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「バブルフラワー」3

 あの風変わりなリトリートセンターに出会ったのも、レアのサンドイッチ・レストランでアルバイトしていたお陰だ。六月の最初の週末、サンドイッチ・ランチボックスを七十二人分を注文してきたのがそのリトリートセンターだった。その日僕らは、午前中の店の営業を休みにしてサンドイッチを作った。
 できあがったランチボックスを運ぶのは僕の仕事だった。僕はレアの中古ワゴン車を借り、くねくねとした山道を上ってリトリートセンターとやらに向かった。ちょっとワクワクしていた。リトリートセンターなんて場所に行くのは初めてだし、建物はアウトドアに興味がなければわざわざ出かけない所にある。
 僕はなんとなく温泉施設みたいな雰囲気をイメージしていた。実際には、外側から見る限りただのビルだった。何も知らないで見かけたら、森林保護レンジャーの研修施設か何かかな、と思って通り過ぎてしまうくらい無味乾燥な外観だ。
 一階ロビーの脇にはクリスタルを売るお店があって、二人の老女が店番をしていた。僕がおっかなびっくり建物の中に入って行くと、老女たちは朗らかに微笑みかけてくれた。二人とも白髪で、一人は大きな緑色の石のペンダントを、もう一人は紫色の丸い水晶を並べたネックレスを付けていた。店のイメージからかもしれないが、二人ともなんとなくウィジャボードで霊を降ろしたりだとかが得意そうに見えた。
 ランチボックスの入ったケースを抱えてその店の横を通るとき、老婆二人が、
 「かわいらしい子ね」
 みたいなことを囁きあってクスクス笑うのが聞こえた。
 ロビーの奥にあるフロントには、かっこいい体付きをした女性が立っていた。
 「すいません」
 僕の声に、俯いて何かを読んでいた女性が顔を上げた。その時、僕は自分の感情が表情に表れるのを懸命に自制した。受付嬢がとんでもない美人だったからだ。
 ウェーブのかかったマルーン色のロングへアーが無造作に垂らされ、ほんのりピンクがかったハート型の顔を囲んでいる。意志の強そうな眼差しに、くいっと口角の上がったいたずら好きそうな唇。白のポロシャツから伸びているのは、スポーツを日常的にやる女性特有の脂肪の無いしなかやな筋肉が付いた腕だった。
 「レインボーバードカフェです」
 「ああ、セミナー用のランチね」
 変声期前の少年に似た低めの声は、開けっぴろげでたっぷりと声量がある。
 「奥にある机の上に運んでくれる?」 
 「あっ。はい」
 僕は必死で動揺する心を隠して返事をした。
 「手伝った方がいい?」
 彼女はにやっと笑いながら僕を上目遣いで見つめた。
 「あっ。いえ、大丈夫です」
 「そう?助かるな」
 彼女は顔を下げ、読みかけていた本に戻った。
 僕がランチボックスを運び終わると、美女は代金を支払いながら、僕に個人的な質問をしてきた。
 「君はバイトちゃん?」
 「あっ。はい」
 「学生なーの?」
 「あっ。はい」
 「ふーん。ごくろうさま」
 「あっ。はい」
 彼女がちらちら流し目を送ってくるので、僕は異様に汗をかいていた。
 「必ず一度、考えてから答えるんだねえ」
 「えっ?」
 彼女はピンク色の頬を膨らませ微笑み、目をきらきらさせている。僕はバカみたいに見つめ返すことしかできない。
 「これ、あげる」
 彼女は読んでいた本の下に隠れていた紙の束から一枚取り、僕に差し出した。
 「ハイ、どーぞ」
 「あっ。はい…」
 僕は唾を飲み込む音が不自然に大きくなったことに、彼女が気づいていなきゃ良いけどと思った。
 「あっ。ありがとうございます」
 手渡された紙に何が書いてあるのか確かめることにさえ、気が回らなかった。
 「なんだか君とは縁がありそうだからさ」
 美女は恥じらいもなく、ポテトとバジルって合うよね、みたいな口調でそう言った。
 「えっ。そうですか!?」
 「うん。そう思うよ」
 彼女はじっと、僕の瞳をのぞき込んだ。占い師が水晶玉の中に何かを見いだそうとするような眼差しで。
 僕はぼんやりしたままワゴンに乗り、サンドイッチ・レストランに戻った。まるで帰りの道程のことを覚えていないので、よく無事帰り着いたなあと思う。その日の午後の僕は、間違いなく異様に浮かれていた。
 美女から渡された紙は、まさか電話番号が書いてあるなどと期待したわけではなかったけれど、リトリートセンターの広告チラシだったのには正直がっかりだった。そのチラシには、リトリートセンターで開催されているヨーガや瞑想のワークショップの予定表が書かれていた。
 翌日、サンドイッチ・レストランにディナーを食べにきたロビン伯母さんに、僕はそのチラシを見せた。この前会ったときに、ダイエットのためにジムにでも通おうかしらと言っていたので、ヨーガに興味を持つかもしれないと思ったのだ。
 「胡散臭そう」
 と言うのが、ロビン伯母さんの最初の感想だった。でも、僕が本気で一度行ってみようと思っているのが分かると、
 「わたしもチャレンジしてみようかな」
 と言い出した。彼女はどうせ僕のことを父親同様、騙されやすいお人好しだと思っていて、その上まだガキで、甘ちゃんだから、保護者がついて行かなければと思ったに違いない。まさか受付スタッフの美女が目的だとも言えず、
 「シリコンバレーではみんな四時起きでヨーガと瞑想をしているんだよ」
 と尤もらしいことを言っておいた。
 ロビン伯母さんは嬉しそうに大学合格以来久々の、
 「ああ、さすがジミイの息子!」
 を見せた。どれほど良い表情をしているかきっと彼らは知らないんだろうな。安心しきった無邪気な笑顔だ。僕はあの表情を見ると、みぞおちが痛くなるけど。
 「初めてのヨーガ」のワークショップに参加する日、意外にもロビン伯母さんは張り切っていた。何でもネットで調べてみると、あのリトリートセンターには有名なヨーガ講師も教えに来るらしいのだ。それに、ベストセラー作家が講演に来たこともあると言う。有名人効果で、リトリートセンターの好感度が数倍に跳ね上がっていた。
 車の中ではずっと、
 「マインドフルネスって、今、世界的に流行しているんですってね」
 なんて具合で、ロビン伯母さんはネットで仕入れた知識を僕に教えてくれた。
 「はじめてのヨーガ」の間中、僕は美女のことが気がかりで上の空だった。なので、二時間のワークショップの後で彼女が現れたときは、
 「ゴット・イズ(神はいる)」
 と、覚醒者顔負けの力強さで心の中で呟いた。
 彼女はすぐに僕に気づくと、瞳を煌めかせ、にやっと笑いかけてきた。ちょっとSっけがありそうな蠱惑的な表情だ。
 「やっぱり来てくれたね」
 あの海の底から湧き上がってくるような深みのある低音の声に、僕はすっかりメロメロだった。このとき、ロビン伯母さん連れてこなきゃ良かった、と思ったことを、正直に告白する。デートに誘うのは諦めなければなるまい、とね。
 「これから瞑想のワークショップをやるんだけど、よかったら受けていかない?」
 彼女は言った。
 「あら、いいじゃない!」
 「はじめてのヨーガ」でごにょごにょした不思議なポーズを見事やりとげたロビン伯母さんは、すっかりヨーギニ気分に浸りきってしまったのだろう。やる気満々の声で答えていた。彼女は講師のジョンだと名乗り、
 「お二人で是非ご参加下さい」
 と、思わずうっとり見とれてしまうような笑顔を見せた。
 「今日やるのは、女性にぴったりの瞑想ですよ。子宮と異相の薔薇の瞑想とか、卵巣ありがとうの瞑想とか」
 「へえ、変わった名前ですね。その間、男性は休憩ですか?」
 僕は何気なく訊ねた。
 「まさか。男性の方にもやっていただきますよ」
 「んー、でも、子宮とか卵巣とか…?」
 「想像力はあるでしょ?イメージができれば大丈夫です」
 僕は途端に不安になった。下腹部に子宮があると思いこむなんて、そんな気持ち悪いことはない。
 「あの、これからやる瞑想クラスって、男性の参加者もいますか?」
 「あ~ん。どうかなあ。今日は女性だけだったと思うけど。まあ、どのワークショップも女性が多いんです。どうしても、ね」
 「あー、やっぱり。じゃあ、僕は遠慮しようかなあ。男一人って言うのも気まずいし」
 「冗談!そんなこと気にしないでしょ?」
 彼女は無邪気に笑って僕の腕を叩いた。
 「講師の僕が男だしね」
 僕はしばらく言っている意味が分からなかった。ロビン伯母さんの方がずっと落ち着いていたので、僕が言いたいことをすべて代弁してくれた。
 「あれ、待って。わたし、今まであなたのこと女性だと思っていたんだけど?」
 「ああ、そうですか。よく勘違いされるんです」
 彼はニコニコしてそう答えた。ロビン伯母さんは我慢しきれずどっと笑いだした。
 「え~!男性の方?」
 「はい。男ですよ」
 ロビン伯母さんは驚きのあまり爆笑していたが、僕はその事実を笑いとばせる心境ではなかったので笑わなかった。
 「ジャンって名乗りましたよ、さっき」
 「や~だ、聞き間違いだと思って」
 僕はそこでようやく我に返り頷いた。
 すぐにでも帰って眠ってすべて忘れてしまいたかった。でも、ロビン伯母さんが瞑想クラスに参加したがったので仕方なくつき合った。
 因みに誰も興味無いかもしれないけれど一応説明すると、「子宮と異相の薔薇の瞑想」は、
1、子宮の辺りに花を一輪、イメージする。
2、息を吸う時に花びらが膨らみ、息を吐く時に花びらが閉じる、とイメージしながら呼吸をする。
 ここからがちょっと複雑だ。
3、空想の世界で、もう一輪、花をイメージする。
4、空想の世界の花は、息を吸う時に花びらが閉じ、息を吐く時に花びらが膨らむ、とイメージする。
5、子宮にある花と、空想の世界の花、その両方を同時に膨らませたり閉じたりさせながら、呼吸を繰り返す。
 子宮の花が開く時は、空想世界の花は閉じ、空想世界の花が開く時、子宮の花は閉じる、という部分が少しややこしいけれど、慣れてくると簡単だ。シーソーみたいな感じだよね。
 花は別に薔薇である必要は無いそうで、ジャンが薔薇が好きだからそう名付けているらしい。好きな花でやってみてと言われたけれど、そう花のことも詳しくないし、僕は薔薇にしておいた。
 「この瞑想をやると、インスピレーションが降りてきやすくなりますよ」
 とジャン。シリコンバレーでも流行っているのかな?
 「卵巣ありがとうの瞑想」は単純で、卵巣の辺りに両手を当て、右側の卵巣に意識を集中しながら、
 「お父さんありがとう」
 と心の中で唱えつつ息を吐いて吸う。次に左側の卵巣に意識を集中しながら、
 「お母さんありがとう」
 と心の中で唱えつつ息を吐いて吸う。それを交互に繰り返しましょう、というものだった。もし両親のどちらかと上手くいっていないなら、片方だけを重点的に繰り返しても良いらしい。この瞑想の説明を受けた時、ああ、これは僕に必要だ、と思ったよね。ただ、下腹部に卵巣をイメージするのがとっても難しいんだな。
 瞑想クラスが終わると、もう当たりは暗くなっていた。ジャンは帰ろうとしている僕らを呼び止め、庭を見ていかないかと誘ってくれた。ロビン伯母さんは初体験づくしに興奮していたせいか、
 「キャー!」
 みたいな感じで歓んだ。でもこれは正解だった。とても外観からは想像も付かないような庭だったからだ。
 ギリシャ遺跡にあるような柱の向こうには、湖があった。信じられない。どこをどうやったらそこに湖が存在できるのか。その上、そこではなんとイルカが飛び跳ねていた。
 「なんでここに湖が?」
 ロビン伯母さんは目を丸くして訊いた。
 「一体、どうなっているんです?」
 「綺麗でしょう?」
 自慢げにジャンは微笑む。
 「でも、ありえないわ」
 ロビン伯母さんは眉間に皺を寄せて湖を凝視している。
 「今日はもう遅いから寒いかもしれないですけれど、ここで泳ぐこともできますよ」
 「え!本当に?」
 僕は突然目を覚ましたように声を上げた。
 「ええ。ちょっと良いでしょ?」
 ジャンは目に毒になりそうなほどの愛らしい笑顔を僕に向けてくる。
 「宿泊者や、ワークショップの参加者の方には自由に使っていただいているんです」
 「僕、今度、海パン持ってきます!」
 「どうぞどうぞ」
 僕は目の前で飛び跳ねるイルカに感動して、ついさっきまでジャンに恋をしていたことがどうでよくなった。
 「ああ、もうすぐ満月ですね」
 リラックスしているのが伝わってくる心地の良い声でジャンは言うと、空を仰ぎ見ながら深呼吸をした。
 「綺麗ですね」
 僕も空に浮かぶ月を見上げて言った。
 「むかしね、月のことをバブルフラワーって呼ぶ人たちがいたんですよ。むかーし、むかし、その民族の人たちは、月の満ち欠けを花が散っていく様子と重ねていたんですって」
 「へ~。ちょっとロマンチック」
 「ね?」
 ジャンは無神経にも僕に向かってウインクをした。
 「彼らの世界では、バブルフラワー、まあ、月、ですよね。月は近くで見ると、透きとおった虹色の球だって思われていたんです。それは小さな透明の虹色の泡が規則的に集まって出来ているって。
 泡は蕾が開くように端から徐々に膨らんでいって満開になる。そして、再び同じ時間をかけ、ひとつ残らず泡の花びらは宇宙に舞い散るっていうのが、彼らの認識世界での月の解釈でした」
 「へえ。おもしろいな」
 「宇宙を漂う泡の花びらのいくらかは、豆の粒のように豊かさをぐっと圧縮した青い星にたどり着くだろう。そんな言い伝えがあったそうです。バブルフラワーの泡は、変化や変身に関する願い事を叶えると信じられていました。だから、彼らは満月から新月へ欠けていく時期をとても大事にしていたんですって」
 「すごく綺麗な妄想ですね」
 ジャンは白い歯を見せて屈託なく笑う。
 「そう、まあ、妄想。想像、ですね。かつてこの惑星には、そんな世界観のなかで生きていた人々もいたって話です」
 僕らはしばらく無言で、月こと、バブルフラワーを見上げていた。ほぼ満開の、美しいバブルフラワーだった。
 帰り道、ロビン伯母さんはやけに静かだった。疲れたのだろうと思い、僕はまるで気にしていなかった。ところが、気にした方が良かったのだ。次に会った時、彼女は機嫌が悪かったのだと分かった。
 もうヨーガクラスは再トライしたのかと僕が訊ねると、ロビン伯母さんは急に眉をつり上げ、
 「あんな所、もう二度と行くつもりはないわよ」
 と言った。
 「何!?どうかした?」
 僕は驚いて訊ねた。
 「時間とお金の無駄。あんなの甘いことを言って、人を騙してお金を取ってんのよ」
 「そんな感じじゃなかったけどな」
 ロビン伯母さんは僕を睨みつけた。
 「甘い、甘い。あんな宗教臭い人たちに関わったら、あなたの人生お終いよ」
 急に偏狭な中年ババアキャラになったロビン伯母さんは、苦渋に歪めた不細工な顔でそう言うと、
 「もうあそこには近づかないようにした方が良いわよ」
 と、有無も言わさぬ口調で言ってから話題を変えた。
 でもね。父親や周りにいる大人たちが僕にとっての最も賢い人たちだった時代は、とうの昔に終わりを告げている。僕はそれから何度もあのリトリートセンターに行った。主にイルカと泳ぐのが目的だったけれど、ヨーガの基本や、天と地を癒す呼吸法、天使とイルカに向けて歌う発声法などもマスターした。あんなにやる気を見せていたロビン伯母さんが一度もやってこなくても、ジャンは何も訊ねてこなかった。良くあることなんだろう。 

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