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もちに願いを。

 年の瀬になると、いろんな人のことを思いだす。十年二十年会っていない人や、まだ会ったことがない人のことも。師走は人の心を感傷的にさせる。

 仕事納めは三十日の十八時から始まり、三十一日の昼、十二時過ぎに終わった。前代未聞、十八時間の労働だった。

 最初の八時間はなんとか早く仕事を終わらせようと、タバコ二本分だけの休息で乗り切った。
 そこへ、営業を終えた店舗の伝票と売上げがやってきた。俺は飲食の店を何店舗か経営する会社で事務なのか経理なのかホールスタッフなのか分からない立場で働いている。年末の数日間は、俺が抱えてる事務作業の量を察して、ホールの人間は忙しい中、ギリギリまで俺を引っ張り出さないように頑張ってくれていた。

 その甲斐なく、この時間までに終わらせる事の出来なかった作業に、追加でいつもの締めの作業が乗っかった。ただいつもより伝票が多かった。そのうえ年末で、今日の売上げを合算して出さなければいけない数字も多かった。
 俺はあきらめて、コンビニへ行き、パンと本日三本目の缶コーヒーを買った。

 パンを食いながら、片手で作業を続けた。税理士の顔が浮かんだ。
 作業していると、次から次へと事務所に人が訪ねてきた。仕事を終えた連中が、わざわざ年末の挨拶をしにきてくれたので、無下に扱うわけにもいかず、少し話しをして、何度も、「よいお年を」という言葉で会話を締めくくった。 
 そのうちに社長がきて、お年玉をくれた。俺はお礼を言い、そのままポチ袋を上着の内ポケットに突っ込んだ。ありがとう社長。よいお年を。

 もう誰も来ないだろうと思っているところへ、後輩が二人訪ねてきて、「飯を食いに行こう」と俺を誘った。それで俺は、仕事をほっぽり出そうとした。ちょうど今さっき金を貰ったところだ。
 二人は、「仕事が終わってからでいいですよ。手伝いますんで」と言った。俺は残りの仕事量を考えて、「終わらないかもしれないぞ」といった。

「今行っても、戻ってきて仕事するんでしょ。それだと酒が飲めないからつまらないでしょ」

 飯を食うというよりも、今年の仕事を納めて、労をねぎらいながら一杯ひっかける。二人はそういうサラリーマンみたいなことがしたかったのだ。それで俺は、二人を地獄へ引っ張り込んだ。

 二十代をフリーターとして適当に過ごした俺は、いろんな場所で働いた。一緒に働いていた連中は今頃なにしてるかな? と思った。社員だった人は今も同じ場所で働いているのか。バイト仲間だった連中はその後どう生きているのか。

 むかし阿佐田哲也の麻雀放浪記を読んで感化され、雀荘で働いたことがある。麻雀が打てなくてもOKと求人誌に載っていたそこは、カラオケボックスに似た作りで、五十だか六十ある個室へ一日中オーダーを持って行くことが仕事だった。

 大卒の新入社員がいて仲がよかった。彼は時折、同じ世代の俺に、「太郎君は将来どうするつもりだ」と言った。俺は恥ずかしげもなく、「小説を書く」と公言していたので、それが将来だと思っていたが、就職氷河期のあおりを受け、大学卒業してまで雀荘で働いている彼からすれば、将来はそんなに楽観的なものとは思えなかっただろ。彼は「将来心配症候群」にかかっていて、俺は「ピーターパンシンドローム」だった。どちらも時代へ対して若者が適応しようとした結果の病だった。

 当時、ハードオフで買ったWindows meと一五〇〇円のプリンターを使い本を作った。それを、雀荘の店長が十冊買ってくれた。若くて顔が整っていたが、歳の割に元気がない男だった。今考えると店長は疲れていた。いつも店にいたし、働き過ぎだったんだろう。
 決定的な理由があるわけではなく、フリーターの本能で俺がバイトを辞めたときに、店長は焼肉に連れていってくれた。不思議な男だと思う。普通これから頑張って働く人間に奢るだろ。

 そのときに、「いつかお前の名前を本屋で見かけるのを、密かに楽しみにしてる」と言われた。

 雀荘のバイトを辞めて七年ほど経ったときに、なにをしているのか知らないが羽振りがいい男と知り合い、少し話しをした。そいつは、俺がバイトしてた雀荘によく行くらしく、店長のことも知っていた。雀荘だけでなく、パチンコ屋とかボーリング場とか、田舎のレジャー関係の店を何店舗もやっているでかい会社で、出世をすると経営陣として引っ張り上げられると知っていた。元気がないだけで仕事は出来たはずなので、出世しているもんだと思っていたが、どうやらまだ店長は現場にいるらしかった。

 懐かしくなって、久しぶりにサイトを見てみると、高齢者相手の健康麻雀教室というイベントを開催しているらしく、講師として店長の名前と写真があった。個性的な下の名前はそのままだが、見た目はいくらか老け、名字が変わっていた。婿養子に入ったわけではないはずだ。なぜなら俺がバイトしていた当時すでに店長は結婚していたから。なら婿養子に入っていたものが抜けたのか。なんにしても店長、年寄り相手に麻雀教える程度に元気ならそれでいいよ、人生なにもかもは上手くいかない。

 こういう具合に、時々誰かを思いだしながら、三時間半ぐらい仕事を続けた。手伝ってくれている二人の顔にも疲労が見えた。
 俺も集中力が切れて作業効率が悪くなっていた。それで頃合いを見計らって、「もういい。終わりだ」と宣言した。二人はほっとした顔をした。

「寿司を食おう」という提案に二人とも同意した。大晦日だということが、贅沢する言い訳になった。それで二十四時間あいている寿司屋に行った。

 混んでいて、赤だしの後がなかなか出てこなかった。
「年越しそばって何のために食べるんですか?」という年少の後輩の問いに、俺は、「大晦日にそばを食べると、そばの持つネイチャーパワーを体内に取り込める」と適当な言葉を返しながら、むかし一緒に年越しそばを食べた女のことを思いだした。

 年末はいろんな人のことを思いだす。俺たちの世代のSNSはmixiとFacebookだが、どちらも、もう誰も更新していない。インスタとツイッターには知らない人が並ぶばかりだ。みんな元気かな。連絡がつく連中には、年が明けたら新年の挨拶をLINEしようかとも考えるが、普段まめじゃないだけに、急に連絡するのが、なんだか寂しいですよと言っているように思えて、いつも結局しない。

 普段はずっと開けているはずの寿司屋が、七時で店を閉めるというので、そこでお開きになった。
「よいお年を」と言って別れて、俺は持ち帰ったデータをもとに、仕事を続けた。瓶ビールで頭が鈍くなっているように思ったが、もとからこんなもんだったような気もした。

 マックス・フェルスタッペンや古性優作はどんな風に三十一日を過ごしているのかなと今年のF1と競輪のGPチャンピオンのこと考えた。そして彼らに負けたハミルトンや平原のことを思った。
 今年が終わる。そして勝者にも敗者にも関係なく新しい年がくる。

 十二時半まで仕事をして、「ちゃんと起きて、晩飯は一緒に食べる」と嫁に約束をしてから横になった。

 不思議だった。世の中にこんなに沢山の人がいて、いろんな人と出会ってきたのに、みんなが、どこで何をして今年最後の日を過ごしているのか分からない。ただ嫁がYouTubeを見ながら笑っていること以外は。

 あけましておめでとう。もちに願いを。

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