「不安」が「恐れ」に変わるとき

あらゆる巷のゴシップが霞んでしまうくらい、世界は今コロナの話題で溢れている。

コロナの本当の恐ろしさは、コロナ自体にあるのではなく(生物学的には自己増殖すらできない生物未満の代物なのだから)、それによって引き起こる人々の不安の増殖にある。

まず第一に特効薬がない。そして次に、この状況がいつまで続くのか、つまり普通に仕事をして生活する平穏な日常がいつ戻ってくるのか、先行きがまるで見えない。

この二重の不透明性によって、不安がどんどんと増殖している。

しかし、哲学的には、コロナを媒介として"本来我々が心の奥底に抱いている不安"がただ表面化してきただけ、と捉えることもできる。

もともと人間にはシステムとしての(あるいは本能として、といってもいいと思う)「不安」があり、不安とともに生きている。

ちょうど、マグマに熱っせられた地下水が穴を掘ったときに湧き上がる様子とよく似ている。

地下水(不安)はもともと存在していたが、掘った拍子(コロナというきっかけ)で飛び出てきた、という具合だ。

人間は底知れぬ不安と常に隣り合わせに過ごしている。

ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーは、対処法が分からないものを「不安」、対処法が分かるものを「恐れ」と区別した。

今、人類は新型コロナウイルスという未知なものと闘っている。

このような不安をなくすためには、医療技術と情報を結集して、過去の事例から帰納的に対処法を抽出して学ぶことがより一層求められている。

まず人間は常に不安を感じている生き物だという境地に立って…

そして不安をなくす唯一の方法は、「不安」を「恐れ」に変えていくこと。

つまり、ハイデガー流には「"対処法"を正しく知ること」の一点に尽きる。

不安を不安のままにして徒らに連鎖させるのではなく、まずは多くの不安を恐れに変えていくことが必要なのかもしれない。

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