言葉を使いたい
高田大介さんの「図書館の魔女」を読んで、“言葉”の底なしの深さを知った。それは、日本語であるとか英語であるとか、はたまた他の国の言語によって言葉そのものに文化があるということに限らない。それを言葉で説明できないのが悔しいような、それこそ言葉の本質であるような気がするが、とにかく私は「言葉を使いたい」と初めて思ったのだ。それは、とても豊かな気付きだった。
私が普段口にしたり文字に書いたりして使う日本語でさえ、「言葉を使う」ことを意識すれば、一言一言、一文字一文字が選択の連続となる。淀みなく言葉を選んでいくことは、生きることと同じだった。私の文体は、以前とは印象が変わったような気がしている。
慣れ親しんだ日本語の世界が広がった一方で、外国語に対する障壁は低くなった。外国語を学ぶというと、私は文法や定型文に沿った文字・声を意識する。正しく明るいそれらは、正直退屈に感じられる。しかし、私が学びたいのは言葉なのだ。言葉は、勿論文法やお決まりのフレーズにもあって、当該の言語の基礎がなければ言葉はいつまでも使いこなせないのだけれど、私達が一般的に言う「外国語を学ぶ」ことに、言葉はないのかもしれない。
言葉には生活が、人が、文化が含まれていて、言葉の奥の文化を想像することができなければ、それはただの文字や声なのだ。
そんな理解の下で、私はハンガリー語と、いずれはトルコ語を学ぼうとしている。ハンガリーの言葉を知ること、トルコの言葉を知ることは、ハンガリーやトルコという国の文化を知ることに加えて、言葉についてより知ることでもあると考えている。単に言語を学ぶという場合と比べると、随分膨大な学びになりそうだが、とても豊かな生き方だとも思う。
あとは、伝えたいことがあればいい。
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