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仕事辞めてロシア留学したら戦争始まって計画パーになった話~風俗店勤務・留学開始編~

地元と営業と私

 転職は大成功であった。扱う商材も、業務内容も、待遇も、全てが文句なしであった。以前と比較して余力のある所得は、貯蓄してなお趣味の幅を増やしてくれた。昼前まで寝てもなお余裕のある余暇時間の増大は、趣味の深度を深めてくれた。そして深まった趣味は、営業トークの「弾数」を増やしてくれた。ますます営業は捗り、仕事と私生活が相互に利益をもたらす好循環で回り始めたのだった。そんな仕事で私は地元を東奔西走し、文字通りにありとあらゆる顧客を相手に営業を展開し、充実感を感じて仕事をこなしていたのであった。

 しかし私は仕事を通じて、二つの点に気が付いたのであった。

 一つは衰退して行く私の地元の姿であった。80歳を超えた高齢夫婦が切り盛りする精肉店、後継ぎの居ない寂れた自動車整備工場、老老介護をしながら営まれる床屋、それでも元気で前向きに暮らしている人々のひたむきな姿…。冷房の効いたオフィスビルで文字と数字を追いかけていては決して理解することが出来ない、地元の「ありのままの姿」を知ったのだった。

 私は将来的に、家庭を持ちたいと考えている。子供は少なくとも2人は欲しいし、自分が親から受けたレベルの教育は最低限でもしてやりたいと思っている。そのためには、現代のサラリーマンの収入ではその実現が厳しいことも理解している。夫婦共働き、実家暮らしでようやく実現できるものだろう。

 私は地元の衰退の現実を「理解」してしまったのだった。子供を十分に育てるためには地元に根付く必要があるが、地元に根付いては経済的に伸びしろがないというジレンマに気が付いたのである。更に言えば少子高齢社会の進行は、さらに家庭を持つことのハードルを高くするだろうと、容易に想像が出来たのであった。


 これらの困難を乗り越えるためには、何をすればいいのだろうか。


 当時の私が至った結論は「自営業」であった。経営者は『当たりさえすれば』資本力が労働者のそれとは桁が違うのだ。これは前職で数々の企業や事業主、経営者層の財務諸表を見てきたのでよく理解していた。
 また営業を通じて、これは無礼を承知で言う事であるのだが、「こんな人間でも社長になれるのか」と言うことを目の当たりにした結果の結論でもあった。

「俺でもできる」と、浅はかながら思ったのである。

 そしてもう一つ気が付たことは、自分自身には「何もない」という現実であった。前職の金融業もそうであったように、当時の仕事も、所詮は会社の看板、会社の名前で仕事をしているに過ぎないのだと、気が付いたのである。
 私が何億円という金を動かしたのは、単にそういう会社に所属していたからに過ぎなかったし、営業で好成績を出せているのも、名のある商材を私が運んでいる過ぎないのであった。

 営業にて事業主や経営者と話をしていると嫌でもわかるのが、こういった自分の「薄さ」であった。彼らにはそれぞれのドラマと苦労と、歴史があった。それまでの私もそれなりの苦労はしていただろうが、所詮は子供の世界のちっぽけな苦労に過ぎない。「大海」を知ってしまった私は、突如として「自我」の揺らぎを感じてしまったのであった。


「自分は一体何者なのか」を知りたくなったのである。


 他人のふんどしではなく、自らの力で何が出来るかを知りたくなったのである。


 私はこの時、「日本を出よう」と決心したのであった。


ロシア留学への道

 とは言ったものの、当時も今もコロナ禍であり、外国に行くぞと簡単には言ってみても、なかなか目途の立ちにくい情勢であった。ロシアという選択肢はあくまでも候補の一つに過ぎず、青年海外協力隊への参加も検討していたし、インドへの留学も考えていたのであった。

 どうにかして海外へ行けないものかとあれこれと考えていた折、私はロシア語の先生が日露間の留学の仲介をしていることを知ったのだった。

ロシアにて長年大学教員をしていた先生は、ロシアにてコネクションを多く持ち、日露間のビジネスを展開していたのだ。

 私は先生に、海外留学を検討している点とその候補としてロシアを考えている点を打ち明けた。先生は喜んで相談に応じて下さり、様々な資料や、過去の留学の事例を教えてくれたのだった。

 これは私には、まさしく人生を変える大きな転機の様に感じられたのであった。

 ロシア留学を決意するのには時間はかからなかった。他に検討していた青年海外協力隊は、そもそも採用されなければ現地に行けないし、採用されないことに関しては私は誰よりも自信があった。またインドなどは、とてもではないがコロナの落ち着く見通しが立たなかったので、金と時間さえ工面できれば何とかなるロシア留学の方が、まだ実現の可能性は高く思われたのであった。

 しかし留学するにしても年単位で行かなければ語学力はそうそう身につくものではない。私は一旦1か月程度を現地で生活し、環境や相性をある程度心得た上で、改めて準備を整えてから年単位の留学をしようと考えたのであった。

 また迷惑と金をかけてしまうな、と内心気後れしながらも、私は両親に海外留学の決意を打ち明けた。呆れられるだろうかと内心ひやひやしたものだったが、 実際には反対されるどころかむしろ「やっと外に出る気になったのか」と背中を後押ししてくれたのだった。

 そして自営業を将来的に営みたいことについても相談した。両親はこれについても理解を示してくれたのであった。両親も私と同様、今後の日本においてサラリーマンの収入だけで家庭を持つことの難しさは、肌身に感じていたのである。


 問題は何を営むのかであった。


 当時の私は「貿易商」をその有力な選択肢として考えていた。せっかくロシア語を学び始めたのだから、交流の少ない日露間で一旗揚げれば、努力次第で何とでもなるだろうと、生来の楽観的な考えによって漠然とそのように思ったのである。

 こうして私のロシア留学の準備と、何の青写真も描けていない日露貿易商への野望が始まるのであった。

二度目の退職

 私は営業をする傍ら、ロシア留学への準備を着々と進めていった。そんな中ででもなにより重要な準備が、ロシア語の習得であった。留学を決意した時点ではまだロシア語を習い始めて半年程度しか経っておらず、格変化どころか数すらも覚えきれていなかったのである。少なくとも留学生活に耐えうるだけの知識を身に着ける必要があった。

 この為、私はリモートワークとフリースタイルの営業方法を、惜しみなく活用したのであった。労働時間のほとんどをロシア語の勉強に充て、営業はテレアポのみに絞り、アポイントが取れた場合のみに営業を行っていたのである。当然ながら営業成績は目に見えて落ち込んでいくのであった。

 とは言えそれまでの成績の「貯金」もあったため、私にとって営業不振は問題にならなかった。また新サービスの提供の開始と時期が重なった点も追い風となってくれたのだった。従来までの商材から営業の中心が移り変わっていったのだ。新サービスの稼働直後のしばらくは、現場の混乱と不慣れを理由に、営業成績が振るわなくとも咎められることはない、という環境を私は最大限に活用したのであった。

 やがて国内外のコロナの感染状況もやや落ち着き始めた。私自身もワクチン接種の2回目が終了し、ある程度の条件を満たせば国外へ行くことも可能になり始めたのであった。

 仕事を放棄し勉強に全振りした結果、なんとか現地生活に耐えられる程度のロシア語は身についた。また留学費用の見積もりも出揃い、「留学のための留学」の準備は完了し、留学の日程も決まったのであった。


往路
2022年1月29日、日本時間午前8時10分羽田空港発
同日、モスクワ時間午後12時45分シェレメーチェボ国際空港着
SU261便

復路
2022年2月25日、モスクワ時間午後6時25分シェレメーチェボ空港発
翌日、日本時間午前9時55分羽田空港着
SU4670便


 以上が私の留学日程であった。

 

 私は退職の意思を上司に打ち明けた。ロシアと言う国は様々なトラブルが起きる国である。特に書類手続きなどでは「不慮の事故」や「技術上の問題」が頻繁に起きる国だ。留学まで時間の余裕は十分に見る必要があった。また勤務先の営業体制も、新サービスの打ち出し直後の混乱が落ちつきはじめ、いつまでも仕事をせずに給料だけもらうことも難しくなり始めたのであった。

 1年にも満たない勤務であったが、退職理由は留学という前向きな物であったので、同僚や上司の誰しもが「頑張れよ!」と励ましてくれた中での退職であった。

 とは言え留学予定日まで数ヶ月の間があったので、その間ずっと無職というわけにもいかないのであった。私はせっかくなので「何か面白いバイトをしてみよう」と思い至った。ふと親友のF君の実家がラブホテルを営んでいたことを思い出し、「俺もあいつと同じ業界を知りたいな」と言う思いから、私は風俗店のバイトを探し始めたのであった。


風俗店と留学と

 それまでの就職活動と異なり、バイト先はすぐに見つかった。私が勤めることとなった店舗は高級店であった。一番安い料金でも3万円以上はかかり、店内も白を基調とした綺麗な内装で整えられ、キャストもレベルの高い女の子が多く所属する店舗であった。私はここでキャストや客の送迎、電話予約の応対や会計といった受付業務を行い始めたのであった。

 店舗には色々な層の客が日々訪れては、愉快な経験をさせてくれた。私がそうであったように、初体験をしに来た大学生も多くいたし、お金を持て余したおじさんも多くやってきたのだった。1人のキャストを1日貸し切る為に30万円近く払う人も中にはいたのだった。あまり大きな声では言えないが、かつて勤めていた会社の顧客だった人が常連だったのは内心大笑いしたし、行きつけのメイド喫茶の常連仲間も遊びに来たときは、お互い顔を合わせて笑いあったものだった。

 ここでは9時から17時までのシフトで入り、サラリーマン時代とさして変わらない勤務時間であった。客が来る時間帯は決まっていたので、受付と案内さえ終わってしまえば、しばらくは暇な時間となる。留学までの勉強をするにはちょうど良い環境であった。しかし決して不真面目に働いていたわけではなかった。むしろ今までの仕事以上に真面目に勤めていたともいえるだろう。金融や営業をこなしてきた私は、あれよあれよと主力メンバーとなり、入店から半月も経ったころには店舗運営で欠かせない存在となっていたのである。

 しかしそんな楽しいバイト生活も、3ヶ月目には急転直下の出来事を迎えたのであった。

 メインの先輩スタッフが飛んだのだ。

 従業員が飛ぶことなんて言うのはバイトではよくある話だし、アンダーグラウンドな仕事の性質上、どうしても付きまとう問題であった。しかし私にとってこれは大変な出来事であった。飛んだ先輩スタッフは他のスタッフのまとめ役でもあったために、あれよあれよと他のスタッフも後を追うように飛んでしまい、やがて片手で数えられる程にまでスタッフは減っていったのである。

 ただでさえ主力メンバーの一人とみなされていた私は、急な欠員によってさながら店長の如く働かねばならなくなった。よりにもよってロシア留学が目前に迫った頃、私はワンマンで店舗を動かす羽目になったのである。キャストのシフト調整、送迎の手配、売り上げ管理、予約対応、来客対応、広報、そして接客案内と接客後の対応、掃除などをこなさねばならず、やっていなかったのはもはや本番行為くらいなものであった。

 とは言え留学までの短期バイトという前提で働いていたので、終わりの日は予め決まっていたのが幸いであった。怒涛のような数週間を経て、モスクワ留学の日まであと1か月となった2021年末、私は風俗店を後にしたのだった。もう二度とこの業界で勤めることはないだろうな、と思いながら・・・。


めざせモスクワ

・2022年1月28日金曜日 モスクワ留学前日

 モスクワ行きの飛行機は8時10分発と朝早いフライトであったので、私は羽田空港に前日入りせねばならなかった。地元の空港を飛び立つ際には、両親、ロシア語の先生、地元の友人らが見送りに来てくれて、私の未知の冒険の無事を祈ってくれたのであった。

 ロシアに入国するためにはPCR検査で陰性証明を取得する必要がある。「ここで陽性になったらすべてがご破算だ!」と、私は心から陰性の結果を祈りながら、羽田空港内にて検査を受けた。感染リスクには十分注意を払っていたが、万が一と言うこともある。この時は大学の合格発表以上に緊張していたのであった。

 もちろん結果は陽性となり、隔離施設で泣きながら一夜を過ごす羽目になったということはなく、私は無事に陰性証明を取得できたのであった。この時、本当の意味でモスクワ留学の準備が全て整ったのである。


・2022年1月29日土曜日 モスクワ留学第一日目

 早朝、私は祖国を後にした。ソ連時代から続くロシアの航空会社、アエロフロート社の飛行機は羽田の滑走路を離れ、一路モスクワへと飛び立ったのである。
 やがて機内食が出され始める。当然ではあるがキャビンアテンダントは誰しもがロシア人であったので、ロシア語にてオーダーをする必要があった。果たして私のロシア語は聞き返されることもなく、意図したとおりに通じた。私は無事に機内食とビールにありつけることが出来たのであった。出されたビールがロシア製の物であったことに気が付き、「ああ本当にロシアに行くのだな」とこの時初めて実感が湧いたのであった。

 半日掛かりのフライトを経て、飛行機はモスクワのシェレメーチェボ空港に着陸した。窓から見える雪景色と、あちこちに書かれたロシア語が、私にロシアに着たのだという実感をもたらしてくれた。1月末のモスクワは寒く、最高気温も氷点下を下回っていた。

シェレメーチェボ空港、機内より


 やがて飛行機は完全に停止し、タラップが横付けられた。流暢なロシア語と、訛りの強い日本語で到着のアナウンスが流れる。まばらな人々は席を立ち始め、ゆっくりと飛行機を後にし始めた。私もキャビンアテンダントに見送られながらタラップを降り、送迎のバスに乗り込んだ。周りは皆ロシア人だらけ。ちらほらと私と同じような日本人留学生がいたが、私も含めて誰しもが不安と期待のまなざしであたりをきょろきょろとしていたのだった。

 入国ゲートにたどり着いた私は、入国審査を待つ人の数に圧倒された。様々な人種がゲートの前に集団を形成していた。アジア人、黒人、白人、中東系など数えればきりがなかった。中でも目立っていたのは中国人であった。何しろ白い防護服を身にまとい、ガスマスクを付けた集団が大きな声で話しているのだ。目立たないわけがなかった。

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入国審査待機列、白い防護服を着た中国人が分かる

 私は人だかりを押しのけながら、何とか入国審査の待機列に並び、その順番を待っていた。1時間程は並んだだろうか。あと2人ほどで私の番となるという時に、突如として中東系の顔をしたグループ5~6人に順番を抜かされたのだった。

 初めは何が起きたのか理解ができなかった。彼らが何か分からない言葉で会話している。私は順番を抜かされたのだと気が付き、汚い英語で彼らに「後ろに並べ!」と怒鳴った。彼らは動じることなく私を一瞥しただけで、相変わらず知らない言葉を話している。次に私はロシア語で「後ろに行け!」と言った。それでも彼らは動くことはなかった。

 どうしようもないことを悟った私は、やれやれと大人しく引き下がることにした。時を置かずして彼らの順番となったが、中々手続きが終わらないのであった。やけに時間がかかっている。入国審査官が何か険しい表情で彼らとやり取りしはじめ、やがて審査官はパスポートを突き返し、ゲートを閉めて彼らの入国を拒否したのだった。 
 実に痛快な瞬間であった。理由は分からないが、何か手続きに不備があったのだろう。ロシアに入国することのかなわなかった彼らは、憤然とした態度でどこかに連れていかれたのであった。

 ようやく私の番が来た。本当に偉大なのは日本のパスポートである。一切の滞りもなく私の入国手続きは完了し、無事にロシアの地を踏むことが出来たのであった。この時すでに着陸から2時間程度が経過していた。実はこの日は、Twitterで知り合った艦これオタクのロシア人がロビーで待ってくれている手筈となっていたので、思った以上に手続きに時間がかかったことに私はかなり焦りを感じていた。到着時刻の前から待っていてくれると連絡があったので、かなり待たせてしまっているはずだった。急いで預けた荷物を回収し、一体何を検査しているのかと聞きたくなる程にやる気のない税関を通過し、ようやく私はロビーにたどり着いたのであった。

ウラジミール君と私

 ロビーに出来ている人だかりを見渡す。事前に受け取っていた写真と、教えてもらっていた当日の恰好を参考に、それらしき人を探す。するとこちらに手を振っている青年に気が付いた。艦これオタクのロシア人、ウラジミール君と無事に合流出来たのであった。初めましての挨拶とお土産の交換を終えた我々は、旅行会社が手配したガイドと合流してホームステイ先へと行くだけとなった。

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ウラジミール君と座ったベンチの隣に、たまたまやってきた北京五輪ロシア選手団一行

 予め知らされていたガイドの連絡先に電話し、無事に到着した旨を伝え、今どこにいるのかを訪ねた。しかしなぜか電話口での要領が悪い。「何の話?」と言われる。一瞬番号を間違えたかと思ったが、そうでもなかった。「留学でやってきた日本人ですよ!」と何度か拙いロシア語で伝える。一瞬の間をおいて「Axa------!!!」という叫び声が電話口から聞こえたのだった。


 初っ端から軽いジャブを決められた私は行き場のない気持ちをTwitterに書き込んだ。


「空港に案内人いないのだが」


 間を置かずして相互フォローの在日ロシア人からリプライが飛んでくる。


「Welcome to Russia」

 

 電話をかけてから4時間後、ガイドが笑いながら空港やってきた。留学はまだ始まったばかりであった。


つづく・・・。

~風俗店勤務・留学開始編~ 完


あとがき

 ここまで読んでくださってありがとうございます。

 皆さん大変長らくお待たせいたしました!いよいよロシア留学の話に突入です。そこに至るまで少々長くなってしまいましたが、これでも大分話を削った方なんです。実を言うと、風俗店に勤め始めてすぐに彼女が出来まして・・・。

 と言うのも、ネットで登録したっきり忘れてたマッチングサイトにメッセージが飛んできたのです。その時の私は既にモスクワ留学を決めていた身。女性からのお声がけは大変嬉しくはあったのですが、正直に「ロシアに行くから付き合うことはできません、ごめんなさい。」と伝えたところ、「それじゃあ今度他の男の人とデートがあるので、その相談に乗って欲しい」と言われまして、「まぁそのくらいなら・・・」と相談に応じたところ、あれよあれよと出会う日取りと場所が決まっているじゃありませんか。とは言え落ち合う理由は別の男性とのデートの練習とデートスポットの下見というわけでございます。初対面でもあるわけですし、特段変な事にはならないだろうと会いに行きました。気が付いたら何故かラブホテルに入っていたわけなんですね~。休憩を終えてホテルを出るころにはもう彼氏彼女の出来上がりってなもんです。

 さりとて『本来ならば』、年単位のロシア留学をこの後予定していましたので、「留学に行くまでね」とお尻の期限を決めちゃった上でのお付き合いになっちゃったのです。今思えば本当に間が悪い出会いでした。

 そしてこれは本当に恥ずかしい話なのですが、僕では彼女を「満足」させてあげられず、結局年末にはフラれたというオチまでございます。養命酒、毎晩飲んで下半身鍛えなきゃね・・・。


 モスクワ初日の留学は軽めのキツいジャブから始まりました。結局シェレメーチェボ空港では、着陸から数えて6時間近くは待たされたわけなのですが、以前北京旅行に行った際は8時間も待たされたことがあったので、それに比べればまだマシでした。その時は大学同期の連中と北京旅行に行ったのですが、例のラブホ屋の友人のF君が乗った飛行機が、なんと航空会社がフライトプランを当局に提出していなかったという理由で出発できず、遅れに遅れたということがあったんです。なまじ現地集合にしてしまったことと、F君が幹事であったので、ホテルを含めて一切合切の予約は彼しか知らなかったという為に、8時間もの間を北京空港で過ごしたのでした。やっぱり東側の国に行くときは色々と気を付けないといけません。皆さんも海外旅行に行く際には是非お気を付けくださいませ。

 

 さて、次回から本格的にロシア留学について綴っていきます。現地では日記を書いていたので、それを基に留学中の日々を書いていこうかと思いますし、写真もドシドシ挟んでいきたいと思います。前後編の2部に分けるか、上中下の3部に分けるか悩みどころですね。そして空港に迎えに来てくれたウラジミール君には留学中、ほぼ毎日のようにお世話になりました。そんな彼との旅行記についても併せて書きたいなと思っています。

皆様からのコメントをお待ちしております。
誤字脱字等ありましたら、遠慮なくご指摘くださいませ。

それではまた続きのお話にて・・・。

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