努力は偉いのか 努力教について

 弱者界隈では「努力」というのは「努力教」と揶揄されている。自分は努力で成し遂げてきたと言う人が「お前が負け組なのは自己責任」と切り捨てるので、それを揶揄している。仏教では努力のことを精進といってとても重要視するが、努力っていいものなんだろうか、悪いものなんだろうか。僕は小中学で「努力は絶対的に良いもの」と教育=洗脳されて育ってきた。ただ、努力だけで全部どうにかなると思えるほどの年でもなくなった。

 「がんばることをやめられない コントロールできない感情と「トラウマ」の関係」という本を読んで衝撃を受けた。僕は努力はいいものだと思っていたのだけれど、努力がやめられない人たちがいるらしく、本を読むと僕のことが書かれてあった。
 自分自身を「生き急いでる」と言っていたのだけれど、ずっと努力していた。毎日哲学書を読んで、瞑想をして、疲弊しきっていた。のんびり生きられない。常に急き立てられている感じがする。「勉強しなければならぬ」という強迫観念がある。
 あり得ないぐらいの量の本を読んだ。部屋が4つ本で埋もれている。なんでこんなに頑張ったのか。

 自己否定の気持ちがあるからだった。抗うつ剤をやめると、負の感情がどんどん湧いてきたのだけれど、その中に「賢くなければ認められない」「親や世間に認められない」「何もない自分は死んだほうがいい」という嫌悪の思考があった。前の記事に書いたことと似た構造がある。「無意識の本音」を「合理化する自我」が覆い隠している構図がある。
 「自己嫌悪、自己不全感、承認欲求」という無意識の負の感情(行為)を「真理が知りたい」「好奇心が強い」「生き急いでいる」という分かりやすく格好のつく言葉に変換していた。これらの言葉も恐らく嘘ではないんだけれど、その奥には自己嫌悪の感情が巣食っていた。
 「委託」というフロイトの概念を使えばわかりやすいと思う。乳児は自身の性欲を「食欲」という生物学的欲求に委託して唇の性欲を満たす。これと同じで僕は自分の「自己嫌悪」という感情を「好奇心」という感情に委託していたのだと思う。

 「走るのがやめられない」という状態がとても辛かったのだが、瞑想でカラクリを見抜いて、負の感情を見つめると、走るのをやめられるようになった。だらだらできるようになった。
 仏教の本にも「ボランティア活動をしている人の本当の動機が、自分より弱い人を見て安心することだった」みたいな例が書いてあった。

 努力が「偉い/偉くない」「良い/悪い」ではなく、多分「健全/不健全」な努力がある。そして不健全な努力をしている人は、怠け者(に見える人)を裁いてしまうと思う。根本に自己否定の気持ちがあるから、「自分はこんなに頑張っているのに、頑張らない人間が許せない」という気持ちを持ってしまう。僕の推測に過ぎないが、SNSで他人を攻撃する努力教の人は不健全な努力をしているんじゃないだろうか。健全な自己愛を持って成すべきことをキチンとしている人が、他人の人生にケチをつけると思えない。

 中庸とか中道が大事なんだろうけれど、中庸という概念は何も語っていない。結局自分で「ちょうどいい感じ」を見つけるしかない。みんなほどほどに頑張ろうね

勉強したいのでお願いします