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時代は何度も繰り返されている。末法、ハルマゲドン、大建て替えの今

始めに

私は、現在、複雑に成り過ぎている考えを、まとめる為に苦戦し、その為、同じ内容をくどく、説明する場合もあるが、まだ、その部分を、読まれていない人の為にあえて、割愛せず、説明している場合も、ある事を、理解して頂きたい。(2020/06/05一部修正加筆)
なお、最下部に、note「ブラックホールの歴史も含む、大乗、ヨーガで、読み解くコロナの原因!」がありますが、主要記事でもありますので、是非ともご覧頂きたく存じます。そちらの記事から来られた方は、本編及びリンク集をご覧頂き、協力程よろしくお願いいたします

地動説から天動説に戻る事もある。

宇宙はビッグバンにより始まり、ヒモ理論や、プログラム説など、様々に、考察されているが、真面目に、真剣に、研究なされている人には、失礼なのだが、結論から言えば、死後の世界を語る如く、推理、推測の枠を超えて、絶対と言う答えは、ありえない。
何故なら、「時」として、絶対なものは、「今」しかなく、過去のデータである、様々な証拠や、如何に素晴らしい理論とて、将来、いつくつがえさせられるか、未来は不明であり、その時代における、最先端的理論という意味では、もちろん価値を有する訳であるが、例えば、地球が、大地と言う観念から、地球と言う観念に、変わった訳であるが、現在、この世プログラム説により、具体的実態というモノが、ある種幻の如く、プログラムによって、具現している、いわゆる感覚的に実態感を得ている世界である、と言う見解に見直される、可能性もある訳であり、真は、先に原因があるのではなく、疑問によって、原因や、実態が、創られてゆく、「思考が現実化する」世界である可能性も、あると私は、指摘したい。
天動説から地動説へ、変わった背景は、一人の人物が、理に反する現象を元に、唱えだした理論が、時をへて、実った考えであるが、現実には、我々の、日常的感覚において、地球と言う大きな惑星が、動いていて、その、速度が、どれほどのものであるかは、知れないが、慣性の法則に従うなら、飛びあがって、着地する時に、同じ地点に着地するのはわかるが、慣性の法則で、緯度の違いにより、極部、つまり、南極と北極における、時間の進み方と、赤道直下の時間の進み方は、大きく違ってくるはずと思えるし、我々は、自転により相当な、速度で、進んでいると考えられる訳であるが、学者的な思考力がない為に、矛盾を証明するまでの論理を立てられないが、地動説を天動説に戻す理論も、生じて来ても、おかしくない程に、時を得ていると思える。

理解したい2つの事柄

タイトルと大きく離れているが、まず、我々が、理解すべき第一段階は、以前にも述べた、「ない」というのは、真にはなく、「存在が全てであり、存在の中に、あるを理解する為のない、として、無と言う、全てがある状態で、ないを理解させている」というマジックによって、「ある」を理解させていること。
次に、理解すべき事は、変化と言う、一方的に流れる「時」と,物理的「時空」という、いわゆる、存在の中に実存する、時空として変化なく存在する物、との違いを理解する事である。
まず、時は、軌跡として記憶にとどまる事が出来ても、後戻りは、出来ないが、物理的時空は、いわゆる、パラレルワールドとして無限に、ある意味、存在しているのであるが、これを、実存から実在に変える事が、いわゆる、タイムトラベルや、時空トラップ、等々に応用する原型となると、考察するが、ドラマで、動画にした世界の様に、その原理は、録画的に創造し、作る物でもあると考えるのだが、無限と言う考えを当てはめるなら、既に、それらは、出来上がっている可能性もありえること。
時空に関し、説明を加えるなら、実在する世界は、私的考察を述べるなら、既に出来上がっているからこそ、この世界の様に確かな、実在として経験できるのであり、言い換えるなら、既に創られた時空世界を、我々は、生きていると言え、この世が、ドラマや映画の様に、定まった世界で有るのか、ゲームの様に、運命を分ける分岐点の様な、選択ポイントがあるのか、はたまた、もっと自由に思い通りになる、シミュレーション世界であるかは、分らないが、この世における時代というものは、生きる背景として、あるものであり、又、この時代あるいは、歴史的認識は、おそらく、人それぞれに、国それぞれに、違うものであると考察できる。
そして、これは、妄想、あるいは、想像と、考えて頂いても結構であるが、これらの世界と言うソフトが、様々に存在する世界というのが実在しており、現に、この世においても、録画や、オンラインゲームがあり、それを、楽しむ世界として、この世が実在するのであるから、この世を、その様に、楽しんでいる世界が実在していても、おかしくない訳であるが、ゲームが、何度も、繰り返し行われる様に、録画が、何度も楽しめる様に、この世とて、何度となく繰り返されていても、おかしくない訳であるが、それらの実情を知って生まれ来る生命もまたあると想像され、その人達にとっては、遊び場でしかないわけであるが、ゲームだからと言って、遊びで行っているとは限らず、そのゲームの中の世界をより良い楽しい世界へと変えんとして行っている場合もあり、この世のゲームの勝敗が、現実の世界に大きく関与する世界の存在も考えられ、それゆえ、この世の人生を命懸けで戦う人々も過去に存在しているとも考えられる。
又、別の考察であるが、外界、つまり、自分の外の世界は、自己の内部の世界の映し鏡と考え、別人の世界の存在も認めた上で、自己の回り、出来事は、自分が存在するが故に、存在している、と言う最も、基本的な事実を踏まえ、自分に起きる出来事と別人に起きる出来事が違う事を認識し、自己の前の存在は、自分の世界の住人としての、その人と、その人本来のその人が存在するという、考えで見た場合、各々は、違う時間軸を紆余曲折的に生きているのであるが、自分の前に現われるその人は、自分の世界の住人でいつもあり続けるが、その中に存在する本来のその人は、一期一会であり、常に違う、パラレルワールドの住人であると理解するに至る。
ここで、うわさと言う物について考えたいのであるが、本来、自分自身すら、時と共に変化しており、一本の真っ直ぐな時間軸を歩んでいる訳ではない。火のない所に煙は立たぬ!と言う言葉は、一理あるが、うわさの出所について知れるわけでもなく、波紋が波紋を呼び広がり、曲って伝わる事もあり、どこの世界のその人物から広がった情報かも、わからない。
私は、小学校のある時期、問題児扱いされていたようであるが、その理由について、何ゆえか、今でもわからないのであるが、偏見を抱いて見ていると、その様に実際に、その人の運命までも、ゆがめて、悪でない悪を生み出す事も充分にあり得る。

松本サリン事件

麻原彰晃こと松本智津夫氏が、サリン事件を起こし、巨大な悪の集団組織であったとされ、死刑にさせられた件は、この話と外れるかも知れないが、殺しを悪とする法律が、死刑と言う殺しを正当化していたり、保健所などで、犬、猫、などが、ガス始末している、現世のあり方が、私には、今回、入院の引き金を引く原動力ともなったのであるが、それと、同じ見え方が、彼の、彼らの中にあったのかも知れないと、感じる時、この世は全く悪の世であり、信じるに値する事の出来るものは、ある意味、見えない。ただ、多くの人びとは、善良に生きているとは、信じたいが、麻原を改心させた後に死刑を行う、この世の罪は、私は、心に強く止めおきたいと考える。ただ、現在の急務は、裏の説明が、行われ、現実には殺されては、いないのなら別である。
個人の力と言うものは、それのみにおいては、全く無力であることを知るに知らされ、世界で、派閥闘争や、戦争、戦略的支配など、今の私には、ある意味、ここは、地獄の3丁目かとも思えるが、むかし、記した事がある、よい方によい方に解釈して行くと、よい方に向かうと言う言葉に、私自身が、責任を取れなくなったのは、残念ではあるが、高校の時、とある、共産主義者の先生が述べた、ペンで勝つと言う、青い考えに、半ば、絶望的に従い、書いているのであるが、善良な人々が、まだまだ、沢山いると信じ、死刑や、保健所の問題について寄り道したが、今回2020/2/10~同年/3/2の入院中に、たまたま、浮かんだ、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」と言った人物の気持ちがわかる気がすると、書いたメモを見せた時、「生きる意味、死ぬ事の答えは、結局自分」と答えたのか、おしえてくれたのか、知らないが、物事への執着についても、当てはまる解答の様なきがするが、私が、何故、「この世は何度も繰り返されている」と言う答弁を書いているかと言えば、この世は、無限の時の先端であるにも関わらず、平和と安心すら実現されておらず、時代的に見ても、相当遅れた時代である様にしか、映らないのだが、この時代は、時代背景としての時代であり、既に、はるかに高度で複雑な構造で、機能している「時」の先端社会であり、その様な、事実が、現に実在していて、ある意味、安全ではあるが、物語的に、危険な時期を迎えており、それは、たとえば、末法の世、キリスト教に言うハルマゲドン、ひふみ神示に言う大建て替えの時期であり、どの様な災害、危機、餓鬼、に見舞われる可能性も高く、事実、コロナのような災害も報道でなされているし、仕事に付けず、苦しんでいる人も多いのではあるが、不謹慎を承知で述べるなら、今こそ、開き直って、ちっぽけな欲や、おびえを捨て、全てを天に任せて生きるような、生き方をすべき時かもしれない。
きれい事の裏に潜む、自己内部の悪をあぶり出し、自己の正義の偽りの仮面を壊し、自己内部に潜む、本心が、いかなる穢れた霊であるかを、確認したのち、それらの、偽善を正しく導き、真の悪が、実は、真実を知っている正義の正当性を主張し、このウソまみれに穢れたこの世の邪気祓いを行う為に、真実が、何であるかを、考え直し、自己内部から澄み渡る清き清水の井戸を掘りあてるべき時期であると考えている。

全体集合 I  (アイ)=私

とにかく、人は、それぞれ、各々、自分の世界で生きており、算数で習った、全体集合 I (アイ)は、私は、この世を解くカギとして、全体集合の記号を、アイ(I)とし、つまり、私、あなたにしてみれば、あなたが I  であり、又、アイは愛でもあると硬く信じるが、I の裏側は、ABCD EFG HIJのアルファベットで行くと、Jらしい、であり、ジェラシーであるが故、曲った愛のカタチもある事に注意したい。Jは、音意字意で読むと、「じえい」で自衛の意味もあると、2020/06/05/9:30わかった。
又、I は。アルファベット第9番目の文字であるが、9には、苦の意味もあるが、此処のつであり、此処(ここ)の世界の意味も持つと思われ、此処とは、基本的に自分が立っている位置であり、地獄に居ようが、天国に居ようが、ここは、自分の位置であり、インデアンであるネイティブアメリカンの哲学、宇宙の中心は、自分である。という考えは、本来的に的をえた哲学と私個人は考えるし、ひふみ神示下巻にも、神を拝んでいるようではまだまだじゃ、自分を拝み、神に解け入れという節があったと記憶する。
おごり高ぶりによって他を見下すのは良くないが、己を拝み、己の中の神聖を高め、別人の中の神聖を認め、尊重しあうのが、まことの祀り(まつり)ではないかと思う昨今である。 





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