詩作と少し真面目に向き合って考えたこと

 「無根拠な存在神秘」って「美」と繋がっている気がしたから、詩を書こうと思い、詩を書いていた。今までに詩って適当に書いていて、多分30~40ぐらいは書いたと思うけれど、暇つぶしだった。3日ぐらい詩作をして思ったこと。このnoteには詩は載せないことにしようかなと考えていたけれど、載せずに詩の話だけするのは読んでるほうもよくわからないと思うので載せます…。

真っ暗な静けさの中で
宙に浮いている地球
戦争も生誕もガンジス川も
全て静けさの中で
断行する

静けさの凝縮が
星々の光
神々の沈黙が
無名の人々が
手を伸ばしたもの

さやさやと揺れる梢に
蝶々の群れ
僕の眼は黙りこくったまま
影になっていく蝶々を
弔った

枕の下に
優しい死を
埋める
影の蝶々が
壁を揺らした

蝶々

 一つ目に思ったのは、詩って嘘がつけないと思った。僕が現代詩人で好きなのは最果タヒと大森靖子なんだけれど、ああいう「東京の女の剥き出し」みたいな詩が書きたくて、それっぽく書いてみたんだけれど、全然ダメだった。思ってないこと、感じてないこと、体験していないことを書こうとしても、ぎこちなくて、嘘っぽい詩になった。「田舎の男の詩」しか書けない。難解な現代詩みたいなのも好きだから、書こうと思ったけど全然ダメだった。ああいうのは技巧がいるのかもしれない。のちのち書けたら書きたいけど、才能か技巧がないと厳しいかもしれない。言葉とリズムだけで殴るような難解な詩も好きなんだけど…。

優しい地球の夜に触れて
星の欠片の私たちは
ありふれた生を平らげる

鈴虫の声が あの世から
聞こえる
みんなそこにいるんだね

安堵して僕は
眠りにつく
夜の優しさに
守られて
真っ暗な無限に
落ちていく

鈴虫の声が あの世から
聞こえる
甘美な歌声 
まるで みんな生きているようだった

地球

 ちょうどハイデガーのニーチェ講義を読んでいて、ニーチェの芸術論を長々と語っていた。ニーチェの美学は「鑑賞者」ではなく「創作者」の視点からなのだけれど「生の高揚」つまり「陶酔」が重要だと説いていた。
 昔に美大に通っていた人と仲が良かったのだけれど、その人も「自己陶酔しなければ絵は描けない」と言っていた。少し分かった気がする。僕は「自己陶酔」が大嫌いで、そういう文章もそういう人間も「痛い」と感じてしまうから、「醒めた眼」を大事にしていたのだけれど、酔わなければ創作ってできないのかな。釈迦の教えは「自己や物事に酔わずに、常に意識を覚醒させていなさい」というのが核心なのだが、醒めたまま詩作ってできるんだろうか。禅の坊さんもたくさん詩を創っているから、読んで参考にしたい。といっても漢詩は全然読めないから、どうしようかな。
 一休や良寛の歌を読む。あと俳句ってやっぱり禅の芭蕉が始めたから、醒めているものが多い気がする。尾崎放哉や種田山頭火をいつか読みたいと思っていたので、この機会に読む。
 陶酔せずに醒めていたいという気持ちと詩作をどうするか、考えた方がいい気がする。そりゃ薬物すればいい物創れると思った。

 近代の海外の詩をほぼ初めてまともに読んだのだけれど、酔っぱらっている気はした。ボードレールとかずっと酔っている。そういうのも好きなんだけれど、難しいな。

 ニーチェってそういう意味で、本質的だ。

詩人は嘘をつきすぎる。詩人のうち、酒の偽造をしなかったものがあろうか。感情のこもった興奮がやってくると、詩人たちはいつもうぬぼれる、自然がかれらに惚れこんだのだと。ああ、なんとわたしは詩人に飽き飽きしていることだろう

ツァラトゥストラかく語りき
ニーチェ

 ニーチェって哲学=近代の自己意識だと思っているが、ニーチェ自身も文学の才能が豊かだったから、詩を書いている自己を醒めた眼で批評せざるを得なかったんじゃないだろうか。醒めすぎて自殺したのが原口と三島だ。
 現代アートは作家も批評家でなければならないとどこかで読んだが、その淵源はニーチェにあるんじゃないか。

 「酔い」と「醒め」という視点で考えると、やはり仏教芸術が気になる。仏教はどこまでも醒めていく行であるから、どう折り合いをつけているんだろう。

 詩を書いてみて、あらためて僕は詩を書くのが好きだと思った。売れたり評価されるという軸から逸れたのでもっと楽しくなった。伸び伸びとやって行こうと思う

本当の言葉をください
他に何も望みません
本当の言葉をください

売り物じゃありません
借り物じゃありません
本当の言葉をください
僕自身の
あなた自身の
本当の言葉をください

愛も救いも望みません
本当の言葉をください
それだけで
死んでいける言葉をください

孤独

 

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