歴史の生んだ核

この本文は、戦争について同級生有志でまとめた文になります。すべてを亜鉛が書いたものではありません。

太平洋戦争までの流れ

①満州事変

満州事変とは簡単に言うと、日本が満州(現在の中国北東部)を植民地化したことである。

1.張作霖暗殺事件

日本は満州で、満州の政治家であった張作霖(ちょうさくりん)を利用して力を強めようとしていたが張作霖は日本に協力的ではなかったので、1928年日本軍は張作霖の乗っていた列車を爆破させた。(↓その時の電車)

2.柳条湖事件

1931年9月18日、日本の支配下に置かれていた満州の柳条湖(りゅうじょうこ)に爆弾を仕掛けて満州を通っている南満州鉄道の線路を爆破させた。


日本はこの2つの事件を中国の仕業だと嘘をつき、満州を占領するための戦いの理由を作った。結果的に満州を占領し、「満州国」を建国した。この一連の流れを満州事変という。


3.リットン調査団

中国はある2つの観点から日本軍の自作自演ではないかと見破った。1つは柳条湖事件で鉄道を爆破したが、爆破後も列車にあまり損害はなく列車が走れるほど小規模のものだったことである。もう一つは柳条湖事件後の日本軍の対応が迅速すぎて不自然だったことである。

これらにより中国は国際連盟に事件の真相の調査を依頼した。しばらく時が経って12月。国際連盟は調査団の派遣を決定した。そして来年の2月、リットンという人を団長とするリットン調査団が派遣された。

4.国際連盟脱退

1932年10月1日、リットン調査団は調査結果を国際連盟に報告した。国際連盟はこのような事件があったため、満州国を日本が持つことを禁止した。同年12月、日本は国際連盟の総会で「国際連盟が満州国を認めないのなら、日本は国際連盟を脱退する用意がある」と脅したが、1933年3月に日本は国際連盟を脱退した。

②日中戦争

1.盧溝橋事件

1937年7月7〜8日の盧溝橋(ろこうきょう)事件が発端となった。

日本軍は盧溝橋(中国)で夜間演習を行っていた。その時に実弾を発砲する音が聞こえた。日本軍は実弾を用いての演習はしなかったので、中国による攻撃だと判断した。日本軍は点呼を取ると一人兵士が足りなかったので中国軍に撃たれたと思い銃撃戦に発展した。

※足りなかった兵士はこのときトイレにいた。

この盧溝橋事件はすぐに終息したが、中国全土が混乱状態で情報が伝わりきらず各地で軍事衝突が起こり日本と中国の戦争が始まる。(日中戦争)


③ABCD包囲網

日中戦争が予想以上に長期化して日本は軍事用の物資が不足したので、資源を確保するために東南アジアに進出した。日本に対抗して経済的に締め付けるためにアメリカ、イギリス、中国、オランダの4カ国が形成した封鎖網のことをABCD包囲網という。この名前は、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)の4カ国の頭文字から来ている。また、この言葉は日本政府が危機感をあおるために作った言葉である。これによって日本は資源供給を中止された。

日本はもう一度資源の供給を求めてアメリカに交渉したが、日本は断られたため太平洋戦争のきっかけとなる真珠湾攻撃に繋がった。

④ハルノート

ここでは、日本がアメリカに交渉した時のことについて少し詳しく説明しようと思う。

アメリカのハル国務長官は日本の交渉に納得できないとして1941年11月26日、駐米大使の野村吉三郎とその補佐役の来栖三郎(くるすさぶろう)を呼び出してハルノートを提示した。

その主な内容であるハル四原則は次のようなものである。


①あらゆる国家の領土保全と主権を侵害してはならないこと

②他国の国内問題に関与してはならないこと

③通商上の機会や待遇で平等を守ること

④紛争を防止し平和的な解決ができるように、国際協力をすること

アメリカはハルノートを「平和的解決案」のつもりで提示したが、日本からすると「アジア情勢を満州事変以前のものに戻せ」と言われているようなものであったため、日本とアメリカとの戦争に発展した。

戦争の一部始終

開戦

 昭和16年12月8日、ラジオから全国民に向けて「西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり」と、放送が入った。近衛文麿前首相の交渉も虚しく、日本は対英米戦に突入した。また、情報流出を避けるためにたいして当たっていなかった天気予報が消えた。

 開戦の時に活躍したのが海軍航空隊だ。(昔は空軍がなかった)それぞれの中学校で優秀な者たちが「予科練」と言われる学校で訓練し、たくみな操縦技術と超人的な精神力でアメリカ人を圧倒した超・スーパーエリートだ。

 開戦から一週間後には呉で戦艦大和が完成し、年が明けるとマニラ、シンガポール、ラングーンを占領。ラウバル、ジャワ島、ニューギニア島に上陸し、千六百以上の敵機を撃墜した。これはいいかえると千六百以上の航空機を敵が保有していたことを示している。開戦前の海軍内では真珠湾を艦砲射撃すべきという艦隊利用派と、航空機を使うべきという航空推進派の意見が真っ二つに割れていた。結果的に航空機による攻撃で成功したわけだが、これを強硬に主張したのは山本五十六だったりする。(真珠湾には油槽タンクが4つあり、二回の攻撃でふたつのタンク群を破壊することに成功し、残りの二つも今行けば確実に叩けるという状況なのに山本五十六が攻撃を中止したという話はまた後で。)もし山本五十六の意見が採用されなければ、艦砲射撃のために接近した連合艦隊は敵機によってあっという間に撃沈されていただろう。

 そんなこんなで戦勝ムード一色の日本であったが、開戦から4か月後の4月18日、東京・名古屋・神戸をアメリカ陸軍の航空機が空襲した。これが初めての本土への攻撃ではあるが、この時は各都市に数機が飛来しただけだった。この空襲を当時小学校6年制だった妹尾河童さん(本名妹尾肇)は自身の著書の中で「遠い南方のことだと思っていた戦争が急に身近に感じられるようになった。消防士だった父から、次来たときは何十機もの大編隊でやってくるから、バケツリレーが役に立たないことを何度も言い聞かされた。」と書いている。

ミッドウェー海戦

戦闘準備

 日本がイケイケで戦線を南へと進めつつも、戦局が落ち着いた1942年5月頃。広島県にある呉海軍基地において、重要な演習が行われていた。演習と言っても海の上ではない。机の上で行う、机上演習であった。

 東南アジアの島しょ部の大部分を手中に収めた日本軍は次にハワイの西にあるミッドウェーに狙いを定めた。そしてその総司令官に任命されたのが南雲忠一中将(中将は、海軍の階級で元帥、大将に次ぐ三番目のクラスだ)。南雲中将はロンドン海軍軍縮条約に反対、山本五十六はきらい、階級を重視するという「面倒くさい」人物であったことは間違いない。ただ、出張に行った際に随行した者が禁煙、禁酒の者であれば、酒豪でヘビースモーカーであった自身も我慢するなど、人情に厚い(?)ところもあったようだ。

 その机上演習は日本側とアメリカ側に分かれて、ミッドウェー海戦用として日本側が用意した作戦に対して、アメリカ側の反撃を予想して対抗するという方法がとられた。大砲などの命中率はサイコロをふることによって決められた。しかし、日本軍に爆弾が次々と命中、旗艦であった空母赤城を失うなど、結果は散々だった。ここでなんと審判役の参謀が「アメリカの爆弾命中率を今の結果の三分の一とする、と言ってしまったのだ。これによってミッドウェー海戦における日本海軍の作戦の穴は隠されてしまった。にもかかわらず、ついに昭和17年5月27日、日本海軍空母機動部隊はミッドウェーに向かって出撃。

拙い作戦

日本軍が魂こめて作った作戦は、以下の通り。※艦砲射撃→航空機部隊による爆撃

 一方そのころアメリカは、日本本土から艦隊に向けて発信された作戦に関する暗号を解読し、作戦の全容を把握していた。ミッドウェー基地の対空装備を大幅に増強し、艦隊攻撃用爆撃機、通称‘‘艦爆‘‘要員を55機にするなど。さらに周辺の海域を警戒監視する哨戒機部隊も33機と、攻撃・防御だけでなく監視も怠らなかった。

 6月5日午前1時30分、日本の空母部隊からミッドウェー諸島に向けて攻撃編隊が出撃する。一方で約1時間後の午前2時35分、ミッドウェー航空基地からアメリカ軍の爆撃機が日本海軍の空母艦隊を目指して出発する。この爆撃機編隊は4時過ぎに空母へ到着。日本海軍はただちに戦闘機を発艦させ、「予科練」出身の優秀なパイロットたちは次々と敵機を撃ち落としていった。しかし、背後から「アメリカ海軍空母部隊」が艦隊に迫りつつありました。小さなミッドウェー基地の編隊ではなく、世界一のアメリカの空母部隊が接近してきたのだ。しかも、本来ならミッドウェー島攻略後に対決するはずだった空母部隊。日本海軍側はミッドウェー島に相当数の爆撃機を送り込み、そちらから目が離せない。敵空母部隊の殲滅など無理に等しかった。その攻撃隊も午前3時30分過ぎにミッドウェー上空に差し掛かるも、対空砲火の雨にさらされるだけで有効な攻撃ができないという始末。それを知った艦隊の源田参謀は空母に残っている航空機を第二波攻撃として使うことを進言した。しかし残りの航空機72機には近い将来起こる空母決戦に備えて艦船攻撃に有効な魚雷が搭載されていた。ミッドウェー島を攻撃するにはそれらを地上爆撃に有効な爆弾に交換しなければいけなかった。

 南雲中将は、魚雷と爆弾の積み替えを命令した。だが、ひとつ800kgある魚雷と爆弾をすべて入れ替えるのは骨が折れる仕事だ(物理的に)。艦内はにわかにあわただしくなった。午前5時30分に積み替えが完了し、ようやく出撃できるかと思われたが、偵察隊からアメリカの空母部隊が接近していることを知らされ、艦内はまたも大混乱。それを受けて、南雲中将の下した命令はまさかの魚雷再装填。部下が積み替え中の奇襲を警告したが、戦闘機を使えと一喝。しかし、混迷を極める艦内に出された指示は迷走。格納庫には未整理の爆弾や魚雷で埋まった。午前7時26分、爆弾が詰まっている空母赤城に向けて敵空母部隊の航空団が爆弾を投下、命中させる。本来なら爆弾の一発や二発、大したことはないが今の赤城は爆弾ケース同然。瞬く間に炎上し、爆発することとなった。

その後、空母赤城は沈没し、他にもたくさんの被害が出た。

箸休め-戦争と情報-

少しミッドウェー海戦について長く記してしまったので少しここで箸休めといこう。開戦した年の12月26日、情報局という機関が悪質デマの取り締まり強化を発表した。それから80年。ロシアがウクライナに侵攻した時に、ロシア政府は全てのSNSを停止し、テレビ及びラジオは公式の放送しか流さないという手を打った。私が思うに、ロシア軍側の弱点は慢心と士気の低さだ。それ故、政府もといプーチンは自国の兵による反乱、命令無視を防ぐために行なっていると思われる。軍の中であれば情報の統制は容易だが、家族などから「やめておきなさい」などと連絡を取られると困るということだろう。世界は国際ハッカー集団アノニマスがロシア国営放送の映像を士気を上げるような放送からウクライナで亡くなった子供の映像に差し替えたりするなどの対抗をしている。

このことからわかるように、戦争をする上で一番気を使うのは自国内での情報統制だろう。太平洋戦争前にはアメリカ人スパイが釣りを装って港湾地区の海底調査を行なっていたということもあった。

敗走する日本軍

敵性用語

6月5日のミッドウェー海戦において主力部隊の大半を失った日本海軍は太平洋の制海権を失い、防戦一方の戦いーにすらならず、開戦から半年で得た土地を次々と奪い返され、本土空襲の危険も高まっていた。ここから先、かけるものといえばどこどこの島が取られ、どこどこの地域に敵が上陸し、しか正直書くことがないので敵性用語言い換えについて書く。

敵性用語の禁止は政府が定めたものは少なく、民衆が自発的に定めたものが多いという。例えば野球のストライク、は「よし一本、」など。ちなみにこれは審判がコールする際になれていないことから「ストライク、もといよし一本。」と言い間違えるという笑い話もあったという。

※もとい、とは「あぁ、ちゃうわ」というような意味。

ここで敵性用語言い換えクイズだ。

初級

サッカー・シンガポール・アナウンサー・後楽園スタヂアム

このあたりは簡単だ。順番に蹴球、昭南島、放送員、後楽園運動場。

中級

極東・マッチ・チューリップ・牡蠣フライ・パーマ

順に旭東(極東はヨーロッパ視点の書き方だから。)、当て擦り、鬱金草(うこんそう)、牡蠣洋天、電髪。個人的に牡蠣洋天はツボ。

上級

スタルヒン(野球投手)・サイダー・ハンドル

須田博、噴出水、運転円把。噴出水は新聞でも使用された。


先にも述べたが日本は敵性言語である英語を日本から締め出し日本の精神で勝とうとした。アメリカは日系移民を丁重に扱い(市民などから差別されたが)、暗号解読に役立てた。ちなみに日本軍が作れども作れども解読される暗号に薩摩弁を採用すると、アメリカ軍が解読するまでに二ヶ月かかったそうでごわす。



敗走

日本軍は1943年に入ると後退の勢いを更に加速させた。特に悲しいのが玉砕である。玉砕とは、部隊が全滅するまで戦い散ることだ。アッツ島やサイパン島の玉砕は有名だろう。生き残りはいない。44年に入ると女子挺身隊が結成され、食料増産に学生を動員し始めた。総力戦だ。7月には東条内閣が倒れ、小磯内閣が成立。戦況は依然悪く、レイテ島を奪われ、サイパン島守備隊も玉砕した。よって米軍爆撃機B29の無補給空襲が可能となり、11月に東京に空襲が行われた。44〜45年の年末年始にかけて東海地方で地震が相次ぎ(東南海地震、三河地震)、1月14日には名古屋で大空襲が行われた。疎開が一段落したことで2月に東京発の定期旅客鉄道の切符販売が停止となり、本土決戦への決意を新たにした。3月11日未明に東京大空襲があり、12万人(一日に渋谷センター街を往来する人ぐらい)が死傷した。

原爆開発

ドイツ人科学者・アルベルトアインシュタインはフランクリン・ルーズベルトアメリカ大統領あての手紙の中に、「ウランの核分裂連鎖反応云々(詳細は眞弓先生へ)で、新型爆弾が作られるかもよ」ということが書かれていた。開戦前の39年、日米両国はウランを利用した新型爆弾の開発を始めた。日本もかなり惜しいところまでいったものの、悲しいかなそれを積んだ飛行機はアメリカ領まで飛ぶ前に撃ち落とされるのがオチではある…。ところがアメリカは世界で初めて核開発に成功し、実践投入が決まった。投入方法には次の表の中のようなものがあった。

縦が投下場所、横が事前警告の有無だ。

①、②に関してはただの強めの爆弾ということになり、日本政府に恐怖心を植え付けることはない

③、④なら大量破壊兵器、⑤、⑥なら大量殺戮兵器としていずれも国際法違反となる。

ただ、③であれば事前に住民の避難などが可能となり、大量破壊兵器としないでおくことができないでもない。⑥であれば間違いなく大量殺戮であり、またその意図も明確であるからそれだけ罪は重くなる。

それをわかっていた開発者は警告なしの投下に大反対した。またルーズベルト大統領の急死によって副大統領から昇格したトルーマンも「原爆投下地は軍事施設」の姿勢を崩さなかった。ではなぜ、無警告で市街地に投下されたのか。それはアメリカ政府と軍の対立にあった。政府は国際法を遵守して、戦後社会における地位の維持を重視していたが、軍は完全不意打ちだった真珠湾の報復をしたがっていた。実際に動く軍の意見は大きく、トルーマンは逡巡していた。結果的にトルーマンに決断させた要因は、ソ連の参戦だ。日本が、ソ連の参戦によって降伏したとなれば、アメリカの戦後社会における地位は失墜してしまう。それを防ぐためには、日本側が「アメリカの○○によって」降伏した。と、しなければいけない。そんな都合の良い方法………。

あった。




原子爆弾について


投下後の被害

広島

爆心地付近は鉄やガラスも蒸発するほどの高温であり、その熱風は爆心地から3.5km離れた場所にいた人でも火傷をするほどだった。

被爆者は約56万人と言われており、そのうち約12万人が原爆投下から4ヶ月ほどで亡くなっている。

生き残った人でも、火傷の後遺症や黒い雨(放射性物質)の影響による白血病、甲状腺癌などで亡くなったり、今でも苦しんでいる人がいる。


長崎

長崎市は周りが山で囲まれた特徴的な地形だったので、熱戦や爆風は山によって遮断され、広島よりも被害が軽減されたが、もしも地形が広島と同じく平坦であった場合、広島よりも被害が大きかったと言われている。

原爆投下直後の死者は約7万4000人。また、生存者も広島と同じく後遺症に苦しんでいる。

投下に対する国際世論

日本

「原水爆絶対禁止」が標準的な世論ではあるため、一部政界人が「日本がしたことを思えば(原爆は)仕方がない」という発言をするたびに批判がやまない。

アメリカ

投下を推進した関係者からは「戦争を終わらすためには仕方がなかった」という意見が70年以上たった今でも主流だ。しかし、近年になってアメリカが戦後国際社会における地位を重視したがあまり現代社会において核開発競争が新たな火種を生むこととなったことを問題視する動きもある。

アメリカ陸軍の高官は寄稿した雑誌の中で「原爆を投下せず本土上陸決戦を実行した場合米軍には100万人の人的損失が出たという試算もある。原爆はそれらの損害を食い止めるのに一役買った」としている。しかし人を殺す訓練を受けた兵士ではなく無実の市民24万人がなくなったことを考えると到底容認できる記事ではないだろう。さらにこの100万人人的損失試算には根拠がなかったというのだから驚きだ。

また、広島において数十名の米英兵士捕虜及び在日英米人が被爆し、亡くなったことも忘れてはならない。アメリカ政府は彼らの存在を認識していたにもかかわらず、投下を断行した。


アメリカにおける反対意見

「どんな理由があっても民間人を殺すことを正当化してはいけない。」

ー フーバー米大統領

「必要なかった」

ー アイゼンハワー米大統領

「(投下の知らせを聞いて)激怒した」

ー ダグラスマッカーサー

中国

あくまでも戦争責任は「日本の帝国主義」にあるとしていて、「日本人民」及び「中華人民」は被害者であるとしている。また、戦後に共産党代表によって広島平和記念公園に献花がなされている。ただしその後に毛沢東が核兵器を持つことに興味を示したことで今の日中対立があるとするなら、この問題は非常に根深いものになるだろう。

韓国

政府関係者などから公式の声明が出ているわけではない。ただし『中央新聞』に「原爆は日本に対する神からの懲罰」というコラムが掲載され、日本政府関係筋は記事の取り下げ要求と、抗議を行ったがコラムであれば個人の意見だとして韓国政府関係者及び中央新聞も取り下げを拒否した。また、韓国の『朝鮮日報』が2015年8月14日付の金基哲(キム・ギチョル)文化部次長のコラムにて、日本の原爆被害者への追悼を戦争の加害者であることから目を背けさせる「犠牲者コスプレ」であると非難している。これを読むと、いかに韓国人が他の人のことを考えないかがわかる気がする。


安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから

広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑にはこう刻まれている。この「過ち」は誰によるものか。ある人は原爆を落とされる原因を作った日本を、あるいは原爆投下を決行したトルーマンを。広島市の公式見解では「人類全体の過ち」としている。広島市民全体としては「原爆についてアメリカに謝罪してほしい」という人は少数派だ。全国に目を向けると、「沖縄米兵少女暴行事件などに関して謝罪してほしい」という人が多い。

とあるジャーナリストの持論では、「アメリカの代表としてオバマ大統領(当時)は謝罪すべき。謝罪の必要がないというのはそれだけ戦後生まれの人が増えたということ」と語る。別のジャーナリストは「戦後生まれのオバマ大統領は原爆投下の責任を負う必要はない。それは戦後生まれの安倍晋三首相(当時)にも当てはまる。」という。

オバマ氏の歴史的な広島訪問は、日本が第2次世界大戦において被害者であると同時に加害者でもあったことを、決して無視するものではない。しかし生存する被爆者の多くは、「過ち」が二度と繰り返されないよう努力してきた自分たちの取り組みを補完する訪問になるよう、期待を抱いている。それが誰による「過ち」だったにせよ、だ。




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