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無職という才能

無職になることは一つの才能だ。誰しもできることではない。
社会的・経済的な拠り所を失うリスクをかけて、自分のセンスだけを拠り所に挑戦できる人はなかなかいない。無職と検索すれば、ネガティブな意見だらけだ。

その背景を考えると、社会と個人の側面がある。社会的には、無職が少ない方が、犯罪率の減少や益税効果などがあるからだと思う。個人においても、会社員の方が経済的な安定以外にも、生活リズムが整うことや、人間関係が形成され、アイデンティティが保護されたり、自己実現の機会と接続できることが挙げられ、ポジティブな側面がある。そういった理由などから、社会や個人における無職はネガティブなイメージが存在することにはロジックがあるし、何かやりたいことや自分のありたい姿が、会社や仕事で実現できる場合、そうした方が理想的であることは言うまでもないだろう。

しかし、もしその反対であれば、つまり、自分のありたい姿ややりたいことが現在、会社や仕事で実現することが困難である場合、無職になるオプションを選択して、その責任を負う覚悟がある人はどれぐらいいるのだろうと考えると、私は少数なのではなきかと思う。なぜなら、上述したように、あらゆる面で、不安だらけだからだ。

さらに言えば、無職の中でも、健康で楽しく、何かに挑戦する無職はもっと少ないと思う。なぜかといえば、自分のセンスを自分で信じることが困難だからだ。無職になれば、社会的・経済的に接続できない。そうなれば、拠り所は、自分自身の内側にしかない。年収などの経済力をはじめ、年収や会社のネームバリューといったステータスや、自分のスキルや能力は、自分を信じる上でもはや役に立たない。また、そういう自分の社会的な側面に接続されていた人間関係は、全てなくなる可能性もある。恋人や友人、親からも見放されてしまうかもしれない。

そういうリスクがある中で、いや、そういうリスクなんて度外視して、リターンがあるかも不確実で不透明なまま、裸一つのありのままの自分という人間を信じて、自分自身に生きることの価値を堪能できる人は不思議だが才能がある。本当の友達ができる。自分を丸ごと受け入れてる人は、他者を無条件に受け入れられるからだ。

いずれにせよ、理由はどうであれ、無職になるという選択を自分で決断した人は、自分の内面に価値尺度が存在していて、それを信じて行動できる人だと思う。

無職だから内面的な尺度が育ったのか、あるいは、本来、内面的な尺度が存在していたから、無職になれたのか、因果関係を整理することは難しいが、少なくとも、無職になった以上、自分の内側の尺度が存在し得ない限り、生存はできるか生活はできないし、さらに楽しく何かに挑戦して充実することは遥かに難しいことから、生きる価値を生み出すために、自分の内面生が育まれるのだと思う。

そういう難しい環境下で、自分だけは自分を信じ続けた経験それ自体が、その先にもう一度仕事をするにせよしないにせよ、振り返った時に輝いて見えることは疑う余地もない。そういう人は、何も持たない他者を無条件で受容できる。そう考えると、以前、何も持たない自分を信じてくれた人は、少なからず、無職的な経験をしていたのかもしれないと思いを馳せた。





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