沈黙を生きる哲学 存在神秘
古東哲明さんの「沈黙を生きる哲学」を読んだ。哲学書を読んで初めて泣きそうになった。普段は読書感想文はあまり書かないが、思ったことを書きたい。
古東さんの「ハイデガー=存在神秘の哲学」「在ることの不思議」「マインドフルネスの背後にあるもの」「現代思想としてのギリシア哲学」は読んだことがあったのだけれど、毎回同じことを言っている、文体が持って回っていて嫌だ、結局何がいいたいのだろう、と感じていた。最新作の「沈黙を生きる哲学」でも従来と言っていることは変わらないのだが、こちら側の準備が整っていたことで、本当にすっかり納得できた。「無底の底」と「神秘味」という部分が刺さった。
「存在論的差異」という有名な概念がある。「存在者」と「存在」の差のことだ。存在者というのは「机」「ペン」「地球」「遺伝子」「僕」「国」のような、言葉で指図できる「モノ」のことで、存在というのは、その「モノ」が「あるということ」のことだ。モノは存在するが、あるということは存在しない。存在者は存在するが、存在は存在しない。
「ある」はあるだろうか?「ある」は見えない。「モノ」の奥に在るものでもない。「在るが在る」としたら、「在るが在る」も在ることになってしまって「在るが在るが在る」も在ることになってしまって…。とおかしなことになる。
「モノ」は存在するが、存在は存在しない。不思議だ。
存在は無根拠である。存在には根拠がない。そこで「打ち止め」になる。それ以上は考えられない。考えられないので沈黙しなければならない。
この宇宙やこの人生には、根拠がない。目的も理由も存在しない。その事実が僕には耐えがたがったのだが、「存在はそれ以上根拠づけられない」という事実が「神秘」だということがやっと分かった。
あまりこれを指摘している人を見たことがないのだが、古代ギリシャのゼノンの場所のパラドックスというのは深い意義がある気がしてならない。
これは「存在する物は無根拠に存在している」と言っているのと同じだと思う。
「全てが無根拠に存在している」というのは「全てはなくてもよかった」と言い換えられる。僕の人生で今まで起きた出来事、子供時代に友人と蝉を取ったり、飼い猫を抱きしめて嫌がられたり、母親と海で他愛のない会話をしたり、その全ては存在しなくても良かった。文章を書いている「現在」も、別に存在しなくて良い。存在している根拠がない。根拠がないのに存在している。これを「不思議」「神秘」「あり得なさ」などと言う。
哲学はタウマゼインから始まるという。厳めしいカタカナだが「驚愕」という意味らしい。「無根拠であるものが存在している」というあり得なさに驚愕することが哲学だ。答えは出ない。答えは「根拠」になってしまうので、この「あり得なさ」から神秘性を奪ってしまう。宗教は存在の神秘を奪う。
古東哲明さんは、古今東西のスピリチュアル文化も勉強しているらしく、ルパート・スパイラやOSHOなどの胡散臭い人物の書籍も読んでいた。仏教とハイデガーを根幹に思索してるっぽいが、学生運動をしていた頃、仏教でいう覚醒体験のようなものがあったという。
僕は瞑想を本格的に始めてからそろそろ3年ぐらいになるが、瞑想を始めて「自然美」だとか「神秘」だとかの感覚が多くなった。「新鮮」や「驚き」と言っても良い。その理由が分からなかったのだけれど、言語化されていて驚いた。
「欲望や行為」は必ず「モノ」を志向している。対象がある。金、異性、知識、名誉、食べ物などの「存在者」を意識してしまう。これらの「存在者」に眼が眩んでしまうと「存在」の神秘が見えなくなる。それらの「存在者=モノ」の「存在=無根拠性=神秘」が隠されてしまう。だから、一時的に「モノ」へ向かう意識を遮断する。すると無根拠が開示されてくる。やけに理屈っぽいと感じるかもしれないが、僕の実感ともあっている。
そして「神秘味」という表現が気に入った。無根拠である人生は、どこをとっても「神秘」の味がする。宇宙スケールでも変わらない。ビッグバンも神秘であるし、恐竜も神秘であるし、地球が太陽に飲み込まれてしまうことも神秘である。もう一度書くと、神秘とは「全てはなくてもよかった」「にも関わらず」「ある」ことである。だから一度でも神秘を味わえば、永遠の神秘を味わったのと同じだ。神秘を味わうとは、存在することだ。
僕の拙い文章で内容が紹介できたか分からないが、ぜひ読んで欲しい。僕は「スピリチュアル文化と西洋哲学は融合させるべき」と考えていたが、ほぼ完璧な形で古東さんが完成させてくれた。というか、古来から「真理」というのは別の言葉で繰り返し語りなおされていくだけなのだと思う。それがヒンドゥー教であろうが、仏教であろうが、哲学であろうが、欧米スピリチュアルだろうと変わらない。指す指である言葉が違うだけで、指示された月は同じだ。
多分、真理の顕現には条件がある。ここからはこの本に関係ない仮説。昔に下書きに書いていたものに加筆する。
ヤスパースは紀元前500年あたりの釈迦、ソクラテス、イエス、孔子が出現した時代を軸の時代と言っている。なぜ急に大思想家が出現したのかを見田宗介はこう分析している。
1、世界を外部から見る視線
2、自明性の解体
3、無根拠感、根拠の探究
4、異質のものの共存、という切実な課題
5、普遍化、一般化
6,メタ化
7、無限という恐怖、空虚。虚無の克服という課題
一言で言えば「都市」の成立と言えるかもしれない。様々な異文化が流入することによって、自明だとされていた価値観が相対化され、究極の根拠によって虚無を克服する必要が出てくる。
「思想の混乱状態」がある。人間というのは「神話」や「物語」に依拠して生きているのだが、全くのニヒルに陥る「時代」がある。古代ギリシアはソフィスト流の相対主義によって、従来の価値観が破壊されていた。だからこそ「無知の知」という存在神秘が現れる。
釈迦が生きていた時代も思想が荒れていた。商業が発達したおかげで自由民が増え、様々な思想家が現れた。仏教では「六師外道」というが、現代風の「物質のみが存在する」だとか「必然しかない」だとか「死後は無である」とかそういう思想が流行っていた。釈尊は一切の「思想」を捨て、ただ坐り「存在者への意識志向」を休息させることによって、存在神秘に目覚めた。存在していることに驚いた。存在しなくてもいいのに。
僕は日本の鎌倉時代も似たような時代だったと考えている。日蓮、法然、親鸞、道元と、あの時代の思想のエネルギーはニヒリズムに支えられている。そしてニヒリズムがある場所に存在神秘は顕現する。
近代というのは、恐らく人類史で一番深いニヒリズムにある。一番、存在に根拠がない。物語がない。だから不幸なのだと思っていたけれど、そうではなく、だからこそ先鋭的な形で「本来あり得ない人生が存在している」ということが認識できる。
藤子不二雄が「SF」を「少し不思議」だと言っていたが、存在というのは「凄く不思議」だ
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