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散歩と雑学と読書ノート


早春の千歳川


エゾコブシとエゾヤマザクラ
例年より2週間ほど早く開花した

読書ノート

最近は小説を読む機会が少なかったが、この一か月ほどの間に私は三冊のそれぞれ異なるタイプであるが、いささか重い小説の世界に浸ることができた。

大江健三郎の「万延元年のフットボール」を読み終えて、まもなく村上春樹の6年ぶりの長編小説「街とその不確かな壁」が出版された。

村上春樹のファンである私は早速買っていつものように短時間で一気に読んだ。一気に読まさるところに村上文学の良さと問題点があるかもしれない。今回の作品はこれまでの作品以上に見事な比喩と軽いユーモアを用いてところどころに、たとえば「きみはぼくに恋をしていた(と思う)」といったふうにカッコのなかで突っ込みをいれて、春の小川のようにやさしく快調に流れていくので一層読みやすくここちよい読後感を味わった。ただし村上文学には本当は読みやすさに逆行するような難しさがある。

ところで、村上春樹の小説と比較するとはるかに読みずらく感じる大江健三郎の「万延元年のフットボール」の比喩も見事でさすがだと思った,最もやや過剰な気もしたが。私はこの小説を読み終えた今でも物語の世界につかりながらそれを咀嚼することで心が豊かにされていくように感じている。もちろんそのことは村上春樹の小説も同じである。

この記事を書き終えたら「万延元年のフットボール」を読む前から読みかけていた、SF小説「スノウ・クラッシュ」の続きを読もうと思っている。この小説は周知のように「メタバース」の語を生んだ小説である。そういうわけで、久しぶりに心の中が三冊の小説の世界でみたされて私は満足である。

ここでは「街とその不確かな壁」をめぐって少し感想めいたことを書かせていただきたい。

この小説は、作者が中途半端な形で出してしまって後悔しているという言う、1980年の「街と、その不確かな壁」の40年後の書き直しである。もっとも、すでに一度書き直しがなされている。それは1985年作の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」である。私は村上の作品ではこの小説が一番好きなので今回の作品には大いに期待していた。しかし、その期待は一部見事に裏切られた。

村上が今回書き直そうとしたのはあくまでも、高い壁に囲まれた街とそこに出入りする自分と影の物語である。あるいは意識と無意識のあいだにある壁を抜けてより深いところで本当の自分を発見していこうとする物語である。つまり、「世界の終わり」の書き直しである。私は「ハードボイル・ワンダーランド」も含めた書き直しと勝手に思い込んでいた。そのために期待が裏切られた気がしたのである。

私は以前から「ハードボイルド・ワンダーランド」や、「アフターダーク」の続きを読みたいと思っている。それはたとえば、悪を体現する「やみくろ」が地上に現れた世界で、メタバースもチャットGPTも飲み込んだ激しい暴力的な情報戦争が展開される物語で、人類がこの地球を破壊してしまうかもしれない現在的な状況に相対するハードボイルドな物語となるだろうというのが私の勝手な期待である。

今回の物語はぼくが17歳できみが16歳の時に出会い、恋におちいるところから始まる。きみは本当の自分は高い壁に囲まれた街にいるのだと不思議なことを言う(しかし、物語は不思議とは言わずに当たり前のように進行する)。きみはぼくがいつの日かその街に行って図書館で夢読みをする仕事に就く資格があるという。そこで本当の君と会えるけれでもその君はぼくのことをまったく覚えていないのだという。そのきみがあるときふっといなくなって二度と会えない。

本文の中で「恋愛というのは医療保険がきかない精神の病のことだ、と言ったのは誰だっけ?」というくだりがある。ぼくはきみに会えなくなったことでいわば長く癒えない精神の病を患うことになった。ぼくは40歳を過ぎてもきみとの恋愛を引きずったままでいる。

小説の中で村上は、コロンビアのノーベル賞作家、ガブリエル・ガルシア・マルケスの「コレラ時代の愛」を引用している。私はこの作家の本は「百年の孤独」を読んだだけなので「コレラ時代の愛」についてウィキペディアで調べてみた。そこには「初恋の女性を51歳と9か月と4日待ち続けた男の壮大な顛末を描いた」作品と書かれている。なるほど、私は引用に納得できた。

小説の中では、札幌から福島の村に移住してきて喫茶店を出している女性(村上の作品としては珍しく性行為のにできない女性)に、ガルシア・マルケスの語る物語は「現実と非現実とが、生きているものと死んだものとが、ひとつに入り混じっている」「まるで日常的な当たり前の出来事みたいに」と語らせている。主人公の私は「そういうのをマジック・リアリズムと多くの人は呼んでいる」と言う。女性は「そうね。でも思うんだけど、そういう物語のあり方は批評的基準では、マジック・リアリズムみたいになるかもしれないけど、ガルシア・マルケスさん自身にとってはごく普通のリアリズムだったんじゃないかしら。彼の住んでいる世界では、現実と非現実はごく日常的に混在していたし、そのような情景を見えるがままに書いていただけじゃないのかな」と言う。

村上のこの物語はまさにガルシア・マルサスと同様の批評的基準でいうマジック・リアリズムの物語である。

この小説を含めて村上の多くの作品はマジック・リアズム小説と位置付けてもよいだろう。

小説の「あとがき」で村上はコロナ・ウィルスが日本で本格的な猛威を振るい始めた(2020年の)三月の初めに、ちょうどこの作品を書き始め、三年近くかけて完成させた。その間ほとんど外出することなく、長期旅行もしなかったと書いている。そのことを考えると私は「街とその不確かな壁」はいささかオヤジギャグめくが、「コレラ時代の愛」を意識した「コロナ時代の愛」の物語と記憶しておきたいと勝手に考えている。

小説の中で、村上春樹がおそらくコロナ・ウィルスを意識しながら書いていると思われる個所がある。

主人公の夢読みの継承者となるイエロー・サブマリンの少年が街の不確かな煉瓦の壁は、疫病が街に入ってくるのを防ぐためにこしらえたものだと述べるところである。もっとも少年の言う疫病はウィルス感染によるものだけではなく、魂にとっての疫病(表象の感染)も含めてあらゆる種類の疫病を指している。

そうはいっても、少年の主張には無理がある。ごく普通のリアリズムからみると、人間はあらゆる種類の疫病(感染)に罹りながら成長し、生きそして死んでいくものだ。

そのように私は考えているのだが、それはさておき、4月19日の北海道新聞のインタビューで、村上春樹は物語の後半で少年が主人公の夢読みの継承者になることの意味に関して、「主人公は過去とのつながりをある意味で清算する。それは一種の救済になるのかな」と感じている。「或る者からあるものへと移行する中でどう意識が流れていくのか」を大事にして小説を書いてきた。「始まりと終わりで、主人公が何らかの意味で成長してほしい。……」と述べている。

主人公の成長は確かに意義深いものだが、私はそれ以上にこの物語の中で、明らかに発達障がい(自閉スペクトラム症)と考えられるイエロー・サブマリンの少年が成長する(発達する)姿が描かれていることに感動している。物語の終わりのあたりで、少年は主人公に向かって次のように言う。

「……ぼくは共感というものを少しずつ学んでいます。それはぼくにとって簡単なことではありませんが、ほんの少しずつでも進歩を遂げています。ぼくは多くのことをあなたから学び取りました」


                ***

2020 自費出版


「こころの風景、脳の風景―コミュニケーションと認知の精神病理―Ⅰ、Ⅱ」より


今回と次回の二回にわたって「身体と倫理」に関する論考を掲載させていただく。あくまでも一人の医師、それも精神科医の立場から見て書いている。一般的に見ても精神科医は医師の中では最も身体に疎い専門家である。そのための限界があると思う。
「倫理」という領域は、学問的に見ても、普通に生きている生活者の視点から見ても、現在とても重要で困難なさまざまの課題に直面している。筆者は「倫理学」の専門家から直接学んだことはない。そのための限界があると同時に、思わぬ誤謬に気が付かないかもしれない。ご批判を乞いたい。


身体と倫理(その1)


目次
1 はじめに
2 倫理の視点から見た身体の諸相
 *痛みを感じる身体
 *顔と倫理
 *食と性と身体
  (以下次回)
 *記憶と歴史としての身体
 *円柱形の袋と菅でできている身体
 *排泄する身体
 *共生する身体
 *ネットワークとリズム(振動、音楽)を形成する身体
 *ビックデータとしての身体
 *老いゆく身体、介護を受ける身体、終末期の身体
 *「遺体」と呼ばれる身体
3 おわりに


 1 はじめに

臨床医学は科学のみで成立しているのではなく。科学とは独立の倫理的原則と融合する事によって初めて成立する複合科学である。疾病の治療や予防のために何をなすべきか、何をなすべきでないかが決められるのは倫理的原則にそってである。そう指摘したのは、「無意識の発見」の著者エレンベルガーである。

今日一人の医師が臨床の現場で行う、おそらく初めての重要な倫理的行為はインフォームドコンセントである。インフォームドコンセントには一人の医師がもっている医学知識の限界と自分がその時点で行える医療技術の限界が反映される、そこに倫理的行為の端緒がある。その際に気をつけるべきことは、患者や家族の気持ちを配慮しながら理解しやすいように話しあうこと、さらにそれが治療上の責任を患者に一方的に押し付ける儀式になってしまわないことであると筆者は考えている。しかしそれは必ずしも簡単な事ではない。医療の現場ではまだ、インフォームドコンセントは充分に患者が納得いくような形でなされていないのが現状の様に思われる。

ところで、医学は科学倫理のみでなく、さらに技術を加えて成立している。以前筆者は某市立病院で倫理委員会の委員長をしていた時に、インフォームド・コンセントという行為をあえてひとつの技術ととらえてみることを提案した。インフォームドコンセントに関わる医師のコミュニケーション能力を、外科医のメスさばきのように習得すべき医療技術と考えてみたのだが、筆者の提案はあまり説得力を持たなかったようだ。

今日、臨床にたずさわる者が陥っている様々な困難の一部を倫理的問題が占めている、インフォームド・コンセントの困難さはその一つの例証に過ぎない。小論で筆者は、身体がわれわれにどのような倫理的問題を突きつけているのかを今一度、洗いなをしてみたいと思う。
 
                

 身体に関して中井久夫が「徴候・記憶・外傷」という著書のなかで、身体を多重性と捕らえる視点の延長上で、次のように述べている、「身体はひとつの宇宙のようなものです。宇宙を研究するために可視光線で撮影している場合もあり、X線で撮影している場合もあり、電波望遠鏡の場合もある。それぞれに別の像が得られますが、宇宙はそういう個々の見え方を超えて一つであるものでしょう」。そのうえで、以下のように、身体の像を、AからFまで六つにグルーピングし、さらに下位分類として二十八の様態を指し示す。興味深い分類なのであえて項目のみ引用しておきたい、

A心身一体的身体
 (1)成長するものとしての身体、(2)住まうものしての身体、
 (3)人に示すものとしての身体、(4)直接眺められた身体、(クレー
  的身体)、(5)鏡像身体(左右逆、短足など)
B図式(シェーマ的)身体
 (6)解剖学的身体(地図としての身体)、(7)生理学的身体(論理的
  身体)、(8)絶対図式的身体(離人、幽体離脱の際に典型的)
Cトポロジカルな身体
 
(9)内外の境界としての身体(袋としての身体)、
 (10)快楽・苦痛・疼痛を感じる身体、(11)兆候空間的身体、
 (12)他者のまなざしによる兆候空間的身体
Dデカルト的・ボーア敵身体
 
(13)主体の延長としての身体、(14)客体の延長としての身体
E社会的身体
 
(15)奴隷的道具としての身体、(16)慣習の受肉体としての身体、
 (17)スキルの実現に奉仕する身体、(18)車幅感覚的身体(ホール
  のプロキセミックス、安永のファントム空間)、(19)表現する身体
 (舞踏、身体言語)、(20)表現のトポスとしての身体(ミミクリー、
  化粧、タトウーなど)、(21)歴史としての身体(記憶の索引として
  の身体)、(22)競争の媒体としての身体(スポーツを含む)、
 (23)他者と相互作用し、しばしば同期する身体(手をつなぐ、接吻す
  る、などなど)、
F生命感覚的身体
 
(24)エロスに即融する身体(プロトベーシックな身体)、
 (25)図式触覚的(エピクリティカルな身体)、(26)臭覚・味覚・
  運動感覚・平衡感覚」的身体、(27)生命感覚の湧き口としての身体
  (その欠如態が「生命飢餓感」(岸本英夫)、(28)死の予兆として
  の身体(老いゆく身体―自由度減少を自覚する身体)

 

2 倫理の視点から見た身体の諸相

 
以上のように中井は極めて独創的な切り口で身体を表現している。以下著者が取り上げようとする身体の諸相はこの分類を念頭におきながら、身体を倫理というパースペクテブの下に眺めてみて取り出したものである。もちろん中井のようにはいかないが、あえて大げさな言いかたをすれば、小論は身体という宇宙(ミクロコスモス)を眺めながら、著者なりにとらえてみた倫理的星座の布置(コンステラチオン)である。

 *痛みを感ずる身体

 まず始めに痛みの問題から考えてみよう。激しい痛みのあるときはその部位に身体感覚のすべてが集中する。痛みへの対処はきわめて根源的な臨床的倫理の課題である。たとえば、終末期医療において、疼痛に対するモルヒネなどの使用を含めて、的確な痛みに対する対処は重要な倫理的行為である。我が国ではモルヒネの使用量が少なすぎるといわれていて痛みに対する対策は十分とは言えないようである。痛みを訴える者がいたら、その人を助けようと反射的に行動をとるのが当たり前であろう。痛みを訴える者はもちろんのこと、病める者を前にして助けようとする当たり前のなかば反射的なこの行動を、ここでは、臨床的倫理の第一の格率(起点)と捉えておきたい。

臨床医学において痛みはもっとも重要な訴えの一つであるため、バイタルサインに加えようという考えがある。しかし、現在は痛みを客観化することは困難である、たとえば、体温計のような役割の体痛計とでも言えるようなものができる可能性は極めて少ない、せいぜい主観的に痛みを10段階にあるいは、100%の範囲で分類してもらうことしかできない。きちんと定量化できない痛みはバイタルサインにはふさわしくない。そうは言っても、痛みは臨床の現場では重要な訴えである。痛み、発熱、疲労を三大生体アラームととらえる見方があることを強調しておきたい。

本人にしか経験できない痛みを他人がどうしてわかるのかということは、ヴィトゲンシュタインの重要な独我論をめぐる論考のテーマであった、たしかに、どんな名医であっても患者の痛みをまったく同じように自分の体で知覚することは不可能だが、しかし患者の痛みは平凡な医師にもきちんと伝わる。いや医師だけでなく普通の人にも他人の痛みは当然のようにわかるものだ。そして特に急性疼痛は、痛みに関する言語的な訴えと、表情を含めた身体状態を観察するだけで、どこがどの程度痛いのか医師にはすぐ分かるし、時には訴えだけで、正確な病名をつけることも可能である。もちろん、腹痛が心筋梗塞のサインであることもあり事態はそれほど単純ではないし幻肢痛、心因性疼痛、慢性疼痛、詐病による痛みとなると、さらに厄介な問題である。特に慢性の痛みに関する科学的な研究はまだ途上で難しい問題が残されている。

ところで、なぜ他人の痛みはヴィトゲンシュタインのように悩むことなく我々には簡単にわかるのだろう。近年の脳科学がその点に関してミラーニューロンの発見によってヒントを与えてくれた。もちろんミラーニューロンがどこまでの範囲にわたって他者のこころと関連しあえるのかはまだ不明な点が多いので、過剰にその役割を拡大して考えるのは用心が必要であろう。ともあれ、「痛い」という訴えを医療現場で接した時には、それを訴える相手の立場にそって救助することを倫理的な行動と考えることは極めて自然なことである。

ここで、ヴィトゲンシュタインが、独我論的な思考からいささか不器用に異なる視点(言語ゲーム的視点)を導入した後期の「哲学探究」のなかの一節を引用しておきたい。

「四〇七 誰かがうめいている。『誰かが痛がっているーわたしには誰だかわからない!』-これを聞いて、ひとがその誰かうめいている者を助けに急いでいく、といったことも考えることができよう」

何ともヴィトゲンシュタインらしい迂遠な印象の残る言いまわしであるが、ここでは他人の痛みをめぐる考察がそれまでの論理的、言語学的分析を離れて助けるために行動を起こすというレベルに飛躍することによって倫理的水準への転嫁をはたしたとみてもよいだろうと私は考える。

私は十分に読みこなしているわけではないヴィトゲンシュタインを持ち出してしまったのは、いささか独断的な印象だが、私には痛みをめぐる彼の考察に変遷がみられることが興味深く感じたこと、また彼の書いたものがどこか倫理的に思えてしかたがなかったからでもある。

しかし、彼はその倫理に関して次のように述べているという。「倫理的な事柄について意味あることが語られると考えること自体が哲学的にみて誤りである」「これまで、倫理的な事柄について語られてきたおおくはむだ口である」

*  顔と倫理

臨床倫理の基礎論としてレヴィナスの倫理学を掲げる考えがある。つまり、レヴィナスが顔をめぐる哲学のなかで、他者の顔が意味する倫理的な規範としてあげている、「殺すな」という指示と、「責任(応答責任)をもて」という指示を臨床倫理の基礎とする考えである。しかし、筆者はレヴィナスの倫理学をとりあげて論じるに充分な能力を持たない。彼の倫理学の背後には深い哲学的考察があることはもちろんだが、同時に第二次世界大戦で、多くの身内がホロコーストの犠牲になったこと、彼自身が収容所で長年捉われの身となった、生還者であったこと、また彼にとってのユダヤ教の影響などがあったものと思われ、筆者には安易にレヴィナスの倫理学を述べることができない気がしている。

しかし、ここであえてレヴィナスを持ち出したのは、身体の中で顔が指し示す倫理的な意味を、彼が「殺すな」「責任をもって応答せよ」という極めて強力な言葉で表現していることに、筆者は強く惹かれるものがあったからである。とは言え臨床倫理を考えたときに、「殺すな」という表現をそのまま持ち出すことには躊躇を感じる。医療的な行為が、人の身体を合法的に傷つけることを許された数少ない行為の一つであることを考えて、「安易に傷つけるな」という表現をここでは用いておきたいと思う。そして医療倫理の第二の格率(起点)に、「身体(心も含めて)を安易に傷つけないこと。傷つけることは最小におさえること」そして「責任をもって応答し、対処すること」を挙げておきたい。

ところで、レヴィナスのいう顔には彼独特の概念がこめられているが、以下ではそれから少し離れて普通の意味での顔をイメージして述べてみたい。顔にはその人の身体や人格を代表する役割がある。通常、顔以外の身体部分は衣服に覆われることが多く、そのままの姿をさらすことは顔ほど多くはない、しかし、顔は文字通り素顔を他者の前で出しながら接触することが普通である。しかも、私たちは自分の顔やその表情を直接見ることはできない、顔は自分のものでありながら自分の自由にはならないものでもある。顔は他者が見るもので、他者に向けられた自己の表現者であり、他者に向けられたメディアである。ここでは顔の持つメディア性ということを筆者は強調しておきたいと思う。また顔は自己の存在証明書である。医療の現場では、各個人の存在証明は顔のみで十分とは言えない場合もあるが極めて重要な事である。たとえば手術の際などで患者を取り違えてしまうという本来ならありえない事故が発生してしまうことがある。各人の個別の存在証明を一歩間違えると命にかかわってくるのである。

病気を持つ者のメディアとしての顔は多くの情報をもたらしてくれるし、医師の側からの顔による情報の伝達は倫理的な意味合いからも重要なものである。しかし、今日臨床の現場では医師はパソコンと睨めっこで患者の顔を見て診察しないと批判を受けている。残念なことである。最もこれは急速にAI化する医療の世界では過渡的な現象であるかもしれない。近未来には医師のやるべき仕事の内容も大きく変貌しているだろう。可能性の一つとして、顔と顔を合わせた人間同士のコミュニケーションがいまよりはずっと重要な医師の仕事になっているかもしれない。

付記
この記事はコロナ禍でみんながマスクをするようになる以前に書いたものである。筆者は診察室の環境が早くコロナを意識しないですむ状態に戻ることを願っている。しかしコロナ以後の社会ではマスクを外したとしても顔に関する認識に筆者が述べたものとは異なる何らかの変化が加えられるかもしれない。

              

筆者が痛みと顔をめぐる身体のありようからやや独断的に抽出した臨床倫理に関わる二点の格率(起点)をここで、改めて記載しておきたい。

 1.病める者を前にした時に自然にその人の立場に立って行う援助の行動を倫理的な第一の起点とすること

 2. 援助の行動に当たって、身体やこころを安易に傷つけないこと、傷は最小限度に抑えること。また病める者には責任をもって応答し、対処することをもう一つの起点とすること。

格率などと仰々しいことばを用いたが、書き出してみると当たり前のことを述べたに過ぎない。倫理的行為とはそうした当たり前のことを当たり前に行うことであろうと筆者は考える。そして、それゆえの困難性があるとも考える。

   食と性と身体

ヒポクラテスの誓いの中にも医師は、「わたしの能力と判断力の限りをつくして食事療法を施します」、「あらゆる故意の不正と加害を避け、とくに男女を問はず、自由であると奴隷であるとを問わず情交を結ぶようなことはしません」と食と性に関わる医師の倫理的行為にかかわる規定が簡潔に書かれている。

食は身体の維持にとって、また人間の楽しみごととしても極めて重要である。あくまでも本人が望む食生活が病の時にも続けられることが大切な倫理的命題である。近年そのための様々な工夫や配慮がなされるようになってきたことは喜ばしいことである。また食行動のためだけでなく糖尿病や認知症などの予防のためにも、歯を含めた口腔内の衛生の重要性が注目されていることも重要な前進である。

食事の摂取ができなくなるような身体状態や、精神状態のときにどう対応するかは医療の重要な役割である。また時には究極の倫理的な選択が要請される問題でもある。

あくまでも、口から直接食べ物を摂取できるようにすることを追求することが第一である。それが出来ない時に点滴や胃瘻を選択することになるが、胃瘻に関しては近年批判的な意見もある。いつどのような場合にこの選択が的確と言えるのだろうか。また食を中断することも、癌の終末期のような特別な時期には一つの選択枝になるかもしれない。それは言うまでもなく極めて重い倫理的な選択である。そのてんにかんしては終末期の延命治療にふれる際にもう一度考えてみたい。

次に触れたいと思う、性と倫理の問題も極めて大きな問題であり難しい問題である。近年話題になる機会の多いLGBTやセクシャルハラスメントの問題を含めて、筆者ははここで十分に触れる力量がない。いずれにせよ、性に関わる医療行為を行うときの医療者の心構えが重要であり、また医療機関のしっかりとしたシステム作りも必要である。多くの病院で食や性に関係する委員会が設けられるようになっていることは大きな前進である。もちろんそれが的確に作動しているのかどうかが問われることになることは言うまでもない。

 臨床現場での性の問題はこれからの課題とさせていただき、ここでは、食と性と社会と文化との関連で、フロイトが展開した課題についてすこし触れておきたい。

フロイトが食と性という2大本能のうちどちらに重きを置くか、若干の躊躇を見せながらも性の本能を自らの理論の中核に据えたことは、よく知られた事である。また性と関連して家族や社会の起源問題や個の精神的葛藤の問題を考えるために、エディプス神話をもとにエディプスコンプレックスの概念を提出したこともよく知られている、確かに家族の起源が大人の男女の性的な結びつきにあり、さらに他の家族との相互的な絆のもとで家族が維持されるために、イノセントの回避と外婚制の導入という性に関連した規範の成立が必要であった。

同時に今日、性のみでなく食もまた家族や社会の起源にとって重要な意味を持ってきたことが知られている。たとえば、人類学者の山際が指摘している父(社会的父)の成立と家族の起源の問題がある。山際は食物を集めて持ってくることに父の役割があり、それを一緒に食べることで人間的な家族が成立するようになったという。それは性別による分業の問題でもある。

またレヴィ・ストロースが示した火の獲得や料理をめぐる神話群、食を巡るタブー、あるいは食と性の絡み合った神話群などは、エディプス神話におとらず人間の精神の在り方や、特に人間が自然状態から文化的状態に飛躍する際に、食が重要な役割と意味を帯びていたことをうかがわせる。食と性をめぐる神話群は、集団内や、集団間の社会の形成や維持に重要な認識の根拠を与えている。レヴィ・ストロースは著書「パロール・ドネ」のなかで、次のように述べている。

「じっさい、女性は食料と同じく集団間で交換され、種類も最も豊富な食糧を享受する喜びを、神話はそれぞれの小社会が外部に開かれていく機能として描き出されている。その開かれ方は、婚姻交換の活発さの程度に従っている。このように、神話は現実の生活の諸形式から照らし出されているのだが、それと同時に神話は現実の生活の諸形式に光を当てているのである」

食は個体の維持に、性は種の維持に特に関与する営みであり、両者がかみ合わなければ人類の存続はおぼつかない。その為でもあろうか、食や性に関係する身体機能には快感や嫌悪や攻撃的情動が巧みに振り分けられている。また性に関系するメタファーに食をめぐる言葉がしばしば使われもする。このように見てみると、少なくともフロイトには、食と性の両方の本能的刺激と精神に及ぼすその影響を理論の中心に据える選択があったのではあるまいか、今日、食をめぐる精神的な問題は過食や拒食を含め意外と広範囲の精神科的な問題を提出している。それは、フロイトが追求した性と精神の病の関連と同じように重要な意味を持っている。フロイトは性に関与する身体レベルの部位を全身に及んでいるとしながらも、生殖器系以外には特に、本来的には食にまつわる機能を担っている、口唇や肛門に重要な位置を与えていることも意義深いことである。フロイトはおそらく自らの精神分析を性のコードにのみ強く位置づけ過ぎたと言えるのではあるまいか。

食と性と文化に関しては以前から議論もなされていて結論は出されていない難しい課題でもあるのでこのぐらいにしておきたい。

ただエディプスコンプレックスに象徴されるように,性が文化や社会のありかたに深く倫理的に関与していると見なしてよいであろう、食に関しても同様である。今日、社会や文化の危機が様々な形で家族に影響を及ぼしている、家族の危機は、個々の家族成員の身体の危機にもつながる問題である。虐待による幼い子供の死などはその悲劇的な事例である。今後とも食と性という生物学的な基盤に根ざして形成された家族は存続し続けるのだろう、それが健全に維持されるために求められる社会的倫理的な課題は重い。

付記
ここでの性をめぐる記述は極めて不十分で記事を完全に書きなおすことも考えたが難しいと感じたため、この付記のかたちでコメントさせていただき、この問題に関しては別な機会に触れることができたらと思う。

筆者は性に関する生物学的な研究が急速に進んでいることに多少の知識を持ってはいたが、最近読んだ諸橋憲一郎著「オスとは何で、メスとは何か? 性スペクトラムという最前線」(NHK出版新書、2022)でより詳しく知って、あらためて「目からうろこ」の体験をした。

性別は男性と女性という二つにきちんと区分けできるように成り立っているのではない。むしろ性別は双方の特性を異なる割合で持つグラデーションと見たほうが生物学的には正しいという性スペクトラムの概念をもとに現在の研究が進行している。

受精の段階で性染色体がXYであれば男性、XXであれば女性と100%決定できるものではない。たとえば、性腺原基から精巣や卵巣が分化してくるが性腺原基は性染色体がXXであろうがXYであろうが精巣と卵巣のどちらにも分化できるのである。性というものはむしろ連続しているとみなしたほうが良く、性スペクトラム上を生涯変動しているとみてもよいのだというのが性スペクトラムの主張である。性スペクトラム上の変動には性決定遺伝子と性ホルモンの働きが重要なカギを握っている。思春期には性ホルモンのはたらきをうけて第二次性徴が決められいる。もちろんそれにはグラデーションがある。

脳の性差も遺伝子や性ホルモンの影響を受けているが、脳の場合は二つの観点が重要である。一つは自分の性をどのように認識しているかという「性自認」の観点で、もう一つはどちらの性を恋愛対象としているかという「性指向」の観点である。そしてそのありようは実に多様なスペクトルをなしているという事実を我々は知っている。脳の性認識を男性、女性と二極化して認識することは不可能であることもよく知られた事実である。近年の性の生物学的研究はもちろんまだ未知の部分もあるが、そうした事実の生物学的な根拠を科学的に解き明かしてくれている。LGBTなどの性のマイノリティーとみなされてきた人たちを科学的な根拠に基づいた当たり前のありようとして我々の社会は受け入れなければならない。それが当たり前の倫理的行為であり人権を守ることである。

筆者は社会がそのように変化することを強く願っているしそれが実現した時には、家族に対する認識にも変化が生じより豊かな社会になるだろうと期待している。                    つづく



  

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