「私」の本質と異文化 近代の身体性

 部屋に本が散乱しているのだけれど、瞑想をしていると、散乱している本に同一化している自己があった。比喩的に言うと、本と自分が線で繋がれているような感じ。その線を断ち切るのは恐怖だったが、断ち切ると楽になった。
 「自己同一性」というのは「身体」にあるものではなく、「地位」「情報」「知識」などに「執着」する「運動」だ。自分が何に同一化しているのかは簡単に分かる。「失うことが怖い物」は「(広義の)自己」とみなしている。例えば、家族や恋人を失うのは怖いと思う。自分の持っている財産や知識を失うのも怖い人が多いと思う。右腕を失うのも怖い。
 「私」というのは「執着の範囲」だと思う。身体に執着していない人は、死ぬのを恐れない。大恐慌で財産の大半を失った投資家は自殺をしたらしいが、その多くは食っていけるぐらいのお金はあったらしい。「財産」と自己を同一化しているので、財産を失ったことに耐えられなかった。定年退職をするとうつ病になってしまう人は「仕事」が自己になっている。

 人類学の本に「土地と人格が一体になっている」という記述があって意味不明だったが、理解できたような気がする。土地を失うと「身を切られるような」痛みがあるのだと思う。

 中国史を読んでいると、今では考えられないような記述がたくさんある。主君のために命を投げ出すといったことは現代では考えられないし、主君が死んだから俺も死ぬみたいな考えも多い。葉隠れの著者の山本常朝も「主君が死んだから死のうと思ったが、止められたのでツラい」みたいなことを書いていた気がする。現代の価値観から見ると「野蛮」としか思えないが、「自己というのは執着の範囲」という原理を応用するとすんなり理解できる。

 インドにはサティという文化があって、世界的に非難されていた。夫が死ぬと、妻もそれに殉じて死んでしまうという風習だ。西欧のフェミニストがこれを野蛮だとしてやめさせようとしたのだが、「他人の文化に口を出すな」という文化相対主義VSリベラル個人主義みたいな対立になった。これは、「どっちが正しい」とかいう話ではなく、「自己の執着の範囲」が違うだけの話だと思う。インドの未亡人は、夫が自己そのものだったんじゃないか。

 近代の形而上学は「原子論」だ。今でも言及されるホッブズの「リヴァイアサン」は、原子論の科学の記述から始まっている。「それ以上分割されない個人」というものを考えると、「万人の万人に対する闘争」が起きてしまうので、みんなで喧嘩しないように契約を結びましたというお話になっている。だが、個人がバラバラの原子状態というのは歴史上に存在しない。歴史の前にも存在しない。人間は「群れる動物」であり、個人だけで生きていたことなど一度もない。近代政治哲学はこの「契約論」の上に成り立っている。リベラルの王様であるロールズも契約論的に哲学を論じている。「無知のベールをかけられた個人で話合うと、こういう契約ができますよ」みたいなお話を書いている。

 原子論的な個人というのはイデオロギーだ。ニュートン力学の形而上学から生まれたフィクションである。「我思う故に我あり」から生まれたフィクションだ。キリスト教の残滓だ。

 この「原子論的な個人」から「共同体の破壊」や「所有権」などが導かれる。エチオピアでフィールドワークをしている人類学者の本を読んだが、所有の感覚がまるで違うらしい。ラジカセを勝手に持っていかれたり、おたまを勝手に持っていかれたり、私的財産という観念があんまりなさそうだ。
 「所有権」と「欲望至上主義」というソフトウェアがインストールされると「執着の範囲である自己」がどんどん肥大化する。共同体を破壊してまでも、どんどん執着範囲自己が広がっていく。「社会」や「共同体」にまで「自己感覚」が広がらないから、貧乏人なんかは野垂れ死んでも気にしない。

 「家」なんかもどうでもよくなる。家は俺じゃない。原子的な俺が俺だ。親も子供も知らない。原子が俺だから。そして介護と少子化が問題になる。

 「原子論的個人」というソフトウェアから「自己感覚」が創られる。感覚を疑うことは普通できない。だから他の文化の「自己感覚」が全くの理解不能になる。「家」を大事にするのは野蛮だ、理解できない、という価値観になる。夫に殉じて死ぬのは理解できないし、主君に殉じて死ぬのも理解できない。「感覚」が違うから。

 僕の場合、本や知識が「自己の範囲」だという感覚があった。それは知識偏重社会だからだと思う。社会によってソフトウェアが注入されて、自己感覚が狭まったり広がったりする。恐らく「国家」とか「神」とかデカいものが「自己」であるほど、生きている意義を感じやすい。しかし、個人主義によってどんどん自己感覚の範囲は狭くなっている。「身体」と「所有物」のみが自己であるという感覚がある。

 仏教的に言えば、「自己執着範囲感覚」なんてものはなくしたほうが生きやすい。僕もそれが理想だと思う。全くの無我というのは自由だ。身体にも所有物にも囚われずに生きる。しかし、現代社会というのは自己感覚を狭く貧しいものにするものだと感じる。いっそないほうがいいのだけれど、抹消することもできず、「汲々とした自己」だけが残る。
 僕は瞑想で脱出することにした。信仰で神や教会に自己感覚を広げるのも一つの手だと思う。僕の勝手な感想だけれど「世俗」はあんまりよくない。

この「原子論的な要求」は、誰ひとりとして予想もしなかったようなところで、いまなお危険な余生を送っているのである。──まずキリスト教がもっとも長いあいだ、もっとも巧みに教えてきた別の宿痾のような原子論、すなわち霊魂の原子論にとどめを刺す必要があるのだ。

善悪の彼岸
フリードリヒ・ニーチェ

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