです。

といっても地元以外では名の知れない大学の卒論なので、レベルはご容赦ください。気になる点や感想はどんどん言っていただけたら嬉しいです。

以下、卒論のタイトルと目次を示した後、卒論内容をなるべくわかりやすく綴っていきます。
実際に『卍』を読んでもらうとより面白いと思うので、時間のある方は是非読んでみてください。青空文庫で検索すれば誰でも無料で読めます!
小説内の関西弁の語りに慣れるまでは読みにくいかもしれませんが、リズムがつかめてくると心地良く読めるかと思います。

※ただし官能的なシーンや過激ドロドロ四角関係?が描かれていますので、苦手な方はご注意下さい。


タイトル
パッションに覆われた世界がもたらすもの ―谷崎潤一郎『卍』論―

目次

(1)
序章 谷崎潤一郎「卍」について(上に大体書いたので割愛します)

第一章 語り手園子と聴き手〈作者〉の関係性
1. 園子の語りの小説化
2. 「作者註」からみる〈作者〉像
3. 園子と〈作者〉が共存する意味

(2)
第二章 一堂に会することのない主要人物
1. 主要人物の関わり
2. 四人の運命を握るお梅
3. 「卍」に蔓延する感情とその効果

第三章 柿内と綿貫
1. 柿内と綿貫の性格の違い
2. 柿内の変化
3. 綿貫が物語に与える影響

(3)
第四章 蔓延するパッション
1. パッションによる結びつき
2. 同時に登場しない四人とパッション

第五章 パッションに覆い隠された読み
1. 園子と柿内の夫婦関係
2. 綿貫と園子の契約

終章 パッションに覆われた世界がもたらすもの

〔(1)(2)(3)は、note記事での分割箇所を示します。〕


第一章 語り手園子と聴き手〈作者〉の関係性

『卍』は、主人公である園子が自身の体験を語り、それを「先生」と呼ばれる〈作者〉(谷崎ではなく、物語内での作者)が小説化したという形で書かれています。
この小説の特徴は、
・地の文が全て園子の語り口調のままで書かれていること
・小説化したはずの園子の語りの合間に〈作者〉が存在を現すこと
が挙げられます。
さて、このような特殊な書かれ方をした小説には、どのような効果があるのでしょうか。また、園子の語りは〈作者〉によってどこまで忠実に再現され、どれほど編集されたものなのでしょうか。

1. 園子の語りの小説化
ここでは、園子の語りが小説化された経緯と、その小説が園子の語りで書かれたことによる効果を確認します。

まずは園子の語りが小説化された経緯から。
園子は冒頭で〈作者〉に語り始めるとき、本来は自らの経験を自らの手で小説のようにまとめたかったが、どうまとめたらよいか見当がつかなかったため〈作者〉に語ると打ち明けています(P.5)。
〈作者〉は小説家であり、園子が「先生」と呼び信頼を置く人物です。これは園子と光子との会話で、園子が「先生」に様々な相談をしていることを話し、光子が「自分も先生の小説とても好きやよって」と反応していることからわかります(P.32)。

つまり、園子は自分の経験を小説化したいと考えたが自分の手では力が及ばなかったため、小説家である〈作者〉に経験を打ち明け、〈作者〉が小説化してくれることを暗に期待したのではないでしょうか。
結果、園子の経験は〈作者〉の手によって小説化されることになります。

ですが〈作者〉が書き上げた小説は、地の文が全て園子の語りで書かれていました。では、それにより小説にどのような効果が生まれるのでしょうか。
先行研究を基に、大きく3つの効果を取り上げます。

①園子の語りにおける、自己の感情の反復を表現する効果

「園子の語りの意図は、事件を再解釈して真相を探ることにではなく、事件そのものを、あるいは事件の展開に即したその時その場での自己の感情を、語りという行為の内部に反復することにあるように思われる」

(金子明雄「近代小説における〈語り〉の問題――谷崎潤一郎『卍』を手がかりとして」『物語から小説へ』岩波書店 2002年)

⇒園子の語りを地の文に生かすことで、園子の感情の反復を小説上に表現できる。

②園子の経験の中で起きた事件の真相が覆い隠され、小説の読者が真相を求められなくなる効果

物語に「様々な解釈の可能性を残しながら、読者を決して抜け出ることのできない迷路へ引きずり込む」

(大畑智美「『卍』(まんじ)論」『梅花短大国語国文』第九号 1996年10月)

⇒①により物語内に園子の主観的判断が含まれる可能性が生まれ真相が覆い隠されるため、真相を求めようとする読者は迷路に引きずり込まれる。

③小説内に〈作者〉が介入する余地を生む効果

園子は〈作者〉に語っているため、語りの内容は「必しも読者にわからない語り方でも良い」

(鳥居邦朗「方法としての<語り> ―「卍」を中心に」『国文学 解釈と教材の研究』二三巻一〇号 1978年8月)

⇒小説が園子の語りで書かれれば、本文に「補足説明します!」という名目で〈作者〉が登場することができる。

以上の3つの効果のうち、①②は感情を読者にはっきり見せて解釈の可能性を広げる(真相は覆い隠される)効果につながると考えられます。
では、③の効果はどう作用するのでしょうか。

2. 「作者註」からみる〈作者〉像
〈作者〉は小説内に、「作者註」を括弧内に挿入する形で12回登場します。
「作者註」と言うくらいですから、園子の語りの補足説明を客観的に入れてくれる存在であるのはもちろんですが(卒論では例を引用しましたが割愛します)、〈作者〉はそれにとどまらない「作者註」も挿入します。

作者はこれを見て少からず驚かされた。けだしこういうケバケバしい封筒の趣味は決して東京の女にはない。たといそれが恋文であっても、東京の女はもっとさっぱりしたのを使う。彼女たちにこんなのを見せたら、なんてイヤ味ッたらしいんだろうと、一言の下に軽蔑されること請け合いである。男も彼の恋人からこういう封筒の文を貰ったら、彼が東京人である限り、一朝にしてあいそを尽かしてしまうであろう。(P.43-44)

この「作者註」では、〈作者〉が東京の人間の感覚で、関西の人間の好みを否定しているのがわかります。〈作者〉のバイアスが見えますね。
もうひとつ、別のパターンの「作者註」を紹介します。

ここにその手紙のうちからこの物語の真相を知るのに参考になるものだけを引用するが、ついでにそれらの模様についても、一つ一つ紹介するであろう。思うにそれらの意匠の方が時としては手紙の内容よりも、二人の恋の背景として一層の価値があるからである。(P.44)

そして何より無気味なのは、署名の下に小さな花弁を押したようにひろがっている茶褐色の斑点であって、同じものが半紙の綴じ目の割り印を捺すべき所にも二つぽたぽたとにじんでいる。それが何であるかは未亡人自らが語るであろう。(P.139)

これらの「作者註」からは、〈作者〉が小説内で、園子から得た情報を取捨選択したり、園子の語りを予告して盛り上げたりしていることがわかります。
園子の語りはどうやら丸写しされているのではなく、〈作者〉が編集を加えているようです。「作者註」にバイアスがかかっていることも踏まえると、「作者註」にも真相を覆い隠す役割があるようです。
とすると、〈作者〉は「作者註」をあえて小説に書くことで、事件の真相を一層謎に包まれたものとして演出しているのかもしれません。

3. 園子と〈作者〉が共存する意味
小説の構造上、園子と〈作者〉はどのような関係にあるのか、地の文に園子と〈作者〉が共存することにどのような意味があるのかを考えます。

まずは先ほど浮上した、園子の語りに〈作者〉が編集を加えている説について、どの程度の編集を加えているのかを考え、園子と〈作者〉との関係性を考察します。
ここで2つの先行研究を見てみます。どちらの論も、園子が小説化を意識して語った(つまり物語を編集して語った)とする部分は共通していますが、〈作者〉が園子の語りにどの程度介入したかで論が割れています。

『卍』のテクストにおいて、園子は確かに《作者》に語っているのだが、それは単に個人として語っているのではなく、あくまで物語の語り手として語っているのである。この《作者》に向けられた作中人物としての園子の語りと、それを読者に向けて再構成する「作者」の言わば透明な語りの二重構造が『卍』のテクストの一種多層的な複雑さを作り出している。

(大野晃彦「谷崎潤一郎『卍(まんじ)』における一人称の語りの機能と自由間接話法」『慶応義塾大学言語文化研究所紀要』四七号 2016年3月 (P.267))
こと語る技術において彼女は絶妙のストーリーテラーといえるだろう。(中略)ここでの「作者」には小説家の技量を発揮する必要はほとんどなく、園子の物語の忠実な記録者に徹しながら、「註」でさりげなく「柿内未亡人」と呼んで事件の結末を読者に示唆したり、「『徳光光子』の名を云ふ時、その顔は不思議に照り輝いた」と書いて園子の心情をわきから補強したりという程度に介入しているにすぎない。

(清水良典「『卍』――〈声〉のパノラマ」『国文学解釈と鑑賞』六六巻六号 2001年6月 (P.106))

前者が、園子も〈作者〉も物語を編集したとする論。後者が、園子が物語を編集し〈作者〉は記録や補足をしたのみとする論。どちらの論を取るかにより、〈作者〉が物語に影響した度合いが大きく変わります。
本論では結果として前者の説をとりました。理由を2つ挙げています。

①園子は冒頭から「あんまりこんがらがって」いる事件を整理しきれずまとめられなかったため、自らの手で小説化できなかったと言っているから。整理できていないならば、流暢に、時に話をうまく前後させながら巧妙に語ることを、事件を整理しきれなかった園子の語りのみの効果とするには無理がある。
②〈作者〉が園子の語りを一言一句忠実に書き起こすためには、園子の語りを録音もしくは速記しなければならないが、どちらの手法も考えにくいから。作品内の時代背景を見る限り〈作者〉が録音機器を所持しているとは考えにくく、速記の技術を持っていたとするのも無理がある。また、園子が〈作者〉に信頼を寄せて語る場面に、第三者の速記者がいたとは考えにくい。

というわけで、小説化された物語においては、園子の語りには〈作者〉の編集の力も大きく働いていたといえます。誤解を恐れずに言えば、園子と〈作者〉の関係は、現代において芸能人がゴーストライターの力を借りて告白本を出版するときのような関係だったのではないでしょうか。園子も読者を意識して〈作者〉に語り、〈作者〉も園子の話をより良い形に編集して小説化したと。

第一章まとめ
本章でわかったことは、この小説は園子の語りと〈作者〉の編集との両方が、小説の編集に力を発揮したことです。結果、事件の真相を覆い隠す効果が重ねられ、事件の真相はますますつかめなくなります。
しかも、園子の語りの採用や「作者註」を挿入するという編集は、全て〈作者〉が意図的に行ったことです。意図的に行った理由は何でしょうか。
ひとつは始めから挙げている、事件の真相の解釈を広げるという理由が考えられます。一方で、事件の真相はどうでもよいという〈作者〉からのメッセージを受け取ることもできるのではないでしょうか。

この小説において肝心なことが、事件の真相ではなく他のものにあるとしたら……という視点を踏まえて物語を読み直すと何が見えるのでしょうか。
次章より、物語内容を分析していきます。


〔(2)に続く〕

本論における「卍」の本文はすべて、谷崎潤一郎『卍』(新潮文庫 2010年)から引用し、ページ数のみを示しています。



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