なぜクリエイターは死ぬほど傲慢なのか

 優れた芸術家ほど傲慢なイメージがある。岡本太郎などは著作から「俺が正しい!」という声が伝わってくるし、宮崎駿監督が変な映像にぶちぎれている動画は有名だ。三島由紀夫なんかも傲慢そのものであるし、まあ一番傲慢なのはニーチェであると思う。ボカロPなどのTwitterも結構痛い人が多い。小説家も政治的な主張が物凄く強かったりする。枚挙にいとまがない。

 自分が詩作を始めてから初めて知ったのだけれど、物凄く不安だ。自分の「感受性」や「内省」という自己の根幹に関わる部分を吐露するというのは、他人に恥部を晒すようなモノであるし、それが他者や社会に「否定」されるというのは恐ろしい。
 最近は愛着障害の勉強をしているんだけれど、優れた文学者や芸術家にも愛着の問題があったのではないかと書かれている。読んだ本ではオノヨーコ、岡本太郎、夏目漱石、ヘルマン・ヘッセ、サリンジャーなどが挙げられていた。僕の関わってきたメンタルヘルスの問題がある人達も、表現欲求のある人が多かったので、何かしら関連があるのかもしれない。仮説として「親から貰えなかった承認を社会に求めている」「抑圧されている感情を解放したい」などが挙げられると思う。世界的文豪のトルストイの小説のこの言葉は何か深い意義がある気がする。

幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである

アンナ・カレーニナ
レフ・トルストイ

 愛着の問題だけではなく、近代芸術という構造からして問題がある。

 クリエイターというのは「世界」を創るものになろうと意志している。神は孤独である。唯一神である。神は否定されてはならない。自分は神なのだから、否定されるとキレるのは当たり前だ。

 愛着や神の死という問題もあるが、僕が詩作をしていて個人的に感じたことは先ほども書いた通り「不安」だ。今まで読み流していたニーチェの言葉が身に染みて分かる。

 恐ろしいことだ。孤独であって、共にいるのは君自身の掟に従う裁判官と処刑人だけだということは。つまり、荒涼とした空間と孤独の息吹のなかに投げ出された一つの星となることだ。
 今はまだ、君はひとり、多くの人々のために悩んでいる。今はまだ、君はみずからの勇気と希望を余すところなく持っている。
 しかし、いつか君は孤独に疲れ果てる。いつか君の誇りは膝を屈し、君の勇気は軋む。いつか君は叫ぶだろう、「わたしはたった独りだ!」。
 いつか君はもはやみずからの気高さそのものを、幽霊のように恐れるだろう。いつか君は叫ぶだろう、「全ては間違っていた!」。

ツァラトゥストラかく語りき
創造者の道について
フリードリヒ・ニーチェ

 たった独りで、全てが間違っているということより恐ろしいことがあるだろうか?
 自分の感受性や内省が間違っていることへの不安。不安だから、不安の裏返しとして傲慢になる。「俺は絶対に正しい!」と虚勢を張らなければ不安に耐えられない。大衆を侮蔑しないと孤独に創作することに耐えられない。

 クリエイターって傲慢な人が多いけれど、不安で仕方ない可哀そうな人なのだと思う。近代の病気としての創作者って、近代に殉教しているんだと思う。僕から見ると「生贄」のように見える。

 自分で詩作してみて、初めて創作者の心理を解剖することができた。「近代の一番の病気」に罹患して、それを解剖するという作業は結構楽しいかもしれない。両方の視点を大切にしたい。

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