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20050507 旧東海道を歩く(5)

 息子と二人で旧東海道を歩いた$${^{*1}}$$。

 カキツバタで有名$${^{*2}}$$な元禄年間に建てられた無量寿寺への道標$${^{*3}}$$があったので、街道から外れてそこへ寄ることにした。丁度「かきつばた祭$${^{*4}}$$」の最中らしい。

 十五分程度歩くと寺に着いた$${^{*5}}$$。中に入ってうろうろしていたら、観光案内のボランティアの方が八ツ橋の歴史を聞かないかと声を掛けてきた。一通り聞くには一時間ぐらいかかるという。東海道を岡崎に向かって歩いていて、ここは寄り道なので長居はできないという事情を話した。三十分程度に端折ることもできるということなので、案内をしてもらうことにした。

 亀の上に石碑が乗っている$${^{*6}}$$。亀好きの私としてこれは見逃せない。荻生徂徠の弟子の秋本嵎夷$${^{*7}}$$が八橋と業平とについての故事をまとめたものらしい。漢字三百五十七文字で記されている。内容が難しく未だかって全部読み上げた者がいないといわれているようだ。全部読み上げると下の亀が動き出すという伝説があるぐらいである。

 業平を慕って追いかけてきてこの付近の淵で身を投げた小野篁$${^{*8}}$$の娘とされる杜若(かきつばた)姫の供養塔$${^{*9}}$$、心字池$${^{*10}}$$の由来、心字池に水を入れるために掘ったと伝えられる方巖の井戸、辻灯籠などを説明して貰った。説明して貰ったが予備知識がない状態での説明なので内容の殆どが頭に残っていない。

 説明の中で亀の石碑以外で気に入ったものがもう一つあった。「八つ橋」という地名の由来についてである。この地名の由来はこの二つの小さな墓だという。菓子の名前の由来$${^{*11}}$$、八橋検校$${^{*12}}$$など「八橋」については今まで雑記草で何度か取り上げてきた。

 八橋の由来は逢妻男(あいづまお)川の下流域が八本に別れており、それぞれに橋が架けられていたのが由来といわれる。因みに水源を異にする逢妻女(あいづまめ)川$${^{*13}}$$という名の川もあり、これら二つの川は合流して逢妻川$${^{*14}}$$となる。

 昔、ここ八橋の辺りに羽田玄喜という医者がいて二人の子供があった。ところが子供が幼いうちに玄喜は亡くなってしまい、その妻が女手のみで子供を育てることになった。母親は生活の資を得るために入江浦で昆布などを採っていた。ある日、二人の子供が母親を慕って後を追い入江に行こうとした途中、川に落ちて二人とも溺れて死んでしまう。母親は嘆き悲しみ尼僧になりここに墓を建てた。

 暫くして大雨か何かで大量の流木が流れ着いた。これを利用して村人は川に八つの橋を架けた。

 更級日記$${^{*15}}$$には、既に橋は消失してしまってその地名だけが残っている$${^{*16}}$$、と書かれている$${^{*17}}$$らしい。またこの北斎の八橋の絵$${^{*18}}$$を見ると川に掛けられた橋には見えない。この頃から完全に観光地と化しているようだ。

 案内して頂いた方と記念写真$${^{*19}}$$を撮って、無量寿寺を後にした。寄り道ついでに少し鎌倉街道$${^{*20}}$$を歩くことにした。

*1 20050506 旧東海道を歩く(4)
*2 20030408 八ツ橋
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*4 史跡八橋かきつばたまつり
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*7 アルカディア第18号 収蔵品展 岡崎城下町の文芸
*8 六道珍皇寺と小野篁の不思議な伝説|大椿山 六道珍皇寺 公式サイト
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*10 無量寿寺のご案内
*11 20030514 宮城道雄の事故
*12 20030409 八橋検校
*13 新川流域・境川流域の総合治水対策 東海豪雨について
*14 新川流域・境川流域の総合治水対策 流域の概要
*15 更級日記とは | 更級日記千年紀2020
*16 更科日記(有朋堂文庫) 11 それよりかみは
*17 整版本『竹斎』の研究(その四)
*18 三河の八ッ橋の古図
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*20 鎌倉街道

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