詩を書きたかった 理由なき必然性

 本気で「創作」に取り組んだことがないのに、創作論ばかり書いている。創作とは何か?クリエイターとは何か?ということばかり書いている。創作をしたいんだと思う。

 どれぐらい有名なのか分からないが、Twitterでは有名な「岩倉文也」という詩人がいた。彼がフォロワー300人ぐらいの頃から知っていて、詩人として開花する様子を見ていた。一気にスターダムにのし上がって、羨ましかった。正直、詩はあまり良いと感じたことはないが、ツイートの言語センスがズバ抜けていた。意識が尖りすぎて自殺するんじゃないかと思った。
 最果タヒや谷川俊太郎ぐらい遠くにいる存在でもないし、本当に嫉妬していた。

 だから詩が書きたかったのだけれど、詩を書く理由が一つもなかった。当時は詩人が大嫌いだったので、23歳でWEB詩集に誘われた時、詩人の悪口を書く詩を書いた。

 自分が詩を書く理由を探すと「モテたい」とか「チヤホヤ」されたいしか思いつかなかった。そんな理由で良い詩がかけるわけがないと思ったし、罪悪感があった。「発情期の鳥の鳴き声」とかいって冷笑していた。

 ずっとニヒリズムの研究をしていたのだが、瞑想とハイデガー哲学によって「何も分からない」になった。「なぜ無ではなく存在があるのか」という所で「打ち止め」になった。「なぜ存在しているのか分からない」という非-知に触れてから、もうよくなった。悟ったとか神秘体験をしたとかではなく、分からなくなった。

 バタイユのテクストが好きじゃなかったのだが、非-知というものを伝達しようとすれば、ああいうテクスト実践をしなければならないのだと思った。意味不明で混乱している文章なのだけれど、何かは伝わる。

 言葉は存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。思索する者たちと詩作する者たちが、この住まいの番人たちである。

「ヒューマニズム」について
マルティン・ハイデガー

 ウィトゲンシュタインは完全にこの非-知に触れているが、彼は「語りえぬものについては沈黙せねばならない」と言っている。それも倫理だと思うが、釈迦は結局、沈黙することはなかった。
 禅は「不立文字」と言って、言葉を嫌うが、禅匠の語録の数は夥しい。別の宗派の坊さんより圧倒的に語録が多い。詩歌を創るものも多く、一休や良寛の歌は僕も大好きだ。正法眼蔵なんか90巻ぐらいある。

 創作で大切なのは「必然性」であると思う。歴史的必然性もあれば、個人的必然性もあると思うが、僕には必然性が欠けていた。「チヤホヤされたい」「モテたい」しかなかった。倫理に反していると思った。原口統三が自殺した理由も結局そうだと思う。

 「なぜか存在している」という「不思議」「不可解さ」というものを伝達しようとすれば、詩にならざるを得ない。「分からない、分からない」言ってても分からない。

 バタイユが孤独な共同体と書いていて印象に残った。ニーチェと会ったことはないけど、文章を通じてコミュニカシオンしていると書いていた。読者もその文章に触れて、孤独な共同体の一員になろう、みたいな感じだった。

 「なぜ詩を書くのか?」と問われると「人生も存在も真理も分からないから」と答えるしかないように思える。分からない何かを指し示すには詩しかない。否定神学は詩を生み出すしかない。
 
 そう思って最近詩を書いているが、なかなか上手くいかない。思索も詩作も頑張ろうと思う

何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に訪ねてごらんなさい、私は書かなければならないかと。深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、「私は書かなければならぬ」をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ち立ててください。

若き詩人への手紙
リルケ


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