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【ゆるっと西洋史】(2)フランク王国分裂から教皇権の絶頂まで

前回のお試し記事ではゲルマン民族の大移動からカール大帝の治世までを扱った。たくさん需要があるわけではないが、必要としてくれる人が一応いたので、これからもゆるゆる書いていきたい。今回からは1記事あたりの記事が長くなるが許してほしい。


フランク王国の分裂

フランク人は分割相続の習慣があったため、国王が亡くなった際に領地は嫡男(長男)のみに相続されるのではなく、子どもたちすべてに均等に割り当てられる。カール大帝の死後、3人の男子のうち上の2子はすでに亡くなっていたため、全ての領地は三男のルイ(敬虔王)に継承された。
ルイにはロタール・ピピン・ルートヴィヒの他に後妻との子どもであるシャルル(禿頭王)がいたが、シャルルを偏愛したことから、3人の兄達の反乱を招く。この混乱の中でルイとピピンが亡くなり、領地を巡って三兄弟が戦い、843年のヴェルダン条約で王国は3つに分割された。ロタールは西ローマ帝国皇帝の帝位と中部フランク・北イタリアを、ルートヴィヒは東フランクを、シャルルは西フランクを獲得した。

ヴェルダン条約(843年)とメルセン条約(870年)

しかし、同じことが繰り返されるのが歴史というのだろうか、ロタールの死後再び領土争いが再燃する。870年のメルセン条約で、北イタリアを除く中部フランクは東西フランクに併合されることになった。これがのちのイタリア・ドイツ・フランスの基礎となる。

イタリア

イタリア南部は9世紀前半からイスラーム勢力による侵攻を受けていた。10世紀初頭にはシチリア島全域が支配されてしまう。北部や中部はマジャール人の侵攻があり、都市では住民達が団結して防衛を図ったことをきっかけに、自治意識が高まっていった。しかし11世紀半ばには地中海からヴァイキングの襲撃を受け、国内政治が乱れがちだった。

東フランク

東フランク(ドイツ)では、部族に基づく諸侯が勢力を広げていた。カロリング朝断絶後は、諸侯の中から新しい国王を選ぶようになったが、こういうものには抗争がつきまとう。同時にこの頃は周辺の民族(東はマジャール人・スラヴ人、北はデーン人)の活動が活発になっていた。
ザクセン太公のハインリヒ1世が即位すると、敵対する諸侯を抑え、辺境地帯の防衛設備を強化した。これは中世のドイツ人の東方進出のきっかけとなる。
ハインリヒの死後は息子のオットー1世が即位し、ドイツの司教に領地を与えて諸侯と同等の権利を与え、教会を国家の組織に組み込む帝国教会政策をとった。
イタリアの領土を巡ってドイツ国内で諸侯達の駆け引きが続く中、オットー1世は2回にわたるイタリア遠征を行い、961年の2回目の遠征では教皇ヨハネス12世の救援要請を受けたことから、翌年962年にローマ皇帝の帝冠を受ける。これが神聖ローマ帝国の誕生である。

西フランク

西フランクでもシャルル禿頭王の晩年から諸侯が勢力を伸ばして政情が不安定になっていた。同じ時期に北海方面からノルマン人(デーン人)の侵入を受けていた。カロリング朝が断絶すると、カロリング家と王位を巡って対立していたロベール家のパリ伯ユーグ=カペーが即位し、カペー朝が成立した。

ヴァイキング

「ヴァイキング」というのはノルマン人の自称で、「入江の民」「市場の民」「漂泊の民(定住しない)」などさまざまな解釈がある。ノルマン人は、ノルウェーのノール人・デンマークのデーン人・スウェーデンのスウェード人から成る。
ノール人はアイルランドやブリテン諸島に進出、デーン人は北西フランスに進出してノルマンディー公国を建国した。
ノルマン人は地中海にも進出し、ルッジェーロ2世が南イタリアとシチリアを合わせて両シチリア王国を建国した。

スウェード人はというとスラヴ人との交易や略奪を行なっていた。東スラヴ人がスウェード人の一派であるルーシ(ロシアの語源とも言われる)からリューリクを招き、ノヴゴロド国を建国して混乱を収めた。リューリクの死後はオーレグという人物がキエフを占領し、キエフ公国を建国した。これがのちのロシアの基盤の一つとなる。

封建社会と荘園制

封建制

本当は時間をかけて説明する項目だが、あくまで流れを掴んでもらいたいだけなので簡潔にまとめる。
主君が家臣に土地を与え、その代わりに家臣が忠誠心で応える(戦時に参戦するなど)ことが一般的な封建制である。
ヨーロッパでは国王を頂点に、〜侯や〜伯みたいな大諸侯、その下に中小諸侯、騎士というヒエラルキーがあった。ヒエラルキーがあるものの、身分的には国王も諸侯も騎士も騎士 knightであり、騎士道精神という一定の道徳観に基づいた行動が求められた。女性や弱者への慈愛精神もその一つである。しかし、中世末には農民出身の歩兵の出現や鉄砲の使用の広がりにより、騎士と騎士道は衰退していく。

荘園制

荘園は通常主君から家臣に与えられた土地のことを指すが、そこには耕作する農民も含まれている。家臣は土地を与えられたらその土地とともに農民達も支配することになる。この時代の農民は農奴と呼ばれ、家族・住居・農具を持つことは認められたが、荘園の外に移動したり、職業を変えたりすることは許されなかった。作物を育て、決められた分を領主や教会に献上することしか認められなかったのだ。のちに貨幣経済が浸透すると、税を作物ではなく貨幣で納めるようになり、農奴の地位も向上していく。

教会の権威の上昇

ローマ=カトリック教会は、各地の諸侯や国王から土地の寄進を受けた結果、政治的にも世俗諸侯と並ぶ勢力となった。聖職者の組織も整備され、ローマ教皇を頂点として大司教・司教・司祭・修道院長などのヒエラルキーが成立した。また、教えや慣習を取り決める公会議の決定が尊重されるようになった。

世俗諸侯と関わるようになれば教会の世俗化が進むのは仕方ないことで、聖職者が妻帯したり、聖職を売買したりするなど、一部腐敗した。教皇グレゴリウス7世は教皇庁改革に乗り出し、教皇権は至上であり俗権に優越することを宣言した。これは帝国教会政策を進めるドイツ国王ハインリヒ4世との対立をもたらし、1077年にカノッサ事件カノッサの屈辱)が起こる。簡単に言うと、ハインリヒが司教と共謀して教皇廃位を目論み、それにキレた教皇がハインリヒを破門した。周りの諸侯達がハインリヒの破門が1年以内に解かれなければ国王を廃位すると決定し、孤立したハインリヒは教皇に赦しを求めて雪の中城門の前で裸足のまま祈りと断食を三日間行い、やっと波紋を解かれて屈辱を味わったという事件である。

その後、教皇ウルバヌス2世はグレゴリウスの改革を継承するとともに、十字軍を派遣して強行の権威の強化を図った。インノケンティウス3世は十字軍だけでなく、ドイツやフランス、イギリス国王を破門して屈服させたことで、教皇の権威は絶頂に達した。

この頃の文化芸術

いわゆる中世という時代の文化の担い手は主に修道士であるが、騎士道精神に基づいた文化も登場するので少し紹介したい。
ドイツ語圏では、12〜14世紀にミンネザング Minnesangと呼ばれる中高ドイツ語の抒情詩が発達した。主に騎士が身分の高い女性に対して抱く敬愛などの宮廷における愛や騎士道を題材としており、プラトニックな内容のものが多い。フランスのトゥルバドゥールに当たる。
有名なのはハーゲナウ Reinmar von Hagenauや、フォーゲルヴァイデ Walther von der Vogelweideで、後者は国王から封土まで与えられているし、後世でも評価され、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》に副主人公として登場する。

基本的にこのシリーズでは文化史についてあまり触れないが、私の専門に関わる事項についてはたまに言及する。

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