読書はマッチョなのか?

 友人に「読書マッチョ問題」について書いて欲しいと言われたので思ったことを書く。
 僕も知らなかったので、一応記事を貼る。

 核心はここ

 読書というものについて書く時、問答無用で本を薦めることはできない。なぜなら本というものはマッチョなものだからである。ということを、私は書評家や評論家として仕事して知ることになった。本は、目を使い、お金を使い、時間を使う。なによりも読書体力とでも言うべき ―― 習慣によって培われた筋肉を使う。たまたま幼少期に本を読む習慣をつけられていたり、性格や資質に合っていたりして、読書に苦がない人生を私は送ってきた。しかしそれは幸運だっただけだ。自分の努力で勝ち得たものではないし、生まれ持った性質と環境に合っていただけなのだ。大人になると、そう痛感する。本を読むといいよ、なんて、他人に言えない。それは身体が健康で、教養を与えられてきた、運のいい人間の言うことだからだ。読書とはマッチョなものだ。バリアフリー化も途上である。それは市川沙央さんの『ハンチバック』が巻き起こした議論が意味するところだろう。

 だけど、こんなことを大前提として、自分が本によってしか救われることができなかったのもまた事実である。

誰かの寂しさを言葉ですくいあげる
三宅香帆

 マッチョという言葉を聞くと、グラップラーバキのビスケット・オリバが思い浮かぶ。

ビスケット・オリバ

 僕の子供の頃って「マッチョ」はこんなイメージだったんだけれど、フェミニズムやらの文脈で意味が変わってきたらしい。こうやって言葉の意味が広がっていくことを「コンセプト・クリープ」というらしく、いつか記事に書きたいと思っていたが、コンセプト・クリープの好例だと思う。

なぜなら本というものはマッチョなものだからである。

 こんな言明は10年前なら意味不明だっただろう。読書と筋肉は結びつかない。

 議論が混乱しているのは、「マッチョ」という言葉がこの言語ゲームでどういった使われ方をされているか、誰も「定義」できないからだ。僕が先ほどの引用で読む限り「マッチョ」というのは「恵まれた強者」という風に読める。
 「ハンチバック」に「健常者優位主義(マチズモ)」と書かれているのは酷いミスリードであると思う。「マッチョ=悪」という図式が「知識人」の中に存在し、「マッチョ」という言葉で全てを断罪できる構図がある。言論界の「マジックワード」だろう。

 ↑フェミニズムの文脈で「マッチョ」を使う人

 ↑体力の文脈で「マッチョ」を使う人
 
  (仕方なく)ここでの「マッチョ」を「特権に恵まれた無自覚な強者」と置き換えて読むことにすると「読者とは特権に恵まれた無自覚な強者の営みである」となる。書きながら考える。

 僕は10年以上、トー横にいるような人たちと関わってきた。元トー横の風俗嬢の友達がいるのだが、ホラー小説が好きでよく読んでいる。虐待を受けていて家庭環境が悪く、精神障害持ちで自殺未遂を何度も繰り返している。「健常者」ではない。強者でもない。だけど読書はできる。
 僕自身も障害者手帳2級を持っており、日常生活が困難であるが、読書抜きの生活は考えられない。地元の図書館よりも家にある本の方が多い。ただ健常者ではない。障害者である。
 僕たちは「身体が健康で、教養を与えられてきた、運のいい人間」なのだろうか?僕は正規の教育はほとんど受けていない。身体も悪く、10回以上手術をした。両親は高卒で、家にはヤクザ漫画とエロ本とこち亀しかなかった。文化資本はゼロだった。
 僕の場合「ASDで異様に知識欲がある」「時間が有り余っている」という「生まれ持った性質と環境」が、読書へ導いたという気はする。ただ、恐らくこの人が想像しているような、金持ちのボンボンで文化資本が潤沢なマッチョという感じではない。
 一方で、全く読書ができない社会の底辺の人もたくさん見てきた。学習障害のような人もいた。僕は「心理療法の知識」や「東洋思想」によって心が楽になったので、そういった本を勧めてみるのだが、全く興味を持たない。だからといって、金持ちや高学歴の人間が全員読書家というわけでもなかった。「うつ病の顔して文学する男」みたいなネットミームもあるし、精神障害を持つことによって、文学に開かれるパターンも存在すると思う。

 ハンチバックで言われている「健常者優位主義(マチズモ)」が友人や僕のような「精神障害」を排除して「身体障害」だけを指しているとすると、それはそれで問題がある気がする。

本に苦しむせむしの怪物の姿など日本の健常者は想像もしたことがないのだろう。こちらは紙の本を一冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに、紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい。

ハンチバック

 昔に「障害者差別」についての本を漁ってた時期があるが「障害者殺しの思想」で読んだような、「健常者」に対する強い憎しみを感じた。ただの僕の信念なので読み流してもいいんだけれど、差別に対して「憎しみアプローチ」というのはやめたほうがいいと思う。「憎んでいる状態」というのは「苦悩」の状態だ。憎しみをやめて、冷静に考えた方がよいと思う。

 「読書はマッチョである」という言明は、個人的にとても気持ちが悪い。「本を読んでいる奴が偉い」という思想が根幹にある。実は「本を読んでいる人は偉い」というのは「本を読んでいる当人」しか思っていない。読書に興味のない人は、他人が読書をしていようがしてまいがどうでもいい。
 僕は「アートワールド」に全く興味がないが、「アートワールド」の内部にいる人は、アーティストが「偉い」と思うっぽい。猿山の中の話でしかない。
 読書や芸術といったものは「食べ物」や「セックス」や「名誉」といった「最低限」に関わることではないのだから、ここで「マチズム」という言葉を使うのは、この人の「読書至上主義」を表明しているようにしか思えない。

 障害者には、できることとできないことがある。当たり前のことだと思う。僕は他人と上手く会話ができない。社会に馴染めない。受け入れるしかない。できないことは、やらなければよいと思う。受け入れる。無理に「知識人」の仲間入りをしたいという意識が「マッチョ」に思える。

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