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【エッセイ】【大学受験体験記】解像度が1bit上がるということ

私が受験生だった頃の話です。高3の1月、センター試験の翌日自己採点が終わり、私は国公立大学の出願先に悩んでいました。第一志望は東京工業大学。この大学はセンター試験の点数は足切りにしか使わないため、合否は2次試験のみで決まります。自己採点の結果は8割弱と想定よりはかなり悪かったものの、足切りである600点は超えていたため、出願すればそれで不利になるということはありません。

しかし、それまでの模試の判定はBとCを行ったり来たりするくらいで、過去問を解いてる手応えも踏まえると、受かるかどうかは5分5分といった体感でした。親は浪人でも私立進学でもいいと言ってくれていたので挑戦できる状況ではあったのですが、私は当時高校生ながらに気を遣って家計に負担をかけたくないという気持ちが強かったこともあり、志望校を下げることを考え始めました。

「本当に行きたい大学はどこか」「どうしても避けたいことはなにか」「優先順位やトレードオフはどうなっているか」「現状の実力」「残りの1ヶ月でできること」「最高の結果」「最悪の結果」

いろいろな要素がぐるぐると頭をめぐり、最終的に導いた決断は「東工大を受ける」ことでした。

そもそも一発勝負の受験をする以上、多かれ少なかれリスクは受け入れなければいけません。しかも私の場合幸運なことにその尻拭いはほとんど親がしてくれます(浪人の費用や私立の学費など)。ですのでここではそれに甘えて、落ちた時のことは考えず、二次試験までの期間、合格可能性を最大化することだけを考えで過ごそうと決めました。

もう一つ志望校を下げなかった背景として、センター試験の点数が低かったため、センターの配分が大きい他の国立大学に志望を下げても、必ずしも有利に働くとは限らないという判断もありました。

試験までの1ヶ月のことは正直よく覚えていません(当時つけてた勉強日誌には、毎日15時間以上勉強していたという記録が残っています)。ここら辺のことを詳しく語れると臨場感が出せると思うのですが、試験当日の記憶すらほとんど残っていません。試験後のことはなんとなく覚えています。手応えはなかったです。数学で大コケして、他の科目はそこそこできたけど挽回できるほどではない、くらいの感触でした。合格発表までは1日10時間以上スマホゲームをして思考停止させていました。

まあこれ以上語れることもないですし、勿体ぶっても仕方ないので合否を言います。








結果は「不合格」でした。

まあそうだよな、と思いつつも、「悔しさ」と「後悔」が心の大半を占めていました。後悔は出願の選択に対してです。あの時もっと考えていれば、どうにかして志望校を下げる選択に辿り着けていたんじゃないかということばかり思っていました。

合格発表の日の夜、単身赴任の父からメールが来ました。「お母さんから聞きました。」から始まり、なにかエモいことを長々と書いていたような気がするのですがよく覚えていません。ただ、その中に一つだけ今も覚えてる言葉があります。

「お前の決断は正しかった」

最初はこの言葉がしっくりきませんでした。だって落ちてるんだから。落ちたということは決断が間違っていたということでしょ?

いろいろな経験を経た今、この言葉の意味が分かってきました。普段私たちは「決断の正しさ」を「結果の成否」で決めてしまいがちです。つまり、決断した時点では正しさを保留し、成功した瞬間にあの時の決断は正しかったと、反対に、失敗したら決断が間違っていたのだと確定するのです。一見当たり前のように思えますが、これで本当に事象を正確に捉えられているのでしょうか?

極端な具体例を考えてみます。「当選率0.01%、当たれば1億円、外れたら死ぬ」というくじがあったとします。あなたはこのくじを引きますか?引く判断が正しいと思いますか?おそらく多くの人は引かないと思います(そう決めつけて進みます)。

では次に、あなたの小学1年生の子供が「このくじを引く!」と言い出しました。あなたは止めますか?もちろん止めるはずです(そうでなきゃこの後の議論が成立しないので頼みます)。止める理由も明確に説明できるでしょう。「リターンは確かに大きいが、リスクがあまりにも大きすぎる」「成功率が低すぎる」という話に始まり「命の大切さ」「お金に縛られて生きることの愚かさ」まで滾々と語り続けることでしょう。

すると、そんな親の愛情あふれる説教を無視して子供が走り出し、くじを引いてしましました。なんと当選。奇跡が起こりました。さて、あなたは子供に何と言いますか?勝手にくじを引いたことを叱りますか?「私が間違っていた」と言いますか?

これについては意見は割れそうです。ですが私だったら、「くじを引かないべき」という判断が間違っていたとは認めたくありません。くじを引く前の時点ではどう考えても引くべきではなかったのですから。誰の目にも明らかに正しかった判断が、偶然起きた結果によってその「正しさ」が損なわれるというのはあまりにも乱暴で行き過ぎた結果至上主義のように思えます。

ではこの事象はどのように解釈すればいいのでしょうか?それは簡単です。「『判断の正しさ』と『結果の成否』は独立に考えていい」という前提を置くだけです。そもそも「不確定な状況下でどの判断を最適とするか」という問題と「偶然性を含む試行が成功するか」という問題は全く別物です。これらを同一視してその「正しさ」を同時にジャッジしようとすることのほうが物事を正確に掴めていないのです。「判断は正しかったが失敗した」「判断は間違っていたが成功した」に何の矛盾もありません。

ここまでだらだらと書いてきたことは、父のメールを読んだときにはピンと来ておらず、その後の人生の中でちょっとずつ整理されてきたことです。この認識の変化は雑に言ってしまえば「解像度が上がった」ということなんだと思います。具体的には、結果のとらえ方が「成功したか否か」という2パターンから、「判断は正しかったか否か」「成功したか否か」の組み合せの計4パターンに変化しています。たった1bitです。この変化がそんなに重要なことなのか、何か今後の人生に役立つのか、そんなことはよくわかりません。けれども私はこれで救われました。私にとっては、少なくともあの時の決断を肯定できるようになったという事実だけで、今は十分です。

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