人間とリズム 中原中也 コーラン 霊性

 中原中也が好きだった。久々に彼の詩集を読むと「何か違うな…」と思った。感傷ばかり書いていて、こういった詩よりも谷川俊太郎や田村隆一のような、哲学を歌うような詩のほうが自分の好みに合っているのだと思った。
 けれど、読み進めるうちにやっぱり中原中也が好きだった。なぜだろうと考えると、リズム感が素晴らしく良い。全部すっと入ってくるリズム感で、文字面を追うだけで心地よく響いてくる。宮沢賢治は自然ばかり歌っていて、僕は情景をイメージするのが下手なのに、恐ろしいほど心に響くからなぜだろうと思っていたが、リズムを意識すると簡単に謎が解けた。彼の詩は長いものがダラダラと続くものが多いが、そのダラダラのリズムが怒涛のように押し寄せてきて圧倒されてしまう。一つもリズムが狂っていない。

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

 「意味」というのも大切だが、リズムというのは言葉の本質なんだと体で分かった。言葉の形態(シニフィアン)よりも言葉の内容(シニフィエ)の方を重視していたが、もしかしたらそれと同じぐらいか、それよりももっと重要なのかもしれない。リズムを意識して詩作をすると、言葉がぽんぽんと出てきて面白かった。
 
 「リズム」というのは思っているより人間の本質にあるのかもしれない。古代のアラビア人は決闘の代わりにどちらが美しい歌を即興で読めるかというのをやっていたと聞いたことがあるが、現代のMCバトルに通ずるものがある。言葉の内容だけで勝負するなら「ディベート」をすれば良いのだけれど、ビートに合わせてお互いをディスりあう。ディベート的には勝っていても、「音楽性」や「ビートアプローチ」で負けていると、勝負には負けてしまう。ディベート言語よりも、リズム言語のほうが「説得力」があるのだと思う。政治のプロパガンダなんかも、ディベート言語ではなくリズム言語だ。同じことを反復すれば楽しいし説得力がある。
 コーランはアラビア語で読むと本当に美しい詩らしい。その詩的な美しさを「正しさ」の根拠にしている。「神がいる証拠はこのコーランの美しさだ、論破したければこれよりも美しいものを書け」という旨のことが書かれているらしい。

 日本にも詩歌というものは古代より存在しているが「自然」や「性」を歌うものが圧倒的に多い。57577のリズムで、自然を賛美したり、求愛をしたりする。自然や性という「本質」がリズムで表されるというのは不思議だ。歌が下手な男はモテなかったらしいが、やっぱり「ダサい」からだろう。リズムは美しく、普遍的だ。

 親鸞や一遍も夥しい和讃を残しているし、禅の人間は詩を書くことが多い。宗教にもやはりリズムがある。もともと詩というのは神や自然を讃えるものだ。
 大乗経典の王と呼ばれる法華経は、散文で文章を書いたあとに、もう一度韻文で同じ内容を書いている。それほどサンスクリット語のリズムが宗教的情感に大切だったのだと思う。

 一時期英語の勉強を熱心にしていたが、一番効果があったのは「音読」だった。英語のシニフィアン、リズム、形態を脳に染み込ませるのが重要なのだと思う。
 
 言葉から眼を転じてみても、人間はリズムに従っている。まず生活リズムがある。生活リズムが崩れると、身体も精神も不調をきたす。四季というリズムもある。リズムに乗り遅れると「季節の変わり目」という名の不調をきたす。「朝昼晩」というリズムがあり、それで構成された「一日」がまた「春夏秋冬」というリズムを作る。踊るのが下手な人は脱落していく。体調が悪くなる。

 言葉にもリズムがあり、身体にもリズムがあり、環境にもリズムがある。探せば他にも様々なリズムがあるのだと思う。「笑い」は「間」が重要であり、一瞬でもズレると白けてしまう

 「普遍的」なものが「霊性」に繋がるのではないかと感じていたが、「存在」や「死」に加えて「リズム」というのは人間の普遍かもしれない。若者を中心にポップ音楽が栄えて、ヒップホップも大人気だが、虚無的な若者は、リズムを求めているのかもしれない。

 

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