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後悔しない選択ってあるのかな?選択には2種類あるって話。

後悔しない”選択”ってあるのかな?

ぼくらはこども2人(1歳と3歳)と妻とぼくの4人家族。3月に仕事をやめてから移住先を探し、6月に家族で移住しました。住むとこも仕事もな~んにも決まってない中仕事を辞めたこともだし、移住場所だってそれこそ無数の候補地がある中で"選択"してある今。

今回は、移住先を探す間に学び考えた2種類の”選択する”ってことについてまとめました。

後悔しない選択はあると思う。それには結果は関係ない。

「選択した結果、思った通りにいかなかった。だからあの選択は間違ってたんだ…。あのとき違う選択をしていれば…。」

一度はだれもが悩んだことがありそう。これはつまり、そのときの選択を後悔するかどうかは、結果で決まるってこと

そらそうだろと思う?どうだろか?

ぼくはそうは思ってない。後悔するかどうかに結果は関係ないって思ってる。僕らの移住でいえば、これから大きなトラブルがあって、ここを出ることになっても、それで後悔することはないってこと。今そうなったことを想像しても、後悔にはならんなぁっておもう。

さらにいうと、結果が思ったとおりだとしても後悔することがあるってこと。

「ん…??そんなことはないだろ?」と思うかもしれない。

いったんさておき、じゃぁ後悔するかしないかは何で決まるのか?

ぼくは、選択の結果ではなく、選択の仕方で決まるとおもってる。

選択の仕方には2種類ある。能動的選択と受動的選択。

後悔するかしないかは選択の仕方で決まる。つまり、選択した結果じゃなく、選択しようとしているまさにその時で決まる。

その選択の仕方には2種類ある。能動的選択受動的選択の2つだ。

あまり聞きなれないかもしれない。

大雑把にいうと、能動的選択は自分の頭で考え自分で決めるってこと。反対に、受動的選択は自分の頭で考えず自分で決めない。受動的選択は、身体で感じそれに従うってこと。

能動的選択はしっくりくると思う。一方受動的選択は、ぴんとこない人もいるかもしれない。もう少し詳しく話をしたい。

能動的選択は一見よさそう。でも大きな落とし穴がある。

自分の頭で考え自分で決める能動的選択。ぼくらが想像する”選択”ってこうじゃないだろうか?

例を挙げたい。

ここにいくつかの選択肢がある。どれを選ぼうか?メリット・デメリットをあげたり、将来性はどうか、経済的にどうか、自分が何がしたいかとか紙に書いたりしながら考え、見比べて、「こっちにするぞ!」と、決定する。

一見なんの問題もなさそうだ。受験や就職のとき、こうやって考えた人も多いじゃないかな。もしかしたら結婚相手もこうやって決めた人もいるかもしれない。

でも、この能動的選択には大きな落とし穴がある

ひとつは、シンプルに苦しい。ぼくは大学の受験先を考えるとき、この能動的選択で決めようとしずいぶん苦しんだ。もしこの方法で移住先を決めようとしたら、今回もとんでもなく苦しんだと思う。どうして苦しいのか?

それは、くそ大変だから

それこそ無数の移住先候補がある中、この方法で決めようと思ったら、それはとんでもなく骨が折れるだろう。気候・温度・補助金・仕事・風土・食べ物・保育園・子供の数・実家との距離etc…。要素が多ければ多いほど、考えることは増えていく。その中で最善最良の選択をするのは、正直、無理なのでは?と思っている。

そして、仮に、考えに考え抜き、すべての条件にあった最善・最良の選択ができたとしよう。それなのに後悔する可能性がぼくはあるとおもっている。

なんでなのかは、受動的選択を説明の後だとわかりやすい。

受動的選択。後悔しない選択はこれしかないとおもってる。

受動的選択は、自分の頭で考え自分で決めない。受動的選択は、身体で感じそれに従うってことだ。

いまいちぴんとこないとおもう。具体的に話したい。

受動的選択は、その名の通り受け身だ。目の前に選択肢があり、どれを選ぼうかと考えない。能動的選択は、「これにする!」と自分で決定するのに対し、受動的選択は、「これだな~。」ってな具合に、出合うという感覚がある。個人的には、穏やかな、腹にすとんと落ちるって感覚が近い気がする。雷に落ちる、とかじゃない。

どの選択にするかは、自分の身体が教えてくれる受動的選択においてぼくらができるのは、動いて、感じて、身体が教えてくれるのを待つことだけだ。ぼくらが移住先を探すとき、常に心掛けていたこと。

ここまで話すと、能動的選択のもうひとつの落とし穴が浮かび上がってくる。それは、能動的選択は身体を無視しがちってこと。要するに頭でっかちってこと

どんなに頭で考えて、完璧で合理的で、現実的な選択を導き出す能動的選択ができたとしても後悔が残るからくりはここにある。身体が置いてけぼりになってるんよ。だから、どんなにうまくいったとしても、その選択には後悔が残っちゃう。それにほら、完璧で合理的で現実的な選択なんて、つまらなそうじゃない?

反対に、どんなに穴だらけで非合理的で非現実的な選択を導き出したとして、しかもそれがうまくいかなかったとしても、それが身体の感覚に従ったのであれば、後悔が残ることはないとおもってる。

「まぁしゃーないか。」ってところじゃないかな。きっと。

そしてまた、身体を頼りに歩いていったらいいんだと、ぼくはおもう。


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