見出し画像

20030514 宮城道雄の事故

 知人と酒を飲みに行った時のこと。砂肝の話$${^{*1}}$$の前後どちらか忘れてしまったが、京都の菓子の「八ツ橋」の由来$${^{*2}}$$について雑記草で書いたという話をした。その由来は三河八橋ではなく八橋検校という話から宮城道雄の話になった。

 宮城道雄$${^{*3}}$$も八橋検校と同様に盲目の琴奏者であり作曲家であった。「春の海$${^{*4}}$$」が有名だ。宮城道雄は現代の人である。小学生の頃、道徳の授業で幼い頃の宮城道雄の琴修行の話題が出てきた。確か宮城道雄だったと思う。そんな教科書に登場している人なので、何となく明治時代に生きた古い人だと思っていたが、亡くなったのは1956年(昭和31年)だった。

 亡くなった原因は事故である。東京から大阪に向かう寝台列車から転落して死んだ。その転落した場所は愛知県刈谷市$${^{*5}}$$というところだった。刈谷といえば私の住むところからそれ程離れていない。

 刈谷で死んだということを知人から聞かされて、この時初めて知った。生前、宮城と親交のあった内田百閒$${^{*6}}$$が「東海道刈谷駅$${^{*7}}$$」という随筆にその事故のことを詳しく書いているという。

 宮城の死を悼んで、事故現場の直ぐ近くに供養塔が建てられた。事故が起きてから二年後であった。しかし知人の話ではその供養塔は既に消失してしまっているというのだ。名もない一般の人でさえ、五十回忌までは法要を行う$${^{*8}}$$のに、いくら何でも事故後五十年も経ってもいない内に供養塔が消失するはずがない。

 探しに行ってみたらちゃんとあった。花崗岩でできた立派な石碑$${^{*9}}$$である。建てられている場所はJR刈谷駅を少し東に行ったところで、名古屋鉄道三河線が立体交差している付近である。JR線の上を名鉄線のガードが跨いでいる$${^{*10}}$$。このガードの下に落ちていた宮城$${^{*11}}$$が刈谷駅職員によって発見された。この時、まだ宮城は生きていて病院に担ぎ込まれる間、瀕死の状態ながら駅員と話を交わしている。現場から600mぐらい離れた豊田病院$${^{*12}}$$に運ばれ、そこで絶命した。

 供養塔の側面には「水の変態$${^{*13}}$$」「春の海」の音符が刻まれていた。裏面には宮城の生涯を綴った佐藤春夫$${^{*14}}$$の碑文があった。

*1 20030507 砂肝
*2 20030512 八ツ橋(2)
*3 宮城道雄の世界
*4 伊東 四朗プロフィール 小松政夫
*5 刈谷市ホームページ
*6 瀬戸町役場産業建設課 岡山県出身の随筆家 内田百けん
*7 近代文学編 うちだひゃっけん
*8 FAN倶楽部【生前予約の大進】 すぐに役立つ葬の手引き
*9 ●楽聖宮城道雄先生供養塔
*10 愛知県刈谷市幸町1丁目
*11 !邦楽らんど Hougakuland 悲しき記録 (宮城道雄最期の記録) 昭和31年 高瀬忠三
*12 刈谷総合病院
*13 ● 水の変態
*14 佐藤春夫と新宮市立佐藤春夫記念館

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?