生・美・死 美学と生 瞑想と美

 真理は存在しない。神や伝統が死んだので、生きるための神話や物語が崩壊し、全員が潜在的なニヒリストになる。

 海図なき航海の時代とか言われるが、本当にどう生きるべきかのマニュアルが一切存在しない。真と善は密接に関連しているが、真が崩壊したせいで善も危うくなっている。リベラリズムや個人主義というのは倫理を破壊する原理であるように思う。倫理というのは「共同体」の「風習」である。カントがいくら「定言命法」という嘘をついても、ニーチェの「倫理とは共同体の風習である」という真実の方が重い。

 昔から「美学」という言葉に結構重きを置いて生きてきた。美学というのは美の歴史や美の理論を探究する学問という意味でも使われるが、僕が使うのは「男の美学」などの文脈で使われる美学である。己自身の美学を持つこと。何が格好よくて、何がダサいかのモノサシを持つこと。

趣味。それは同時に錘であり、秤皿であり、秤り手だ。錘や秤皿や秤り手について争うことなしに生きようとするものに、わざわいあれ。

ツァラトゥストラかく語りき
フリードリヒ・ニーチェ

 ニーチェは趣味・美学について争うべきだと書いてあるが、僕は争いが良い趣味だとは思えない。美というのは理論化することができず、だからこそ詩というもので「示す」しかないのだろうが、僕の思う美を書きたい。

 子供の頃は、何もかも綺麗だった。下水道に落ちているカラフルなタイルを拾っていた。家に持って帰るとトイレのタイルだから捨てなさいと言われた。田舎の小川は細く捻じれながら流れていて、ずっと飽きることなく見ていられた。秋にはトンボが山のように発生して、それがまた風情があった。

 大人になると、何も感じなくなってしまった。散歩をしても何も綺麗と思わない。桜ぐらいは流石に綺麗だと感じるが、日常的な自然に美しさを感じなくなってしまった。

 原因を考えると「新鮮さ」がなくなったのだと思う。何もかも見慣れてしまって、感受性が死んでしまった。「見飽きたもの」だらけになって、閉塞感を感じる。
 だからこそ旅行へ行って壮大な建造物や歴史的な絵画を見たりするが、非日常は一時的な逃避に過ぎず、日常はまた惰性で続いていく。
 マインドフルネスをすると、世界がキラキラ光って見えた。「なぜ今仏教なのか」という科学ジャーナリストの書いた仏教の本の著者も、同じ体験をしていた。マインドフルネスで自然が美しく感じられるようになるというのは、科学論文にも書かれているらしい。
 ただなぜそうなるのかは書かれていない。僕が思うに、「今の呼吸」に集中することによって、過去=記憶が死んでいくからだと思う。古くなっていた神経の轍が再編成される。
 論理的に考えてみても「時」というのは常に「新しい」。この「初めての時」というものへの感受性が死んでしまうと美が感じられなくなる。新鮮さや瑞々しさといったものが人生から欠落してしまう。

 「過去」が自我を創っている。「生まれてから今まで経験したこと」の集大成が「俺」である。その俺が全てに飽きてしまう。だから俺が死なねばならない。心理的な俺を、瞑想や坐禅により退治することによって、人生に新鮮さ、瑞々しさ、驚き、といったものが回復される。
 芥川龍之介の遺書は、示唆に富んでいる。

ただ自然はこういう僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。

 「死」から生を見ること。それがハイデガーの存在と時間の主張でもあった。仏教には「死随念」という自己の死を念じる修行があるが、その修行でも「集大成の俺」は死んでいくと思う。死随念の本格的な本は今まで存在しなかったが、10月3日にユダヤ人仏教徒であるラリー・ローゼンバーグの「死の光に照らされて」という本が出るらしい。呼吸瞑想の本が素晴らしかったから楽しみだ。

 死から生を見ると、生は美しくなる。それは「今生きていること」が不思議だからだ。生まれていなくてもおかしくないし、死んでいてもおかしくないのに、今生きているということは不思議だ。何の根拠もないのに生きている。

 真と善には期待できない。だから美を生きるしかないのだが、美を生きるには死が必要になる。生きるためには美が必要で、美には死が必要で、というのは大きな矛盾に感じられるが、矛盾というのが生の本質なのであると思う。

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